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第2章:記憶のレシピと訪れる人々
第31話:色を失った画家と、雨上がりのカフェ
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レジ横の壁に飾られた拓海の描いたみたらしの絵を眺めていると、心がすっと軽くなる。
私のカフェでの仕事は、誰かの心を温め、忘れかけていた情熱に再び火を灯すことができる。
そう確信した翌日、私はいつものように開店準備に取り掛かっていた。
木々が色づき始めた秋の午後のことだった。
しとしとと降っていた雨が上がり、葉に残った雨粒がキラキラと光を反射させている。
そんな日の昼下がり、カフェの扉がゆっくりと開いた。
そこには、初めて見る男性が立っていた。
彼は、傘から滴る水滴を払いながら、店内へと足を踏み入れる。
身長が高く、細身の体躯に、黒いコートがよく似合っていた。
その顔は、色素の薄い肌に、伏せられた長い睫毛が影を落とし、まるで彫刻のように整っている。
しかし、その端正な横顔には、深い疲労と、全てを諦めたような虚ろな色が浮かんでいた。
都会の喧騒から離れたこの場所には不釣り合いなほど、洗練されていながらも、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。
男性は、店内を見回すこともなく、一番奥の窓辺の席に、まるで吸い寄せられるように座った。
そこは、いつも藤堂さんが座る、陽当たりの良い特等席だ。
彼はメニューにも目をくれず、ただぼんやりと、雨上がりの庭を眺めている。
その様子は、まるで彼の目に映る世界が、全て灰色に染まっているかのように見えた。
私は、そっと淹れたてのコーヒーを彼のテーブルに置いた。
「いらっしゃいませ。
温かいコーヒーで、少しでも体が温まりますように」
そう声をかけると、男性はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、深い湖の底のように静かで、感情の揺らぎがほとんど感じられない。
彼は、微かに唇を動かし、「……有栖川、冬真です」と、か細い声で名乗った。
私は会釈を返し、そっと厨房へ戻った。
カップを置いた時に、彼の指先がちらりと見えた。
微かに、色とりどりの絵の具がこびりついている。
その痕跡は、彼の職業を静かに物語っていた。
「画家、なのかな……」
私の胸に、微かなざわめきが生まれた。
彼の纏う諦めの色が、かつて都会で夢を諦めた頃の自分と重なったのだ。
みたらしは、私の膝の上で丸まりながら、いつもより長い時間をかけて、その男性をじっと見つめていた。
普段なら、新しい客が来ても、そこまで興味を示さない彼が、珍しく視線を固定している。
やがて、彼はフンと鼻を鳴らし、私の思考を見透かすかのように心の声で呟いた。
「あの男からは、色のない匂いがするな……」
私は、思わずみたらしに視線を向けた。
「色のない匂い……?」
彼の言葉が、すとんと胸に落ちてくる。
確かに、彼から感じるのは、あらゆる色が抜け落ちたような、くすんだ空気だった。
まるで、世界が灰色に染まってしまい、彼自身もその中に溶け込んでしまっているかのようだ。
みたらしは、さらに続ける。
「まるで、世界が灰色に見えているみたいだな。
可哀そうに……。
人間は、目に見えるものばかりを追いかけるから、時に本質を見失う」
彼の言葉は、常に的確で、私の心を揺さぶる。
あの男性も、何かを失って、苦しんでいるのだろうか。
彼の疲弊しきった横顔を見ていると、胸の奥がちりりと痛んだ。
このカフェのお菓子は、そんな彼の心に、再び色を取り戻せるだろうか?
私は、深く息を吐き出し、静かに彼を見つめた。
カフェには、秋の終わりを告げるような、冷たい風が吹き抜けていた。
私のカフェでの仕事は、誰かの心を温め、忘れかけていた情熱に再び火を灯すことができる。
そう確信した翌日、私はいつものように開店準備に取り掛かっていた。
木々が色づき始めた秋の午後のことだった。
しとしとと降っていた雨が上がり、葉に残った雨粒がキラキラと光を反射させている。
そんな日の昼下がり、カフェの扉がゆっくりと開いた。
そこには、初めて見る男性が立っていた。
彼は、傘から滴る水滴を払いながら、店内へと足を踏み入れる。
身長が高く、細身の体躯に、黒いコートがよく似合っていた。
その顔は、色素の薄い肌に、伏せられた長い睫毛が影を落とし、まるで彫刻のように整っている。
しかし、その端正な横顔には、深い疲労と、全てを諦めたような虚ろな色が浮かんでいた。
都会の喧騒から離れたこの場所には不釣り合いなほど、洗練されていながらも、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。
男性は、店内を見回すこともなく、一番奥の窓辺の席に、まるで吸い寄せられるように座った。
そこは、いつも藤堂さんが座る、陽当たりの良い特等席だ。
彼はメニューにも目をくれず、ただぼんやりと、雨上がりの庭を眺めている。
その様子は、まるで彼の目に映る世界が、全て灰色に染まっているかのように見えた。
私は、そっと淹れたてのコーヒーを彼のテーブルに置いた。
「いらっしゃいませ。
温かいコーヒーで、少しでも体が温まりますように」
そう声をかけると、男性はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、深い湖の底のように静かで、感情の揺らぎがほとんど感じられない。
彼は、微かに唇を動かし、「……有栖川、冬真です」と、か細い声で名乗った。
私は会釈を返し、そっと厨房へ戻った。
カップを置いた時に、彼の指先がちらりと見えた。
微かに、色とりどりの絵の具がこびりついている。
その痕跡は、彼の職業を静かに物語っていた。
「画家、なのかな……」
私の胸に、微かなざわめきが生まれた。
彼の纏う諦めの色が、かつて都会で夢を諦めた頃の自分と重なったのだ。
みたらしは、私の膝の上で丸まりながら、いつもより長い時間をかけて、その男性をじっと見つめていた。
普段なら、新しい客が来ても、そこまで興味を示さない彼が、珍しく視線を固定している。
やがて、彼はフンと鼻を鳴らし、私の思考を見透かすかのように心の声で呟いた。
「あの男からは、色のない匂いがするな……」
私は、思わずみたらしに視線を向けた。
「色のない匂い……?」
彼の言葉が、すとんと胸に落ちてくる。
確かに、彼から感じるのは、あらゆる色が抜け落ちたような、くすんだ空気だった。
まるで、世界が灰色に染まってしまい、彼自身もその中に溶け込んでしまっているかのようだ。
みたらしは、さらに続ける。
「まるで、世界が灰色に見えているみたいだな。
可哀そうに……。
人間は、目に見えるものばかりを追いかけるから、時に本質を見失う」
彼の言葉は、常に的確で、私の心を揺さぶる。
あの男性も、何かを失って、苦しんでいるのだろうか。
彼の疲弊しきった横顔を見ていると、胸の奥がちりりと痛んだ。
このカフェのお菓子は、そんな彼の心に、再び色を取り戻せるだろうか?
私は、深く息を吐き出し、静かに彼を見つめた。
カフェには、秋の終わりを告げるような、冷たい風が吹き抜けていた。
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