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第4章 沈黙の山
8話
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炎の光に包まれて飛び立って行った朱雀と優を、流和と空が遠くから見ていた。
二人が何を話していたのかは聞こえなかった。
「なあ、どう思う?」
冷たい湖に膝までつかりながら、空が流和に訊ねた。
「何が?」
空に手を引かれ、流和も真っ黒な水面に慎重に歩みを進めているところだ。
「朱雀と優のことだよ。今は犬猿の仲って感じだけどさ、あいつら、どうなるかな」
空の言葉に、流和が言った。
「あの二人は火に油だわ。ケンカばかりしてるもの」
「……だよな。実は俺、朱雀は絶対に火の魔法使いに恋をすると思ってたんだ……。なのに、どう見ても、優は朱雀の好みのタイプではない。外見はともかく、ワガママで泣き虫で屁理屈を言う、優ってちょっと変わってるからな。それに人間とのハーフだし、絶対無理だろうな」
「優には、朱雀みたいな軽い男は似合わないわ」
「でも朱雀は強いぜ。女子にモテるし」
「価値ないわよ、そんなの。朱雀の場合、致命的な人格欠損がすべてをダメにしてしまってる」
「優は朱雀をどう思ってるかな」
「嫌ってると思うわ」
流和がきっぱりと言った。
「そうか……、つまんないな」
親友の恋のスキャンダルを待ち望んでいた空としては、朱雀と優の出会いはいささか期待はずれな結果となった。
「アンフェアだと思わないか? 俺ばかりが弱みを握られているんだぜ」
空が、困ったように、だが同時に、愛おしげに流和を見つめて呟いた。
「何のこと?」
満月を見上げていた流和が、くるりと空に目を向ける。その長い睫毛を、月が滑り落ちたみたいに見えた。
この世に女性を美しく魅せる光があるとすれば、それは月の光と蝋燭の光だ。
「別に、こっちの話」
空は、かつて流和を失ったときに朱雀の前で涙を見せた自分を恥ずかしく思っていた。
恋を知らない朱雀のような男は、恋を知ってしまった空のような男よりも強い。
少なくとも空は、朱雀のように一人の女に心を奪われることのない男を強いと思ったし、守るべきものがない朱雀のことを、心のどこかで羨ましいとさえ感じていた。
空はいつも、流和を守れるかどうかという不安を感じ、流和のことだけで一喜一憂してしまう。
だが朱雀は、何人もの女の子と付き合っても、守るべきものは持たず、決して振りまわされることがないのだ。
女の子から言わせれば、そんな男は『最低な奴』なのかもしれないが、空から言わせれば朱雀はまさに『完璧な男』だった。
「ちょっと潜って来るから、帰る場所が分かるようにここで光を灯しててくれ」
空が流和の手をはなして、腰の深さまで湖に進んで行った。
「泳ぐの!? この湖を? 善悪の石はこの湖の底にあるのよ」
「この辺の地理には詳しくないけど、沈黙の山の湖に危険な魔物がいるという話は聞いたことがないし、潜水魔法を使えば長い間、水に潜っても平気だ。これが一番手っ取り早くて、シンプルな方法だろ」
「でも、水の中は真っ暗だわ」
「光を灯せば大丈夫さ」
「私をここに残して行くつもり? こんな不気味な暗闇の中に……」
「……。 一緒に行くかい?」
「冷たすぎるわ」
「言うと思った。じゃあどうする?」
「ナイアードを召喚するわ」
「え、水の妖精を?」
空が顔をしかめた。
「嫌なの? 淡水なら、泳ぎは<彼女たち>の方が得意よ」
「ナイアードは危険な妖精だ。おとぎ話じゃ美しい人魚姫として描かれてはいるけど、……引きづり込まれない自信はあるのか?」
空が心配するのも無理はない。
ナイアードは人魚姫のモデルとなった水の妖精だけど、とっても気まぐれなのだ。
人間を水中に引きづり込んで、溺れさせようとする。上級の水の魔法使いでも手を焼く危険な妖精だ。
特に、ナイアードは人間の男を食い物にするというから恐ろしい。空も狙われるかもしれない。
「知らないの? ナイアードは、心から誰かを愛している人間には手出しできないのよ。だから、私たちは大丈夫。ナイアードの餌食になるのは、恋を知らない孤独な男だけだもの……たとえば、朱雀とかね」
そう言って、流和が可笑しそうにクスクス笑った。
「今の言葉、朱雀にも聞かせてやりたいね」
空が浅瀬に戻ってきて、流和の手を握った。
「ナイアードみたいな怖い妖精を呼び出そうなんて、よく考えつくよな。まあ、流和がそう言うなら、やってみてもいいけど、俺の手を放さないでくれよ」
「きっと上手くいく。見てて」
流和が指を3回鳴らした。
パチン、パチン、パチン。
そして、握った拳に息を吹きかける。
空は、黙って流和の魔法を見守った。
流和が拳を開くと、中から青い光が飛びだし、光は瞬く間に暗い湖の底に沈んで行った。
聞きなれない言葉が、流和の口から語られた。それはギリシャ語で、ナイアードに語りかけられたものだ。
――『湖の底に沈む、危険探知の真珠を我の手に届けたまえ』
ナイアードがギリシャ語で語られた言葉に忠実に従うというのは、妖精魔法学で必ず習うことだ。
気難しい妖精ほど、語る言語が限定されている。ナイアードをはじめ、メロウやアクア、マーキュリーなどの水の妖精は、なぜかギリシャ語を好む傾向がある。
流和がギリシャ語を話せるのは、水の魔法使いとしては当然のことだった。
ほどなくして、流和と空の立つ水面に小さな波が立った。
「来た」
空が意識的に、流和とつないだ手に力をこめた。
「ナイアードは浅瀬までは来れないわ。私たちが行かないと」
流和と空は、二人で手をつないだまま腰まで水につかる深さまで進んだ。
だが、ナイアードはやって来ない。
流和は構わず、さらに深みへ歩み出した。
「あまり奥まで行くのは危険だ、流和、引きづり込まれるかもしれない」
「あと、少しだけ」
それまで穏やかだった水面が、深みに歩み出すほど大きく揺れていた。
胸の位置まで水につかる深さに来て、すぐ近くに、人間でも生き物でもない気配を感じ、流和と空の二人は足を止めた。
姿は見えない。でも、時々、水がはねる音がする。
身体に生温かい水流を感じて、空がビクリと震えた。ナイアードが、二人のすぐ近くを泳ぎ回っているみたいだ。
真っ暗で、水中で何が起こっているのかは何も見えない。だが、とても生臭い嫌な臭いがした。
「1匹じゃないぞ」
空が危険を感じて流和を自分の方に引き寄せようとしたとき、流和が小さな悲鳴を上げた。
「どうした!?」
暗い水の中に胸までつかって、ナイアードに取り囲まれるのはかなりのスリルだった。
次の瞬間、空は流和が悲鳴を上げた理由を身をもって体験した。太ももに鋭い痛みが走ったのだ。
続いて、腕にも同じ痛みが走る。
ナイアードだ。
ナイアードが鋭い爪で、流和と空に攻撃をはじめたのだ。
空は流和を強く抱きよせ、片手を宙にかざした。
「ダメ! 杖を出しちゃ」
流和が叫ぶ。
「どうして!? このままじゃ危ない!」
「試されているのかもしれないわ! 杖を出したら、ナイアードたちを怖がらせてしまう!」
「ナイアードが俺たちを試してる!?……そりゃいいや、っ流和!」
突然、流和が水の中に沈んだ。
空は流和の腰に手を回し、流和を引き戻した。暗い水面にぶくぶくと泡が立ち、生臭さが臭気を増す。
「足を掴まれたわ、引っ張られてる!」
「大丈夫だ、僕が掴んでる!」
何匹ものナイアードが流和と空の二人の周りを回るので、渦のように波がたった。
ナイアードは空と流和を引き離すように、何度も鋭い攻撃で二人の皮膚を切り裂いていく。
空は毒づきながら、宙に手をかざして叫んだ。
『スマラグディ!』
たちまち、強力なエメラルド色の光が辺りを照らしだし、水中で群がるナイアードを遠ざけた。
ナイアードは強い光を嫌う習性があるのだ。かざした手を引っ込めて、空は両腕に強く流和を抱きしめた。
ナイアードの爪には毒がある。数時間後には空も流和も、その毒からくる高熱にうなされるだろう。
「僕から離れるな、流和」
「ええ、離れたくないわ」
流和が空の腕にしがみついた。
一度は空の光を恐れて離れたナイアードはすぐに引き返してきて、今度は流和を抱きしめる空の手に噛みついた。
真っ黒の湖の中で、空は後ろから流和の身体を包みこむようにしてじっと耐えた。決して放さない。
流和を守ると決めたからだ。
空は、自分が傷つくことよりも、愛する人が傷つくことの方が何倍も痛いことを知っていた。
執拗なナイアードの攻撃が、徐々に間隔を開けるようになってくると、辺りが再び静かになってきた。
相変わらず、生臭い匂いが吐きそうなほど鼻を刺すが、ナイアードたちは攻撃を終息に向かわせているようだ。
それからしばらくして、流和が空を呼んだ。
「空、見て……」
流和の首筋に顔をうずめ、硬く目を閉じていた空は、流和の声で目を開いた。
見ると、前方の水面から、青白い顔が半分だけ出ているのが見えた。ベットリと濡れた髪が額に貼りつき、人間のそれとほとんど変わらない2つの瞳が、ジッとこちらを見ている。
目から下は暗い水中に隠れていて見ることが出来ないが、それがナイアードであることに、疑問の余地はなかった。
人間でもなく、生き物でもない。顔は人そっくりだが、耳がエラのように尖っていて、鼻筋は骨ばっている。とても、人魚のような可愛らしいものではない。
目つきが鋭すぎるし、顔色は悪すぎる、と空は思った。
口を水中に沈めているナイアードの声が、はっきりと聞こえてきた。
『もしも二人で逃げ出したなら、二人とも水の底に。もしもどちらか一人が逃げ出せば、一人ずつ水の底に沈めてやったろう。もしも杖で我らに立ち向かったなら、我らの牙がお前たちの命を討っただろう。だが、お前たちは二人でとどまったので、今回だけは特別に願いを叶えてやろう』
すると、ナイアードの顔が水中に沈み、今度は流和のすぐ目の前で浮かび上がった。
音もなく水面に突き出された白く鋭い爪の手が、淡いピンク色の真珠を握っていた。
「ありがとう」
流和はそれを両手で受け取り、丁寧にお辞儀した。
『小娘ごときが、我らを奴隷のごとくあつかえるのは今回限りだと思え』
ナイアードはそう言い残して水中に沈むと、二度と姿を現さなかった。
生臭い臭いが消えた。
二人が何を話していたのかは聞こえなかった。
「なあ、どう思う?」
冷たい湖に膝までつかりながら、空が流和に訊ねた。
「何が?」
空に手を引かれ、流和も真っ黒な水面に慎重に歩みを進めているところだ。
「朱雀と優のことだよ。今は犬猿の仲って感じだけどさ、あいつら、どうなるかな」
空の言葉に、流和が言った。
「あの二人は火に油だわ。ケンカばかりしてるもの」
「……だよな。実は俺、朱雀は絶対に火の魔法使いに恋をすると思ってたんだ……。なのに、どう見ても、優は朱雀の好みのタイプではない。外見はともかく、ワガママで泣き虫で屁理屈を言う、優ってちょっと変わってるからな。それに人間とのハーフだし、絶対無理だろうな」
「優には、朱雀みたいな軽い男は似合わないわ」
「でも朱雀は強いぜ。女子にモテるし」
「価値ないわよ、そんなの。朱雀の場合、致命的な人格欠損がすべてをダメにしてしまってる」
「優は朱雀をどう思ってるかな」
「嫌ってると思うわ」
流和がきっぱりと言った。
「そうか……、つまんないな」
親友の恋のスキャンダルを待ち望んでいた空としては、朱雀と優の出会いはいささか期待はずれな結果となった。
「アンフェアだと思わないか? 俺ばかりが弱みを握られているんだぜ」
空が、困ったように、だが同時に、愛おしげに流和を見つめて呟いた。
「何のこと?」
満月を見上げていた流和が、くるりと空に目を向ける。その長い睫毛を、月が滑り落ちたみたいに見えた。
この世に女性を美しく魅せる光があるとすれば、それは月の光と蝋燭の光だ。
「別に、こっちの話」
空は、かつて流和を失ったときに朱雀の前で涙を見せた自分を恥ずかしく思っていた。
恋を知らない朱雀のような男は、恋を知ってしまった空のような男よりも強い。
少なくとも空は、朱雀のように一人の女に心を奪われることのない男を強いと思ったし、守るべきものがない朱雀のことを、心のどこかで羨ましいとさえ感じていた。
空はいつも、流和を守れるかどうかという不安を感じ、流和のことだけで一喜一憂してしまう。
だが朱雀は、何人もの女の子と付き合っても、守るべきものは持たず、決して振りまわされることがないのだ。
女の子から言わせれば、そんな男は『最低な奴』なのかもしれないが、空から言わせれば朱雀はまさに『完璧な男』だった。
「ちょっと潜って来るから、帰る場所が分かるようにここで光を灯しててくれ」
空が流和の手をはなして、腰の深さまで湖に進んで行った。
「泳ぐの!? この湖を? 善悪の石はこの湖の底にあるのよ」
「この辺の地理には詳しくないけど、沈黙の山の湖に危険な魔物がいるという話は聞いたことがないし、潜水魔法を使えば長い間、水に潜っても平気だ。これが一番手っ取り早くて、シンプルな方法だろ」
「でも、水の中は真っ暗だわ」
「光を灯せば大丈夫さ」
「私をここに残して行くつもり? こんな不気味な暗闇の中に……」
「……。 一緒に行くかい?」
「冷たすぎるわ」
「言うと思った。じゃあどうする?」
「ナイアードを召喚するわ」
「え、水の妖精を?」
空が顔をしかめた。
「嫌なの? 淡水なら、泳ぎは<彼女たち>の方が得意よ」
「ナイアードは危険な妖精だ。おとぎ話じゃ美しい人魚姫として描かれてはいるけど、……引きづり込まれない自信はあるのか?」
空が心配するのも無理はない。
ナイアードは人魚姫のモデルとなった水の妖精だけど、とっても気まぐれなのだ。
人間を水中に引きづり込んで、溺れさせようとする。上級の水の魔法使いでも手を焼く危険な妖精だ。
特に、ナイアードは人間の男を食い物にするというから恐ろしい。空も狙われるかもしれない。
「知らないの? ナイアードは、心から誰かを愛している人間には手出しできないのよ。だから、私たちは大丈夫。ナイアードの餌食になるのは、恋を知らない孤独な男だけだもの……たとえば、朱雀とかね」
そう言って、流和が可笑しそうにクスクス笑った。
「今の言葉、朱雀にも聞かせてやりたいね」
空が浅瀬に戻ってきて、流和の手を握った。
「ナイアードみたいな怖い妖精を呼び出そうなんて、よく考えつくよな。まあ、流和がそう言うなら、やってみてもいいけど、俺の手を放さないでくれよ」
「きっと上手くいく。見てて」
流和が指を3回鳴らした。
パチン、パチン、パチン。
そして、握った拳に息を吹きかける。
空は、黙って流和の魔法を見守った。
流和が拳を開くと、中から青い光が飛びだし、光は瞬く間に暗い湖の底に沈んで行った。
聞きなれない言葉が、流和の口から語られた。それはギリシャ語で、ナイアードに語りかけられたものだ。
――『湖の底に沈む、危険探知の真珠を我の手に届けたまえ』
ナイアードがギリシャ語で語られた言葉に忠実に従うというのは、妖精魔法学で必ず習うことだ。
気難しい妖精ほど、語る言語が限定されている。ナイアードをはじめ、メロウやアクア、マーキュリーなどの水の妖精は、なぜかギリシャ語を好む傾向がある。
流和がギリシャ語を話せるのは、水の魔法使いとしては当然のことだった。
ほどなくして、流和と空の立つ水面に小さな波が立った。
「来た」
空が意識的に、流和とつないだ手に力をこめた。
「ナイアードは浅瀬までは来れないわ。私たちが行かないと」
流和と空は、二人で手をつないだまま腰まで水につかる深さまで進んだ。
だが、ナイアードはやって来ない。
流和は構わず、さらに深みへ歩み出した。
「あまり奥まで行くのは危険だ、流和、引きづり込まれるかもしれない」
「あと、少しだけ」
それまで穏やかだった水面が、深みに歩み出すほど大きく揺れていた。
胸の位置まで水につかる深さに来て、すぐ近くに、人間でも生き物でもない気配を感じ、流和と空の二人は足を止めた。
姿は見えない。でも、時々、水がはねる音がする。
身体に生温かい水流を感じて、空がビクリと震えた。ナイアードが、二人のすぐ近くを泳ぎ回っているみたいだ。
真っ暗で、水中で何が起こっているのかは何も見えない。だが、とても生臭い嫌な臭いがした。
「1匹じゃないぞ」
空が危険を感じて流和を自分の方に引き寄せようとしたとき、流和が小さな悲鳴を上げた。
「どうした!?」
暗い水の中に胸までつかって、ナイアードに取り囲まれるのはかなりのスリルだった。
次の瞬間、空は流和が悲鳴を上げた理由を身をもって体験した。太ももに鋭い痛みが走ったのだ。
続いて、腕にも同じ痛みが走る。
ナイアードだ。
ナイアードが鋭い爪で、流和と空に攻撃をはじめたのだ。
空は流和を強く抱きよせ、片手を宙にかざした。
「ダメ! 杖を出しちゃ」
流和が叫ぶ。
「どうして!? このままじゃ危ない!」
「試されているのかもしれないわ! 杖を出したら、ナイアードたちを怖がらせてしまう!」
「ナイアードが俺たちを試してる!?……そりゃいいや、っ流和!」
突然、流和が水の中に沈んだ。
空は流和の腰に手を回し、流和を引き戻した。暗い水面にぶくぶくと泡が立ち、生臭さが臭気を増す。
「足を掴まれたわ、引っ張られてる!」
「大丈夫だ、僕が掴んでる!」
何匹ものナイアードが流和と空の二人の周りを回るので、渦のように波がたった。
ナイアードは空と流和を引き離すように、何度も鋭い攻撃で二人の皮膚を切り裂いていく。
空は毒づきながら、宙に手をかざして叫んだ。
『スマラグディ!』
たちまち、強力なエメラルド色の光が辺りを照らしだし、水中で群がるナイアードを遠ざけた。
ナイアードは強い光を嫌う習性があるのだ。かざした手を引っ込めて、空は両腕に強く流和を抱きしめた。
ナイアードの爪には毒がある。数時間後には空も流和も、その毒からくる高熱にうなされるだろう。
「僕から離れるな、流和」
「ええ、離れたくないわ」
流和が空の腕にしがみついた。
一度は空の光を恐れて離れたナイアードはすぐに引き返してきて、今度は流和を抱きしめる空の手に噛みついた。
真っ黒の湖の中で、空は後ろから流和の身体を包みこむようにしてじっと耐えた。決して放さない。
流和を守ると決めたからだ。
空は、自分が傷つくことよりも、愛する人が傷つくことの方が何倍も痛いことを知っていた。
執拗なナイアードの攻撃が、徐々に間隔を開けるようになってくると、辺りが再び静かになってきた。
相変わらず、生臭い匂いが吐きそうなほど鼻を刺すが、ナイアードたちは攻撃を終息に向かわせているようだ。
それからしばらくして、流和が空を呼んだ。
「空、見て……」
流和の首筋に顔をうずめ、硬く目を閉じていた空は、流和の声で目を開いた。
見ると、前方の水面から、青白い顔が半分だけ出ているのが見えた。ベットリと濡れた髪が額に貼りつき、人間のそれとほとんど変わらない2つの瞳が、ジッとこちらを見ている。
目から下は暗い水中に隠れていて見ることが出来ないが、それがナイアードであることに、疑問の余地はなかった。
人間でもなく、生き物でもない。顔は人そっくりだが、耳がエラのように尖っていて、鼻筋は骨ばっている。とても、人魚のような可愛らしいものではない。
目つきが鋭すぎるし、顔色は悪すぎる、と空は思った。
口を水中に沈めているナイアードの声が、はっきりと聞こえてきた。
『もしも二人で逃げ出したなら、二人とも水の底に。もしもどちらか一人が逃げ出せば、一人ずつ水の底に沈めてやったろう。もしも杖で我らに立ち向かったなら、我らの牙がお前たちの命を討っただろう。だが、お前たちは二人でとどまったので、今回だけは特別に願いを叶えてやろう』
すると、ナイアードの顔が水中に沈み、今度は流和のすぐ目の前で浮かび上がった。
音もなく水面に突き出された白く鋭い爪の手が、淡いピンク色の真珠を握っていた。
「ありがとう」
流和はそれを両手で受け取り、丁寧にお辞儀した。
『小娘ごときが、我らを奴隷のごとくあつかえるのは今回限りだと思え』
ナイアードはそう言い残して水中に沈むと、二度と姿を現さなかった。
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