【完結】『夕映えの寺子屋 - 寅次郎先生、明治を照らす最後の授業 -』

月影 朔

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第一章:明治の片隅で

第四話:兄を案じる妹

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 数日後、寅次郎の隠棲する小さな家の戸を叩く音がした。

 粗末な身なりの寅次郎が重い足取りで開けると、そこに立っていたのは、見慣れた、しかし少しやつれた顔の妹、杉文(楫取美和子)と、その夫である楫取素彦だった。

「兄上!」

 文は、兄の痩せ衰えた姿に、思わず息を呑んだ。かつての精悍な面影は薄れ、深い皺が刻まれた顔には、拭いきれない疲労の色が浮かんでいる。昨夜の悪夢と、その後の庭の手入れで消耗しきっていた寅次郎は、その姿を悟られぬよう、努めて平静を装った。

「文か。素彦も。どうした、急に。」

 寅次郎は、少し戸惑いながらも、二人を家へと招き入れた。簡素な居間には、普段から訪れる者もないため、準備らしい準備も何もできていなかった。文は、そんな兄の様子に、改めて胸を締め付けられる思いだった。

「お久しゅうございます、先生」

 素彦は、かつての塾生としての敬意を込め、深々と頭を下げた。彼の言葉は、寅次郎の心を少しだけ和ませた。

 文は、持参した風呂敷包みを広げ、兄の好物であった甘露煮と、近所の菓子屋で手に入れたという餡入りの餅を膳に乗せた。

「兄上、これをお召し上がりください。体が資本でございますから。」

 文の優しい言葉に、寅次郎は曖昧に頷いた。しかし、彼の目には、差し出された食べ物への関心よりも、妹への心配が深く宿っていた。文が兄の好物を用意してくれたその心遣いは、寅次郎の胸にじんわりと染み渡った。

 他愛もない世間話が始まった。文は、夫である素彦と共に、現在の暮らしぶりを語り、故郷の長州での出来事を伝えた。その会話は、まるで過去の平穏な日々を呼び戻すかのようだった。

 しかし、文は、兄の瞳の奥に宿る、拭いきれない寂しさを敏感に感じ取っていた。かつてのように、熱く、そして未来を語る兄の輝きは、今は見る影もない。ただ、静かに、そしてゆっくりと、その生を終えようとしているかのような気配が、文には感じられた。

「兄上、少し、お顔色が優れません。何かあったのですか?」

 文は、意を決して尋ねた。寅次郎は、一瞬言葉を詰まらせ、視線を庭へと向けた。荒れ果てた庭が、彼の心境を物語っているようだった。

「いや、何でもない。ただ、歳を取ったということだろう。」

 寅次郎は、いつものように、自分の内を深く隠そうとした。しかし、文は、兄の言葉の奥に、言葉にできない重い感情が渦巻いていることを知っていた。兄の瞳には、過去の痛みと、未来への諦めが混在しているように見えた。

 文は、そっと兄の手に触れた。その手は、かつて多くの書物を紐解き、筆を執り、熱く未来を語った頃の力強さとは異なり、骨ばって、冷たくなっていた。

「兄上……」

 文の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。兄の苦しみを、何とかして和らげたい。しかし、自分には何ができるのだろうか。その無力感に、文は打ちひしがれていた。

 素彦は、二人の間に流れる重い空気を察し、静かに口を開いた。

「先生、私も、かつて松下村塾で先生の教えを受けました。あの頃の先生の情熱を、今も鮮明に覚えております。」

 素彦の言葉に、寅次郎の表情に、微かな変化が生まれた。彼の脳裏には、若き日の弟子たちの顔が次々と浮かび上がった。晋作、玄瑞、稔麿、九一……。

「あの頃は、皆、瞳を輝かせ、夢を語り合っていたものだったな。」

 寅次郎の声には、懐かしさの中に、拭いきれない悲しみが混じっていた。その悲しみは、彼が失ったものの大きさを物語っていた。

 文は、兄が「教える」ことにどれほどの情熱を傾けていたかを知っている。そして、その情熱が、どれほど多くの命を巻き込み、悲劇を生んだのかも。

 だからこそ、文は、兄が再びその情熱を燃やすことを、恐れている部分もあった。しかし、兄の今の姿を見ていると、ただただ、心を痛めるばかりだった。

 文は、兄の視線を追って庭を見た。手入れはされているものの、どこか寂しげなその庭は、兄の心の有り様を映し出しているかのようだった。

 兄は、この庭で、どれほどの時間を、過去の悔恨と向き合いながら過ごしてきたのだろうか。

「兄上は、この家で、ずっとお一人でいらっしゃるのですか?」

 文の問いに、寅次郎は答えなかった。ただ、遠くを見つめる彼の瞳の奥には、深い孤独が宿っていた。

 文は、兄の孤独を癒やしたいと願った。しかし、その孤独は、彼自身が選び取った道であり、誰にも踏み込めない領域があることを、文は知っていた。

「兄上……文は、いつも兄上を案じております。どうか、ご無理なさらないでくださいませ。」

 文は、それ以上何も言えなかった。ただ、その言葉に、彼女の兄への深い愛情と、変わらぬ敬愛が込められていた。寅次郎は、その言葉に、小さく頷いた。彼の心の中に、妹の温かい心遣いが、かすかな光を灯したような気がした。

 しかし、その光は、彼の心に深く根付いた闇を、完全に晴らすには至らなかった。
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