【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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94 怒り

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 晃は、電子ピアノを部屋に持っている。本物のピアノのようにちゃんと高さがあって、鍵盤の感覚も、ピアノに似せて重たくしてあるものだ。イヤホンを付ければ音は外には漏れないので、いつでも練習できる。一太は、夏休みの間、ずっとその電子ピアノを使わせてもらっていた。晃はいつも、楽しそうに指導をしてくれて、一太のピアノの腕前はめきめき上がっていた。夏休みに、毎日練習できたのは大きかった。苦手な授業が順調で、一太は今、何をやっても楽しい。
 だから、病院から戻った岸田と合流すると、ピアノの練習が出来なくて落ち込む様子に心が痛んだ。アルバイトも、昨日は行けなかったという。そりゃあそうだ。あんなに縫うほどの傷だったのだ。無理に動いて傷が開いたら大変だ。血の滲む包帯は、見ているだけで痛々しい。
 岸田は、薬で痛みを止めているから大丈夫、と言うけれど、全然痛くない訳じゃない。それに、片手が使えないなんて、不便すぎる。

「病院までのバス代往復と、病院の費用もキツい」

 抜糸まで一週間、日曜以外は毎日消毒に通うように、と言われたそうだ。手が濡らせないから、アルバイト先での作業も限られてしまう。
 そんな話を岸田からつらつらと聞いていると、あまりに大変な事態に、一太はふつふつと何かが胸に沸いてくる心地がした。

「怪我をさせた人は分かっているんだから、通院費を払ってもらえないのかな」

 気付けば、そんなことを呟いていた。
 伊東と渡辺は、今日、いつも通りに登校して授業を受けていた。何もお咎めは無かったのだろうか。一太は八木教授に、加害者と思われる二人の名前を告げたのだが。

「ああ。うーん。私が、大事おおごとにしないでほしいって、教授に言ったから」
「でも、謝りにも来ないなんて」

 一太は、こんなに胸がむかむかした事は今までにないというくらい、むかむかしていた。頭がもやもやするというか、こう、収まらないものがあって落ち着かない。

「珍しいね。いっちゃんがこんなに怒っているなんて」

 晃が、腕を回して一太の頭を囲い、おでこの辺りをぽんぽんと撫でる。食堂へと向かう人は多く、周りで幾つかきゃあ、と小さな声が上がったが、晃に気にする様子はなかった。晃が気にしていないならなんでもないんだろう、と一太は優しい腕に頭を擦り付ける。少し、胸のむかむかが収まった。
 そうか。
 俺は、怒っているのか。
 怒る……。これが、怒る。

「優しいなあ。友達の為に、腹を立ててるなんて」

 晃は、一太の頭を抱え込んだまま食堂へ歩いた。一太の、慣れない怒りの感情が、気持ち悪く体を支配する前に収まっていく。

「俺も、すんごく腹が立ってる。昨日からずっと、頭ん中で経を読んでるんだけど駄目だわ。あいつら、全く反省してないと思う。早織の手を見て、大袈裟、うちらへの当てつけ? とか言い合ってたんだぜ。やっぱり、こういう事はしっかりカタをつけないと、相手の為にもよくねえよ」
「うん……。そうだね……」

 上手に怒りをコントロールしている安倍くんは流石だな、と一太は思った。誰よりも大事な人を傷付けられたのに、ちゃんと岸田さんの気持ちも大切にしつつ、相手の為にもこのままでは良くないと提案をしている。
 一太も、晃の優しい腕に包まれて少し冷静になれた。
 よし、と気合いを入れる。
 俺は、伊東さんと渡辺さんに恨まれる事になっても、何回でも表に出て証言しよう。見えてはいなかったけれど、聞こえていたのだ。岸田の証言と、一太の証言があれば、言い合いになっても二対二だ。一方的にやられることにはならないのじゃないか。

「ちゃんと、話をするよ……」

 岸田が、小さく頷いた。

 * 
 
「昨日、パソコン室の出入り口の扉のガラスが割れて、岸田さんが怪我をしたのよ」

 八木教授が、柔らかい口調で説明をしている。二人と話し合いたい、と岸田が昼に頼みに行ったら、放課後に教授の部屋に伊東と渡辺を呼び出してくれたのだ。
 岸田と一太の他に、安部と晃も部屋の中に椅子を置いて座っている。
 二人は、ちらちらと晃の方へ視線を送ったり、岸田を睨み付けたりしながら、教授の前に座っていた。

「病院で、六針も縫う大怪我だったわ。二人はその場に居たと聞いたのだけれど、何があったのか聞いてもいいかしら」
「うそ、六針……? そんなに?」
「そんな。私は、そんなの知らないです」

 伊東は驚いた声を上げて、渡辺は即座に否定した。

「知らないっていうのは?」
「ガラスが割れる前に、パソコン室から出たので、割れたなんて知りません」

 ええ……!
 一太は心の中で、驚きの声を上げた。
 一太から見えてはいなかったが、ガラスが割れてから、二人が立ち去る音を聞いている。なんなら、私知らない、と言いながら立ち去っていった。

「早織が……岸田さんが、私たちがやったって言ったんですか?」
「いえ。岸田さんは、友達と意見の行き違いがあった、とだけ」
「じゃあ、何でここに呼ばれてるんですか」
「目撃者がいて、教えてくれたから。私としても、岸田さんの怪我がどれだけ酷いかをあなたたちに伝えるべきだと思ったの。友達が包帯を巻いていたら、心配でしょう? でも、謝りたくても、昨日、放って帰ってしまったから声をかけにくかったのじゃない?」
「目撃者……」
「うそ……」

 二人の目が、一太の方を向く。

「だ、誰もいませんでした」

 渡辺が、一太を見ながら言う。

「俺、パソコン室で作業してました。ずっと、いました」

 一太も、渡辺の視線を受け止めながら言った。

「使用申請書も出ているし、助けを呼びに来てくれたのも村瀬くんよ。病院にも、私と一緒に付き添ったわ」
「全部、聞こえてました」

 二人は、化粧で彩った目を大きく見開いた。様々な色を乗せた目元は、母を思い出して好きじゃない。

「どうかな? もう一度聞くけど、ガラスが割れて岸田さんが怪我をした時、どんな状況だったか話せる?」
「し、証拠もないのに、村瀬くんと岸田さんの方の話を信じるんですか?」

 え?

「双方の話を、平等に聞こうと思って呼んだのよ。だから、何があったのか、渡辺さんの話を聞かせてってお願いしてる。渡辺さんはまだ何も話していないから、どちらの話が本当か、私には判断できないよね? もちろん、伊東さんのお話も聞きたいです。お話してくれるかな?」

 すごい、と一太は思った。将来、子どもたちの喧嘩の仲裁をする時に、俺は、八木教授のように冷静でいられるかな。明らかに嘘をついている子どもに、そうでない子へ対するのと同じ姿勢で話を聞くことが、俺にはできるかな。
 しなければいけない。そのための勉強を今、一太たちはしているのだ。嘘をついても良いことはない、って教えてあげなければならない。

「だ、だから! ガラスが割れたのなんて知らないって!」
「そう。残念だわ、渡辺さん」

 八木教授は、本当に悲しそうにそう言った。

「パソコンは貴重品だから、パソコン室の入口には防犯カメラが付いているの。証拠は、あるのよ……」
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