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第一章 大領地の守り子
41契約を結びます
しおりを挟む……あれ?とっても楽しいのはいいのですが、わたくし何か忘れているような気がいたします。
「ねえ、リジェット。僕今日病人だってこと忘れてない?」
「ごごご、ごめんなさい! すっかり忘れていました!!」
先生はくたり、と頭の方にあるベットの柵にの寄りかかります。だいぶ体力を使わせてしまったようです。
「リジェット、そこの棚にある瓶をとってくれる?」
先生に促された通り、私はサイドテーブルにおいてある深い緑色をした瓶を手にとります。蓋が完全に閉まっていない状態で置いてあったので、匂いが漏れたのですが、見るからに禍々しい淀みの様なものを感じる液体です。
「なんですかこれ?」
絶対体にいいものではありません。わたくしはこれを果たして素直に渡していいのでしょうか?
先生はなんともなさそうな平然とした顔でわたくしに告げました。
「大丈夫だよ、リジェット。これは痛みを和らげる為に使う一種の痛みどめだから」
そう言って先生が瓶の蓋を開けた瞬間、嗅いだことのある匂いが周囲に広がります。甘くて苦くてどこか切ない気持ちになるこの匂い。
「あ……」
それは紛れもなくおばあさまの家で嗅いだ匂いと同じでした。あれは薬の匂いだったのですね。先生はどうやら亡くなる寸前のおばあさまが使っていた薬と同じものを使っているようでした。
そんなものを使うくらい、先生の体に痛みがあるなんて……。思ってもいないほどの症状の重さに眉をしかめます。先生にかかっている呪いはそんなに強いものなのでしょうか。
わたくしは慌てて、先生の脈を取ります。
「先生、もしかしたらすっごく調子が悪いのでしょうか……?」
「うん、だから今日授業を中止にしたんだけど。僕もう、瀕死」
ぐったりと脱力した先生の顔色は恐ろしく白くなっていました。
「せせせ、せんせぇーー!? 死なないでぇーーー!」
わたくしは知らぬうちに先生を殺しかけていたようです。
あの……ほんとにそんなつもりはなかったんです。
ほ、ほんとですよ?
薬を飲んだ先生は少し痛みが引いたのか、落ち着いたようです。
「というか、君。どうやってこの部屋に入ってきたの?」
「え? 普通に玄関空いてましたよ?」
「閉め忘れた? え? そんなことある?」
「先生抜けてるところありますよね。意外なうっかりさんです!」
「え、ええー……?」
先生は納得していない様な顔をしていましたが、入れたのだから仕方ありません。
「君も研究を盗みにきたのかと思って警戒しちゃった」
「え?」
なぜ、そんなことをわたくしがする必要があるのでしょうか? その言葉にわたくしは釈然としません。どうやら先生はまだ朦朧としているところがあるようです。ベッドの柵の部分に寄りかかりながら、わたくしに問いかけました。
「そ、そんなわけないじゃないですか。わたくしはただお見舞いに来ただけですよ」
まあ、お見舞いに来て病人を剥いてしまったのは褒められたものではないですが。
「僕の周りの人間はいつも僕が弱ってる時を見計らって魔法陣を取り上げたり、排除しようとしてきたり……いろんなことをしてきたよ?」
どうやら先生の周りにはロクな人間がいなかった様ですね。
「……わたくしは絶対にそんなことしません」
「絶対なんてものは存在しないんだよ?」
先生の目は疑惑に満ちていました。
「あー!もう!先生は本当に頑固ですね!
もうそんなにわたくしのことを信じられないのでしたら、手っ取り早く契約の魔術を結びましょう。
先生を裏切ったら、わたくしの命を奪うとかそういう奴、ちゃっちゃと結びますよ! そうすれば信用できる様になるでしょう⁉︎」
わたくしはもう半分ヤケになっていました。
「どうして、そんなもの結ばなくちゃいけないんだ。
さっきのは冗談だよ。君にそんな足かせはいらないよ。君が僕を裏切らなくちゃいけない状況なんてそうそうないだろう。
……もしあったとして、僕を消すことを君が必要だと判断したなら、僕は消えた方がいい場面なんだろう」
相当弱っているのか、先生はとんでもないことを言います。
「どうしてそんなに自分の命に執着がないんですか!
わたくし先生のそういうところ大っ嫌いです!」
「君は僕のことを大好きと言ったり大嫌いと言ったり、忙しいね」
「先生が変なこと言うからですよ! わたくし、先生の弟子ですもの……。信じてくださいよ……」
先生から自虐的な空気が消え去り、いつもの先生に戻った気がしました。
顔には優しい微笑みが戻っています。
「僕の負けだ。リジェット」
わたくしは、先生の呪いに負けないくらいの呪いをかけましょう。先生が心から幸せになりますようにと心の底から願っているのですから。
「はい、魔法陣用意したので先生もここ手を置いてくださいね」
「本当に契約の魔法陣を作動させるの……? ん? えっ! まって、リジェット⁉︎ なんでよりによってこれ⁉︎」
「え? 先生が書いた初級魔法陣の本の中に載っていた最強の契約魔術って書いてありましたよ?」
「え⁉︎ あ? え⁉︎ 僕それ載せたっけ? あ、ああ~。載せたかもしれない。確かそれだけは魔術師の利権が絡むから、比喩を用いて一番魔術的拘束力が強い、って書いた気が……。需要が高い魔法品だから……。ちなみにリジェット、それがなんだかわかってる⁉︎」
「え? だから最強の契約の魔法陣ですよね?」
「ま・さ・か! ご存知ない⁉︎」
なぜかいきなりお嬢様言葉になった先生は相当焦っている様です。
「え? さっきから何を言っているんですか? あ……」
先生がバランスを崩して手を置いた先にはわたくしが用意した魔法陣がちょうどありました。
魔法陣はふんわりと優しい光を発生させました。契約が無事完了した様です。
「あああああ‼︎」
「契約……、成立しましたね……。これでわたくしは先生を裏切れません! 安心ですね!」
先生はなぜか両手で顔を隠しながら項垂れています。半分事故の様な経緯で契約を結んでしまったことがそんなにショックだったのでしょうか。
「……どうしよう。え? 契約解除には何がいるんだっけ? えーと……」
先生は一刻も早く契約を解除したい様でぶつぶつと何かを呟いています。
「……よし、多分大丈夫。契約解除、できる。多分。ああ……。でも今日は無理。ほんと無理……、元気になったら考えよう……」
先生はぐったりとして天を仰ぎました。
ベッドに沈んだ先生をしばらく観察していましたが、何もやることがなかったので、以前こちらにきたときに先生が読んでもいいと言っていた魔術論文をパラパラとめくります。先生は何かぶつぶつ言いながら、ベッドに倒れ込んでいたので、あらかた回復したら、帰ろうと考えていました。
強い突き刺さるような視線を感じて、先生の方へ目をやると、今度は先生がわたくしを観察するようにこちらをじっと見ていました。
「どうかしましたか?」
「君はセラージュに対して、もう怒りの感情を抱いていないの?
だいぶひどいことを言われてたみたいだけど」
お父様? 急に出てきた名前にびっくりしてしまいましたが、先生は今体調が悪い状態なのです。いろんなことを考えてしまうのでしょう。
わたくしはお父様にビシュッターの駒と例えられたあの時の様子を頭に思い浮かべながら、ゆっくりと答えます。
「怒りですか?
うーん。あの時はすごく嫌だったし、怒っていたと思うのですが今はそこまでは」
その答えに満足したのか、先生は微笑みます。
「君の怒りの感情は長続きしないんだね。
とても健康的で理想的だね」
「先生の怒りはそうではないのですか?」
先生はクスリと自虐的に笑います。
「僕の怒りは燻っていつまでも続くんだ。風が起こったりして、一時的に燃え上がることはあっても決して消えることはない」
その言葉にはゾッとするような冷たさが秘められていました。
先生は何に対して怒っているのでしょう。
もしかしてわたくし、何か気に触ることをしてしまったのでしょうか。
いや、今日はきっと気が触ることのオンパレードでしたから、怒るのも無理ないでしょう。反省します。本当にごめんなさい。
わたくしの表情から、一抹の不安を読み取ったのか、先生は「君じゃないよ」と小さく呟きました。
「僕が怒っているのはもっと根本的なことなんだ。
抗えない運命に怒っている、と言ったほうがいいかもしれない。
……あ、これただの独り言だから聞き流してくれると嬉しいな。恥ずかしいし」
先生は言わなくていいことを言ってしまったようで恥ずかしそうな顔を見せました。レアな表情にちょっとびっくりしてしまいましたが…‥。
なんだか、哲学的な答えを返されてしまって困惑してしまいます。わたくしには先生が何を言っているのか、半分も、理解できませんでした。
ただ、分かっているのは、先生はすごく弱っているのです。わたくしが想像する以上に弱って、体が辛いのでしょう。
そうでなければ、こんな風に弱音を吐いたりしないで笑顔で取り繕う方ですもの。
「もしかしてこの体調不良って以前言っていた呪いのせいでしょうか?」
「よくわかったね。そうだよ。」
先ほど服をめくってしまった時、痣のような黒い滲みが体にあることに気がついてしまったのです。
もしあれが、呪いだとしたら、それは全身に広がっているのではないでしょうか。
「呪いはどんな症状が出るのですか?」
「疲れてくると、体に痛みが出てきたり……、熱が出たりとかかな。前も言ったように筋力が付きにくくて痩せてしまうのも呪いの影響だと思う。
自分を巣喰っている黒いモヤが自分の内側を少しづつ蝕んでいるような夢を見ることが多いから、似たようなことが体内で起こっているんじゃないかな?」
なんだか聞いただけで辛さが想像できるような症状です。そんなに苦しい中、服を捲ってしまって申し訳なかったな……とあらためて反省しました。
「痛いの痛いの飛んでけ~」
「何それ?」
「わたくしの知っている痛みをどこかへ飛ばしてくれる不思議なおまじないですよ。まあ、子供騙しですけど」
「……子供騙しだとしてもなんだか君がやってくれると効く気がするね」
「それはよかったです」
なんでもない戯れが先生の心を癒してくれたらいいのに、と思ってしまいます。
わたくしのことではないのに、先生が痛いと思っているのを目の当たりにすると、わたくしまで痛みを感じるような気がします。
……先生にこんなひどい呪いをかけたのは誰なんでしょうか?
以前いた王都の方でしょうか?
まさか滅ぼしかけたと言っていた王族?
真相はわかりませんが、絶対に許しません。
犯人を見つけたら、わたくしが捻り潰してやります!
ただ、きっと優しい先生はわたくしに仇討ちをさせることは望んでいないと思うので、やるとしたらひっそりと遂行しなければなりません。
……王都に行ったら情報を集めましょう。
「こんなふうに体調を崩すのは初めてですか?」
今後先生と関わっていくにあたって、先生に無理をさせたくはありません。
わたくしは無意識のうちに先生を振り回してしまうところがあるので、体調を崩す頻度があるのであれば知っておいた方がいいでしょう。
「初めてじゃないよ。
年に二、三回あることだ。期間はまちまちだけどね。
……でもこんなふうに誰かが家にいることは初めてだ。どうして良いかわからない」
困ったように笑う先生は、なんだか小さな子供のように見えてしまいます。
「どうもしないでください。
今日の先生は病人です。そしてわたくしはお客様ではありません。
だから先生は何もする必要はないんです」
「不思議だね」
「その不思議を何も考えずに受け入れてください」
話しているうちに眠くなってしまったのか、先生は横たわるように体制を変えました。
先生の熱が上がってきてしまったので、慌ててわたくしは、キッチンをお借りして持っていたタオルを水で浸し、先生のおでこに乗せます。
冷たさが長続きするように、温度調整の魔法陣をつけておいたので、しばらくは気持ちよく使えるでしょう。
タオルを乗せられたことに、先生は目を瞠いて驚いていました。
「熱があるときにこういうことをやってくれる人がいるっていうのが、なんだか信じられないな」
と呟くように言いました。
もしかしたら、先生は看病されたことがないのかもしれません。それはとっても寂しいことです。
先生はきっと、どんなに自分の体が辛くても、痛みを隠して取り繕って生きていたんだわ。
まだ小さかった頃の先生が呪いの痛みに耐えながら蹲っている様子を想像するだけで、涙が出てきそうでした。
少しでも、先生の痛みが楽になるといいのに……。
何かほかにできることはないでしょうか。そう思ったときに、ふと前世のことを思い出しました。小さい頃熱を出すと、お母さんが熱が下がりますように、とお祈りをくれたのです。
「先生のためにお祈りでもしましょうか?」
わたくしは先生の瞳を優しく覗き込みます。
「お祈り?」
先生は短く聞き返します。
「そう。お祈りです。先生の痛みが少しでも和らぎますように」
言葉に出すと、なんだか恥ずかしいのですが、こういうのは思いが大切でしょう。
「いつか先生に恩返しをしたいのです」
「そんなのいらないよ。最初は暇つぶしになればいいと思っていたけれど、君が二年間もうちに遊びにきてくれて、いろんなことがあったけど、僕は本当に楽しかったんだ。今までで一番ね。
だからそれで十分だよ」
「いいえ。それではいけません。この二年間先生にわたくしお世話になってばっかりでしたもの」
わたくし決めました。
「わたくし、いつか先生の呪いを解きます」
「なに…を言っているのかな?」
先生の表情は困惑に満ちています。先生は多分国で一番優秀な魔術師でしょう。そんな魔術師が解けない呪いをただの伯爵家の小娘が解くというのは先生にとってはちゃんちゃらおかしいことかもしれません。
ですが、わたくしはこれから騎士学校に入学しますし、先生とは違う視点で先生が見逃してしまった、なんらかの鍵を探すことができるかもしれません。
先生がこんな風に苦しんでいるなんてわたくしは知りませんでした。この苦しみから解放したいというのは弟子として当然な思考でしょう。
「初めから、できないと決めつけないでください。もしかしたらできるかもしれないでしょう」
先生は困った顔でわたくしの顔を見つめています。わたくしの髪を手で優しく一度だけ梳くと、視線を外します。
「仕方のない優しい子だ」
「わがままで強欲なだけなのです」
笑みを強めたわたくしを見て先生はなるほど、と一言呟きました。
「じゃあ、期待しないで待っているよ」
「そこは期待して、とおっしゃってください!」
先生は目を細めて優しく笑ってくれました。
いつの間にか時間が経っていたようで、もういつもなら帰宅している時間でした。
あまり長居してもいけませんので、この辺りでお暇することにいたしました。
「そろそろ帰らせていただきます。騒がしくしてしまい、申し訳ありませんでした。
果物をいくつか買ってきましたので、よかったら食べてください」
「ありがとういただくよ。リジェットこそ気をつけて帰ってね」
「はい」
身支度を軽く整えて、立ち上がります。
カタンッ
「ん?」
何かが床に転がり落ちた気がしたのですが気のせいでしょうか?
一応あたりを見渡しましたが、何かが落ちているようには見えません。
「リジェット? どうしたの?」
「いえ……何かを落とした気がきたんですが……何も落ちていなかったので気のせいのようです」
「そう? 今度掃除した時に何か落ちてないか確認しておくよ。気がついていないだけで大切なものだったら困ってしまうからね」
「まあ、ありがとうございます。でも多分気のせいだと思いますわ。
……ではあらためて、失礼いたします」
わたくしは気を取り直して、先生にご挨拶をして部屋を後にしました。
家に帰ってから荷物を確認しましたが、特に何も減っていなかったので落とし物はしていないようです。
一安心しながら、自室で本を読みはじめます。
……コロンと音を立てて床に落ちたのが深い闇色をした小石だなんてわたくしはこのとき思ってもみなかったのです。
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