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第十章 されど幸せな日々
86 でも、母さまは泣いた 成人
「嫌、なのね。私が。苦痛、なのね。私が」
「皇妃殿下。そんなことは」
雫石母さまの侍女が、母さまの肩をそっと抱きながら、違いますと首を振る。
俺も慌てて首を振る。
「違うよ」
緋色は、母さまが嫌だとか苦痛だなんて言っていない。
「緋色が何か言って、母さまが取り乱す様子を見るのが嫌なんだって言った」
「違わない。緋色さんは私が嫌だから、そうして……」
違う。全然違う。
「もう、それでい……」
「雫石!」
緋色が母さまに何か言おうとした時、ばたばたと、父さまや朱実殿下、赤璃さまが近寄ってくる気配がした。ばたばた、なんて珍しい。この三人は特に、大慌ての様子は他の人に見せたりしないのに。護衛と侍従と侍女も必ず付いてくるのだから、この三人が一人でも慌てると大変な騒ぎになってしまう。なのに、三人で慌ててやってきた。
誰かが報告に行ったことは分かっていた。朱実殿下配下の一ノ瀬か、父さまの使う二ノ瀬かは分からないけれど、母さまがまだ泣き始める前に一人離れる気配がした。雫石母さまが泣きそうなことが分かって報告に行ったのだろうか。そんな事も分かるの、すごいな。
「緋色。お前はまた……」
「父上!」
父さまが、母さまに早足で近寄りながら緋色に何か言おうとするのを、朱実殿下が大きな声で止めた。
「約束したはずです。母上も!」
俺は、少しびっくりして朱実殿下を見る。緋色も、目を見開いて朱実殿下を見ていた。
朱実殿下の大きな声なんて、聞いたことあったっけ? 覚えがない。
「でも。でも、朱実さん。緋色さんは、私の事が嫌だって。苦痛だって」
「本当に? 母上。緋色は本当にそう言いましたか?」
「言ってないよ」
俺は慌てて言う。朱実殿下は、俺を見て、うん、と頷いた。
「父上。お聞きになりましたか? 成人が、緋色はそんな事は言っていない、と言っています」
「……」
父さまは、口を閉じて俺と緋色を見た。それから、母さまを見る。母さまはまた、ぽろぽろと涙をこぼした。
俺は、聞いたままを伝えただけだ。でも、母さまは泣くのか。
「乙羽。発言を許す」
朱実殿下は、三人が来た時にそっと端に避けていた乙羽の方を向いた。
壱臣も、乙羽の横でぴしっと立っている。
「は。申し上げます。緋色殿下は、緋色殿下の発言を受けて皇妃殿下が取り乱される様子を見る事が嫌だと、苦痛だと仰いました。皇妃殿下の事が嫌だ、苦痛だとは仰っておられません。そして、皇妃殿下がこれからも緋色殿下と共に食事をすることを望まれるというのなら、緋色殿下の食事態度が皇妃殿下の意に沿わなかったからといって取り乱さない、という約束が欲しい、と仰いました」
「約束?」
「はい。誓約書を書いてくださるなら、共に食事をする事を考えてもよい、と」
「なるほど。よく分かった。緋色、すぐに誓約書を準備させよう。まずは、腰を落ち着けないか?」
緋色は、ぎゅっと口を閉じる。
少しうつむいた顔が、俺を見た。右手を伸ばすと、ひょいと抱き上げられる。
「成人が疲れてきたようだから、帰る」
その後の帰りたい、って声は、緋色の口の中に消えた。
疲れて帰りたいのは俺。
俺だよ。
「皇妃殿下。そんなことは」
雫石母さまの侍女が、母さまの肩をそっと抱きながら、違いますと首を振る。
俺も慌てて首を振る。
「違うよ」
緋色は、母さまが嫌だとか苦痛だなんて言っていない。
「緋色が何か言って、母さまが取り乱す様子を見るのが嫌なんだって言った」
「違わない。緋色さんは私が嫌だから、そうして……」
違う。全然違う。
「もう、それでい……」
「雫石!」
緋色が母さまに何か言おうとした時、ばたばたと、父さまや朱実殿下、赤璃さまが近寄ってくる気配がした。ばたばた、なんて珍しい。この三人は特に、大慌ての様子は他の人に見せたりしないのに。護衛と侍従と侍女も必ず付いてくるのだから、この三人が一人でも慌てると大変な騒ぎになってしまう。なのに、三人で慌ててやってきた。
誰かが報告に行ったことは分かっていた。朱実殿下配下の一ノ瀬か、父さまの使う二ノ瀬かは分からないけれど、母さまがまだ泣き始める前に一人離れる気配がした。雫石母さまが泣きそうなことが分かって報告に行ったのだろうか。そんな事も分かるの、すごいな。
「緋色。お前はまた……」
「父上!」
父さまが、母さまに早足で近寄りながら緋色に何か言おうとするのを、朱実殿下が大きな声で止めた。
「約束したはずです。母上も!」
俺は、少しびっくりして朱実殿下を見る。緋色も、目を見開いて朱実殿下を見ていた。
朱実殿下の大きな声なんて、聞いたことあったっけ? 覚えがない。
「でも。でも、朱実さん。緋色さんは、私の事が嫌だって。苦痛だって」
「本当に? 母上。緋色は本当にそう言いましたか?」
「言ってないよ」
俺は慌てて言う。朱実殿下は、俺を見て、うん、と頷いた。
「父上。お聞きになりましたか? 成人が、緋色はそんな事は言っていない、と言っています」
「……」
父さまは、口を閉じて俺と緋色を見た。それから、母さまを見る。母さまはまた、ぽろぽろと涙をこぼした。
俺は、聞いたままを伝えただけだ。でも、母さまは泣くのか。
「乙羽。発言を許す」
朱実殿下は、三人が来た時にそっと端に避けていた乙羽の方を向いた。
壱臣も、乙羽の横でぴしっと立っている。
「は。申し上げます。緋色殿下は、緋色殿下の発言を受けて皇妃殿下が取り乱される様子を見る事が嫌だと、苦痛だと仰いました。皇妃殿下の事が嫌だ、苦痛だとは仰っておられません。そして、皇妃殿下がこれからも緋色殿下と共に食事をすることを望まれるというのなら、緋色殿下の食事態度が皇妃殿下の意に沿わなかったからといって取り乱さない、という約束が欲しい、と仰いました」
「約束?」
「はい。誓約書を書いてくださるなら、共に食事をする事を考えてもよい、と」
「なるほど。よく分かった。緋色、すぐに誓約書を準備させよう。まずは、腰を落ち着けないか?」
緋色は、ぎゅっと口を閉じる。
少しうつむいた顔が、俺を見た。右手を伸ばすと、ひょいと抱き上げられる。
「成人が疲れてきたようだから、帰る」
その後の帰りたい、って声は、緋色の口の中に消えた。
疲れて帰りたいのは俺。
俺だよ。
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