4 / 80
第一章:明治の片隅で
第四話:兄を案じる妹
しおりを挟む
数日後、寅次郎の隠棲する小さな家の戸を叩く音がした。
粗末な身なりの寅次郎が重い足取りで開けると、そこに立っていたのは、見慣れた、しかし少しやつれた顔の妹、杉文(楫取美和子)と、その夫である楫取素彦だった。
「兄上!」
文は、兄の痩せ衰えた姿に、思わず息を呑んだ。かつての精悍な面影は薄れ、深い皺が刻まれた顔には、拭いきれない疲労の色が浮かんでいる。昨夜の悪夢と、その後の庭の手入れで消耗しきっていた寅次郎は、その姿を悟られぬよう、努めて平静を装った。
「文か。素彦も。どうした、急に。」
寅次郎は、少し戸惑いながらも、二人を家へと招き入れた。簡素な居間には、普段から訪れる者もないため、準備らしい準備も何もできていなかった。文は、そんな兄の様子に、改めて胸を締め付けられる思いだった。
「お久しゅうございます、先生」
素彦は、かつての塾生としての敬意を込め、深々と頭を下げた。彼の言葉は、寅次郎の心を少しだけ和ませた。
文は、持参した風呂敷包みを広げ、兄の好物であった甘露煮と、近所の菓子屋で手に入れたという餡入りの餅を膳に乗せた。
「兄上、これをお召し上がりください。体が資本でございますから。」
文の優しい言葉に、寅次郎は曖昧に頷いた。しかし、彼の目には、差し出された食べ物への関心よりも、妹への心配が深く宿っていた。文が兄の好物を用意してくれたその心遣いは、寅次郎の胸にじんわりと染み渡った。
他愛もない世間話が始まった。文は、夫である素彦と共に、現在の暮らしぶりを語り、故郷の長州での出来事を伝えた。その会話は、まるで過去の平穏な日々を呼び戻すかのようだった。
しかし、文は、兄の瞳の奥に宿る、拭いきれない寂しさを敏感に感じ取っていた。かつてのように、熱く、そして未来を語る兄の輝きは、今は見る影もない。ただ、静かに、そしてゆっくりと、その生を終えようとしているかのような気配が、文には感じられた。
「兄上、少し、お顔色が優れません。何かあったのですか?」
文は、意を決して尋ねた。寅次郎は、一瞬言葉を詰まらせ、視線を庭へと向けた。荒れ果てた庭が、彼の心境を物語っているようだった。
「いや、何でもない。ただ、歳を取ったということだろう。」
寅次郎は、いつものように、自分の内を深く隠そうとした。しかし、文は、兄の言葉の奥に、言葉にできない重い感情が渦巻いていることを知っていた。兄の瞳には、過去の痛みと、未来への諦めが混在しているように見えた。
文は、そっと兄の手に触れた。その手は、かつて多くの書物を紐解き、筆を執り、熱く未来を語った頃の力強さとは異なり、骨ばって、冷たくなっていた。
「兄上……」
文の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。兄の苦しみを、何とかして和らげたい。しかし、自分には何ができるのだろうか。その無力感に、文は打ちひしがれていた。
素彦は、二人の間に流れる重い空気を察し、静かに口を開いた。
「先生、私も、かつて松下村塾で先生の教えを受けました。あの頃の先生の情熱を、今も鮮明に覚えております。」
素彦の言葉に、寅次郎の表情に、微かな変化が生まれた。彼の脳裏には、若き日の弟子たちの顔が次々と浮かび上がった。晋作、玄瑞、稔麿、九一……。
「あの頃は、皆、瞳を輝かせ、夢を語り合っていたものだったな。」
寅次郎の声には、懐かしさの中に、拭いきれない悲しみが混じっていた。その悲しみは、彼が失ったものの大きさを物語っていた。
文は、兄が「教える」ことにどれほどの情熱を傾けていたかを知っている。そして、その情熱が、どれほど多くの命を巻き込み、悲劇を生んだのかも。
だからこそ、文は、兄が再びその情熱を燃やすことを、恐れている部分もあった。しかし、兄の今の姿を見ていると、ただただ、心を痛めるばかりだった。
文は、兄の視線を追って庭を見た。手入れはされているものの、どこか寂しげなその庭は、兄の心の有り様を映し出しているかのようだった。
兄は、この庭で、どれほどの時間を、過去の悔恨と向き合いながら過ごしてきたのだろうか。
「兄上は、この家で、ずっとお一人でいらっしゃるのですか?」
文の問いに、寅次郎は答えなかった。ただ、遠くを見つめる彼の瞳の奥には、深い孤独が宿っていた。
文は、兄の孤独を癒やしたいと願った。しかし、その孤独は、彼自身が選び取った道であり、誰にも踏み込めない領域があることを、文は知っていた。
「兄上……文は、いつも兄上を案じております。どうか、ご無理なさらないでくださいませ。」
文は、それ以上何も言えなかった。ただ、その言葉に、彼女の兄への深い愛情と、変わらぬ敬愛が込められていた。寅次郎は、その言葉に、小さく頷いた。彼の心の中に、妹の温かい心遣いが、かすかな光を灯したような気がした。
しかし、その光は、彼の心に深く根付いた闇を、完全に晴らすには至らなかった。
粗末な身なりの寅次郎が重い足取りで開けると、そこに立っていたのは、見慣れた、しかし少しやつれた顔の妹、杉文(楫取美和子)と、その夫である楫取素彦だった。
「兄上!」
文は、兄の痩せ衰えた姿に、思わず息を呑んだ。かつての精悍な面影は薄れ、深い皺が刻まれた顔には、拭いきれない疲労の色が浮かんでいる。昨夜の悪夢と、その後の庭の手入れで消耗しきっていた寅次郎は、その姿を悟られぬよう、努めて平静を装った。
「文か。素彦も。どうした、急に。」
寅次郎は、少し戸惑いながらも、二人を家へと招き入れた。簡素な居間には、普段から訪れる者もないため、準備らしい準備も何もできていなかった。文は、そんな兄の様子に、改めて胸を締め付けられる思いだった。
「お久しゅうございます、先生」
素彦は、かつての塾生としての敬意を込め、深々と頭を下げた。彼の言葉は、寅次郎の心を少しだけ和ませた。
文は、持参した風呂敷包みを広げ、兄の好物であった甘露煮と、近所の菓子屋で手に入れたという餡入りの餅を膳に乗せた。
「兄上、これをお召し上がりください。体が資本でございますから。」
文の優しい言葉に、寅次郎は曖昧に頷いた。しかし、彼の目には、差し出された食べ物への関心よりも、妹への心配が深く宿っていた。文が兄の好物を用意してくれたその心遣いは、寅次郎の胸にじんわりと染み渡った。
他愛もない世間話が始まった。文は、夫である素彦と共に、現在の暮らしぶりを語り、故郷の長州での出来事を伝えた。その会話は、まるで過去の平穏な日々を呼び戻すかのようだった。
しかし、文は、兄の瞳の奥に宿る、拭いきれない寂しさを敏感に感じ取っていた。かつてのように、熱く、そして未来を語る兄の輝きは、今は見る影もない。ただ、静かに、そしてゆっくりと、その生を終えようとしているかのような気配が、文には感じられた。
「兄上、少し、お顔色が優れません。何かあったのですか?」
文は、意を決して尋ねた。寅次郎は、一瞬言葉を詰まらせ、視線を庭へと向けた。荒れ果てた庭が、彼の心境を物語っているようだった。
「いや、何でもない。ただ、歳を取ったということだろう。」
寅次郎は、いつものように、自分の内を深く隠そうとした。しかし、文は、兄の言葉の奥に、言葉にできない重い感情が渦巻いていることを知っていた。兄の瞳には、過去の痛みと、未来への諦めが混在しているように見えた。
文は、そっと兄の手に触れた。その手は、かつて多くの書物を紐解き、筆を執り、熱く未来を語った頃の力強さとは異なり、骨ばって、冷たくなっていた。
「兄上……」
文の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。兄の苦しみを、何とかして和らげたい。しかし、自分には何ができるのだろうか。その無力感に、文は打ちひしがれていた。
素彦は、二人の間に流れる重い空気を察し、静かに口を開いた。
「先生、私も、かつて松下村塾で先生の教えを受けました。あの頃の先生の情熱を、今も鮮明に覚えております。」
素彦の言葉に、寅次郎の表情に、微かな変化が生まれた。彼の脳裏には、若き日の弟子たちの顔が次々と浮かび上がった。晋作、玄瑞、稔麿、九一……。
「あの頃は、皆、瞳を輝かせ、夢を語り合っていたものだったな。」
寅次郎の声には、懐かしさの中に、拭いきれない悲しみが混じっていた。その悲しみは、彼が失ったものの大きさを物語っていた。
文は、兄が「教える」ことにどれほどの情熱を傾けていたかを知っている。そして、その情熱が、どれほど多くの命を巻き込み、悲劇を生んだのかも。
だからこそ、文は、兄が再びその情熱を燃やすことを、恐れている部分もあった。しかし、兄の今の姿を見ていると、ただただ、心を痛めるばかりだった。
文は、兄の視線を追って庭を見た。手入れはされているものの、どこか寂しげなその庭は、兄の心の有り様を映し出しているかのようだった。
兄は、この庭で、どれほどの時間を、過去の悔恨と向き合いながら過ごしてきたのだろうか。
「兄上は、この家で、ずっとお一人でいらっしゃるのですか?」
文の問いに、寅次郎は答えなかった。ただ、遠くを見つめる彼の瞳の奥には、深い孤独が宿っていた。
文は、兄の孤独を癒やしたいと願った。しかし、その孤独は、彼自身が選び取った道であり、誰にも踏み込めない領域があることを、文は知っていた。
「兄上……文は、いつも兄上を案じております。どうか、ご無理なさらないでくださいませ。」
文は、それ以上何も言えなかった。ただ、その言葉に、彼女の兄への深い愛情と、変わらぬ敬愛が込められていた。寅次郎は、その言葉に、小さく頷いた。彼の心の中に、妹の温かい心遣いが、かすかな光を灯したような気がした。
しかし、その光は、彼の心に深く根付いた闇を、完全に晴らすには至らなかった。
21
あなたにおすすめの小説
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
アガルタ・クライシス ―接点―
来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。
九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。
同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。
不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。
古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる