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第2章:記憶のレシピと訪れる人々
第29話:もう一度、ペンを握る
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メープルクッキーの優しい甘さは、拓海の心の奥深くへと、じんわりと染み渡ったようだった。
彼の強張っていた表情は、クッキーを一口食べるごとに、少しずつ、まるで硬い蕾がゆっくりと綻んでいくように解けていく。
指先で、残りのクッキーを丁寧に拾い上げ、彼はそっと口に運んだ。
その仕草の一つ一つに、以前には見られなかった、穏やかな光が宿っていた。
「あの……」
拓海が、おずおずと口を開く。
「花さんが、『夢って、綺麗な形じゃなくてもいいんだ』って言ってくれた時、なんか……
すごく、すとんと腑に落ちたんです」
彼の視線は、テーブルの上の、形が不揃いなクッキーたちに注がれている。
「俺、ずっと、完璧な絵を描かなきゃいけない、って思い込んでて……。
描けば描くほど、理想と現実のギャップに苦しくなって、結局、筆を折ってしまったんです」
言葉を区切るたびに、彼の声に、わずかな震えが混じる。
しかし、その声は、以前のような諦めの色ではなく、どこか吹っ切れたような、清々しい響きを帯びていた。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、まだかすかな疲労の色が残っているものの、以前見た、全てを諦めたような虚ろさは消え失せていた。
代わりに、そこに宿っていたのは、微かな光――失いかけていた情熱の、小さな残り火のようなものだった。
「でも、花さんの話を聞いて、このクッキーを食べたら……」
彼は、言葉を探すように、宙を彷徨う。
「完璧じゃなくても、誰かの心を温められるなら、それも、一つの形なんだなって……」
その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
私の、不器用な言葉と、形も不揃いなクッキーが、彼の心に確かに届いたのだ。
静かに彼の話を聞いていたみたらしが、フンと鼻を鳴らした。
「やれやれ。
人間というものは、いつもシンプルなことほど見失う。
だが、気づけばそれでいい」
彼の心の声は、いつものように辛辣だが、その響きには、微かな満足感が滲んでいるように聞こえた。
拓海は、みたらしの言葉には気づかないまま、再び私に視線を向けた。
「あの……
もう少しだけ、描いてみようかなって」
そう言って微笑んだ拓海の顔は、まるで雨上がりの空のように、澄み切ったものだった。
諦めの影は、もうどこにも見当たらない。
彼の心に、再び創作の喜びが、静かに、けれど確かに芽生え始めているのが伝わってくる。
「ありがとうございます、花さん。本当に……
救われました」
拓海はそう言うと、持っていたカバンから、細いペンと、カフェに置いてあったナプキンを取り出した。
慣れた手つきで、サラサラと線を描いていく。
流れるような曲線、的確な輪郭。
彼の視線は、私の膝の上で丸まっているみたらしに注がれている。
迷いのないペン先の動きは、まるで彼の中に眠っていた才能が、再び息を吹き返したかのようだった。
数分もしないうちに、ナプキンには愛嬌のある、けれどどこか達観した表情のみたらしのイラストが描き上げられていた。
ふっくらとした三毛猫の姿は、みたらしそのものだ。
しかし、その瞳には、人間を見透かすような賢さと、ほんの少しの呆れが、見事に表現されている。
「これ、お礼です。
描かせてもらいました」
拓海は、少し照れたように、そのナプキンを私に差し出した。
紙の端が少しだけめくれていて、まだインクの匂いが微かに漂っている。
「わぁ……!
すごい、みたらしだ!」
私は、感動して、思わず声を上げた。
みたらしは、迷惑そうに目を細めて「やれやれ」と心の声で呟いたが、その尻尾は、普段よりも大きく揺れているようだった。
拓海は、満足げにそのイラストを眺め、再び私に深々と頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました。
また、来てもいいですか?」
彼の声には、明日への希望が満ち溢れている。
私は、最高の笑顔で頷いた。
「もちろんです。
いつでも、お待ちしています」
彼が立ち去った後も、メープルの甘い香りと、描き残されたみたらしのイラストが、カフェに温かい余韻を残していた。
私の手の中にあるナプキンが、何よりも確かな、今日の喜びを物語っていた。
彼の強張っていた表情は、クッキーを一口食べるごとに、少しずつ、まるで硬い蕾がゆっくりと綻んでいくように解けていく。
指先で、残りのクッキーを丁寧に拾い上げ、彼はそっと口に運んだ。
その仕草の一つ一つに、以前には見られなかった、穏やかな光が宿っていた。
「あの……」
拓海が、おずおずと口を開く。
「花さんが、『夢って、綺麗な形じゃなくてもいいんだ』って言ってくれた時、なんか……
すごく、すとんと腑に落ちたんです」
彼の視線は、テーブルの上の、形が不揃いなクッキーたちに注がれている。
「俺、ずっと、完璧な絵を描かなきゃいけない、って思い込んでて……。
描けば描くほど、理想と現実のギャップに苦しくなって、結局、筆を折ってしまったんです」
言葉を区切るたびに、彼の声に、わずかな震えが混じる。
しかし、その声は、以前のような諦めの色ではなく、どこか吹っ切れたような、清々しい響きを帯びていた。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、まだかすかな疲労の色が残っているものの、以前見た、全てを諦めたような虚ろさは消え失せていた。
代わりに、そこに宿っていたのは、微かな光――失いかけていた情熱の、小さな残り火のようなものだった。
「でも、花さんの話を聞いて、このクッキーを食べたら……」
彼は、言葉を探すように、宙を彷徨う。
「完璧じゃなくても、誰かの心を温められるなら、それも、一つの形なんだなって……」
その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
私の、不器用な言葉と、形も不揃いなクッキーが、彼の心に確かに届いたのだ。
静かに彼の話を聞いていたみたらしが、フンと鼻を鳴らした。
「やれやれ。
人間というものは、いつもシンプルなことほど見失う。
だが、気づけばそれでいい」
彼の心の声は、いつものように辛辣だが、その響きには、微かな満足感が滲んでいるように聞こえた。
拓海は、みたらしの言葉には気づかないまま、再び私に視線を向けた。
「あの……
もう少しだけ、描いてみようかなって」
そう言って微笑んだ拓海の顔は、まるで雨上がりの空のように、澄み切ったものだった。
諦めの影は、もうどこにも見当たらない。
彼の心に、再び創作の喜びが、静かに、けれど確かに芽生え始めているのが伝わってくる。
「ありがとうございます、花さん。本当に……
救われました」
拓海はそう言うと、持っていたカバンから、細いペンと、カフェに置いてあったナプキンを取り出した。
慣れた手つきで、サラサラと線を描いていく。
流れるような曲線、的確な輪郭。
彼の視線は、私の膝の上で丸まっているみたらしに注がれている。
迷いのないペン先の動きは、まるで彼の中に眠っていた才能が、再び息を吹き返したかのようだった。
数分もしないうちに、ナプキンには愛嬌のある、けれどどこか達観した表情のみたらしのイラストが描き上げられていた。
ふっくらとした三毛猫の姿は、みたらしそのものだ。
しかし、その瞳には、人間を見透かすような賢さと、ほんの少しの呆れが、見事に表現されている。
「これ、お礼です。
描かせてもらいました」
拓海は、少し照れたように、そのナプキンを私に差し出した。
紙の端が少しだけめくれていて、まだインクの匂いが微かに漂っている。
「わぁ……!
すごい、みたらしだ!」
私は、感動して、思わず声を上げた。
みたらしは、迷惑そうに目を細めて「やれやれ」と心の声で呟いたが、その尻尾は、普段よりも大きく揺れているようだった。
拓海は、満足げにそのイラストを眺め、再び私に深々と頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました。
また、来てもいいですか?」
彼の声には、明日への希望が満ち溢れている。
私は、最高の笑顔で頷いた。
「もちろんです。
いつでも、お待ちしています」
彼が立ち去った後も、メープルの甘い香りと、描き残されたみたらしのイラストが、カフェに温かい余韻を残していた。
私の手の中にあるナプキンが、何よりも確かな、今日の喜びを物語っていた。
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