『土の記憶〜左官 龍吉捕物控〜』

月影 朔

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第五章:迫る危機と守るべき壁

第十七話:闇を聴く訪問者

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 龍吉は今、駿河屋の蔵の改修を請け負っていた。

 両替商の主人、駿河屋甚右衛門(するがやじんえもん)は、以前にも増して蔵の堅牢さを求めていた。「この蔵だけは、江戸で一番、いや、日ノ本一、誰にも破られぬ壁にしてくれ」と、ほとんど懇願に近い依頼だった。

 龍吉は、甚右衛門の顔に浮かぶ、かつて堀田屋敷の吾平や家老にも見たことのある、何かにおびえるような、しかし必死な表情を見て、この蔵が「影法師」の次の標的になっていることを確信した。

 駿河屋の蔵は、本店からは少し離れた、江戸の外れ、古い水路の近くにある廃寺の跡地に建てられていた。人目につきにくく、秘密裏に重要な品を保管するには適した場所だったのだろう。だが、今は荒れ果て、人の寄り付かない寂しい場所となっている。そんな場所で、龍吉は一人、黙々と蔵の壁を塗っていた。

 今回の壁は、これまで龍吉が手掛けた中でも、最も複雑で巧妙なものだ。

 表面は周囲の焼け残った壁と同じような煤けた土壁に見せかけているが、その内側は、石を組み込み、特別な粘り気のある土と漆喰を幾重にも塗り重ねた二重構造となっている。さらに、壁の内部には、図面が示す隠し通路や仕掛けを模倣した、ダミーの仕掛けや音を欺くための空洞がいくつも組み込まれている。

 これは、「影法師」の侵入手口を逆手に取り、彼らを混乱させ、あるいは罠にかけるための「壁」だ。文字通りの「防御壁」であり、同時に「欺瞞の壁」でもある。

 龍吉は、鏝(こて)を使って漆喰を塗り込めていく。肌に吸い付くような漆喰の感触。それは、龍吉にとって、壁と対話する時間だった。土の記憶、壁の記憶。そして、これから塗り込める、自身の知恵と決意。駿河屋の主人の顔、堀田将監の顔、そして、かつて炎の中で見た家族の顔。今度こそ、守る。壁で、人を守る。

 作業に集中している龍吉の背後に、微かな気配がした。殺気ではない。しかし、確かにそこに誰かがいる。龍吉は作業の手を止めず、気配のする方へ意識を向けた。荒れ果てた境内。人の気配など、あるはずのない場所だ。

 しばらくすると、物陰から一人の男が姿を現した。墨染めの衣を着た坊主だ。三十代後半から四十代に見える。穏やかな顔立ちだが、どこか掴みどころがない雰囲気がある。坊主は、龍吉の作業をしばらく遠巻きに見ていたが、やがてゆっくりと近づいてきた。

(坊主が…なぜこんな場所に?)

 龍吉は不審に思い、警戒した。鏝を持つ手に、自然と力が入る。それは、壁を塗る道具であると同時に、彼の身を守るための武器でもあった。

 坊主は龍吉の近くまで来ると、足を止めた。そして、龍吉が塗っている壁に目を向けた。その目は閉じられていない。普通に物を見ているようだが、その視線は、壁の表面だけでなく、その奥深くまで見透かしているかのように感じられた。

「…何をしていらっしゃる?」

 無口な龍吉が、先に口を開いた。不審者に対する探るような響きが、その声にはあった。

 坊主は、穏やかな顔で微笑んだ。その微笑みには、一切の邪気がない。しかし、その眼差しには、龍吉には理解できない深みと、何かを見通すような鋭さが宿っていた。

「いや、通りすがりの者でな。この荒れ寺に、人がおられるとは思いもよらず、つい驚いてな」

「…仕事でやんす」

 龍吉はぶっきらぼうに答えた。無口な彼にしては、珍しく言葉を継いだ方だ。

「左官殿か。見事な腕前だ」

 坊主は壁を指差した。
「しかし…少々変わった壁だな」

 その言葉に、龍吉の目が僅かに揺れた。なぜ、この坊主が、自分が意図的に不自然に作っている壁の異質さに気づく?左官の知識などなさそうな身なりなのに。龍吉は警戒を解かぬまま、坊主の顔を見つめた。

「…何がでやす?」

 龍吉が問うと、坊主は壁に近づき、壁の表面に触れた。指先でそっと壁の感触を確かめる。

「表面は普通の壁に見える。だが…この厚み、そして中の構造。通常の蔵の壁としては、どうも不自然だ。音が…壁の内部で吸収されているような響きがある。まるで、何かを隠すかのような…」

 坊主の指摘は、図星だった。自分が「音を欺く」ために施した工夫まで見抜かれている。この坊主…一体何者だ?その只ならぬ雰囲気に、龍吉は抗えず、真実の一部を語ってしまった。

「…依頼主には、随分と念を押されやした。『決して、外からは分からぬように』と。だから、この部分だけ、壁を二重にしたり、特別な壁材を混ぜたりしてやんす」

 龍吉は、自分が作った不自然な空洞の部分を指差した。
「ここに、僅かに空洞があるはずでやす。通常は、こんな壁は作りやせん」

 龍吉は、なぜこの坊主がこんなことを知っているのか分からなかったが、職人として自分が気づき、そして工夫した不審な点を指摘されたことで、ある種の共感を覚えたのかもしれない。あるいは、玄信の只ならぬ雰囲気に、抗えなかったのかもしれない。

 坊主は、龍吉が教えてくれた壁の構造や、不自然な空洞の情報に、静かに耳を傾けた。その目は閉じられていても、まるで龍吉の言葉のすべてを吸収しているかのようだった。

「感謝する、左官殿」

 坊主は、深々と龍吉に頭を下げた。龍吉は、ただ無言でそれを見ている。言葉は少なかったが、二人の間には、壁を通して通じ合ったような、奇妙な連帯感が生まれた。この出会いが、後に大きな意味を持つことになることを、まだ互いに知る由もなかった。

 坊主は龍吉から得た貴重な手掛かりを胸に、荒れ寺の奥、水路の方角へとさらに目を向けた。彼が探している「黒蜘蛛衆」という組織のアジトへの糸口が、この壁、そして左官・龍吉との出会いによって、掴めたのかもしれない。

 坊主が去った後、龍吉は再び自身が作った壁を見つめた。
その壁は、駿河屋の蔵を守るための壁。そして、壁の記憶を通して出会った、もう一人の「職人」との縁を結んだ壁となった。

 壁の「土の記憶」は、龍吉に新たな出会いをもたらし、これから彼が対峙する「影法師」との戦いにおいて、この出会いが何らかの意味を持つことになることを予感させていた。

 物語は、二人の主人公が、それぞれの場所で「影」の組織に迫る。
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