『古民家カフェ月見草と、記憶を繋ぐ猫のレシピ』

月影 朔

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第4章:月見草の未来

第52話:パティシエの誘い、揺れる心

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 春の柔らかな日差しが、古民家カフェ「月見草」の木製の床にまだらな光の模様を描いていた。

 庭の梅は満開を迎え、甘く清らかな香りが風に乗って店内まで漂ってくる。

 常連客たちの穏やかな笑顔と、楽しそうな話し声が、空間を温かく満たしていた。

 この場所が私の居場所だと、心からそう思っていた。

 そう、思っていたはずだったのに――。

 その日、カフェに一台の高級車がゆっくりと滑り込んできた。

 山奥の古民家には不釣り合いな輝きに、思わず目を奪われる。

 扉が開くと、そこには洗練されたスーツを身につけた一人の男性が立っていた。

 その立ち姿は都会の空気を纏っているかのようだった。

「桜井花さんでいらっしゃいますか?」

 張りのある声が、静かな店内に響き渡る。

 私はエプロンの裾をぎゅっと握り締め、小さく頷いた。

 男性は穏やかな笑みを浮かべ、名刺を差し出した。

 そこには、誰もが知る都会の有名レストランのロゴと、オーナーシェフの名前が誇らしげに記されていた。

「実は、桜井さんの作るお菓子の評判をかねがね耳にしておりまして」

 オーナーは丁寧な言葉遣いで話し始めた。

「SNSなどで拝見するたびに、その独創性と温かさに感銘を受けておりました。
ぜひ、うちのレストランで、パティシエとして腕を振るっていただきたい」

 その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中は真っ白になった。

 心臓がドクドクと音を立て、喉の奥がカラカラに乾く。

 まるで、時間が止まったかのようだった。

 都会の有名店。

 それは、かつて私が必死に追い求め、けれど挫折した夢の象徴。

 あの頃は、名声や技術ばかりを追い求め、目の前の人々の笑顔を見失っていた。

 そして、人間関係の複雑さに押し潰され、自信を失い、この場所へと逃げ帰ってきた。

 忘れ去ったはずの夢が、今、目の前で再びその姿を現したのだ。

 指先が微かに震える。

 私の視線は、無意識のうちに、カウンターで丸くなっているみたらしへと向けられた。

 みたらしは相変わらず目を閉じているが、そのぴくりと動いた尻尾の先が、私の動揺を察しているかのようだった。

「これは素晴らしいお話ですね、花さん!」

 美咲さんの弾んだ声が聞こえる。

「都会の有名レストランですよ! 
きっと花さんの才能が、もっと多くの人に認められるわ!」

 ひかりちゃんも、キラキラとした瞳で私を見上げていた。

「花さんが作ってくれるお菓子、東京でも食べられるようになるの?」

 彼らの純粋な期待が、私の胸を締め付ける。

 嬉しさと、戸惑い。

 そして、かつての苦い記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 あの時の私だったら、迷うことなく、この誘いに飛びついていただろう。

 都会の華やかな舞台。

 磨き上げた技術を存分に披露できる場所。

 しかし、今の私には、この古民家カフェ「月見草」がある。

 藤堂さん、美咲さん親子、舞ちゃん、拓海くん、そして画家の有栖川さん……。

 この場所で出会った、かけがえのない人々がいる。

 彼らの笑顔が、私の原動力だ。

 失われた自信を取り戻し、本当の居場所を見つけられたのも、全てはこのカフェのおかげ。

 祖母が残してくれた、温かい想いの詰まったレシピも、この場所でこそ生きる。

「一度、ご検討いただけませんか?」

 オーナーの穏やかな声が、私の思考を中断させた。

 私は曖牲な笑顔を浮かべ、小さく「はい」とだけ答えた。

 オーナーが立ち去った後も、店内に残る微かな香水と、都会の空気が、私の心をざわつかせ続ける。

 胸の奥で渦巻く感情に、どうしようもない混乱が押し寄せた。

 これはチャンスなのか、それとも新たな試練なのか。

 私の本当の夢は、一体どこにあるのだろう――。

 私は、膝の上で丸くなったみたらしの柔らかな毛並みをそっと撫でた。

 彼の穏やかな寝息だけが、私の心に静かに響いていた。
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