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第二章 王都の尋ね者(騎士学校一年生編)
53始まりの挨拶 前編
しおりを挟む僕がこの世界に呼び落とされてから、もう十三年も経つらしい。
前の世界にいた頃から、倍以上もの年月をこちらで過ごしてしまった僕にとって、あちらの世界での記憶は薄れてしまっている。
あちらの世界の海は確かに塩水だった。
「なにここ……? どこ?」
音が妙に遮断された、白い部屋。その日、僕は使用人から嫌がらせで水をかけられたまま、放置され、高熱を出して寝込んでいたはずだった。
信頼していた使用人から、水をかけられたことはショックだったが、きっと使用人も背に腹は変えられなかったのだ。嫌がらせは百パーセントこの家の主人からの指示だろう。使用人の女性には小さな妹がいた。
その妹を人質にでも取られたのだろう。そのくらいのことは六歳の僕にもわかる。
この家の主人は僕のことを風邪をひいて死んでしまった、不幸な子供に仕立て上げたかったのだ。殺した、なんて物騒な噂は立てず、あくまでもどうしようもない不慮の事故として処理したかったに違いない。幸い僕は生まれつき肺が悪く、その条件に当てはまりやすい子供だった。
こんなところで死んでたまるか、と心の底から思った。
しかし身体中を支配するような、苦しみは無残にも僕の体力を奪っていく。焼けつくような苦しみは明け方まで続き、僕の意識はついに途絶えた。
ああ、死んでしまった。
終わってしまった僕の人生。さようなら、故郷のカントリーハウス。
全てが終わったかと、思われたのに、僕は目を覚ました。どうして? 絶対に死んでしまったと言う確信があったのに。
周りを見渡すと、先ほど述べたとおり、白い部屋が広がっている。
しかし、遠くに何か黒いものが見える。僕はそれが何かも分からないまま、ただただ、果てへと歩いて行く。
それは紛れもなく人だった。正確に言うと、女性。僕と同じように緑が薄く混じった金色の髪を長くたなびかせた見たこともないくらい美しい人だ。親族にこんなお姉さんがいたら、きっと僕は懐くだろう。
だが、その美貌は残念ながら、遺憾無く発揮できない状況のようだ。彼女は木の幹のようなものに貼り付けにされていた。
息も絶え絶えにこちらを見た聖女は僕の顔を見て、絶望の表情を見せた。
「召喚者……? この子が?」
召喚者?
意味の分からないその言葉に眉を潜めていると、後ろから声が聞こえてきた。
「あっらあ。あたしったら。召喚に失敗しちゃったみたい。あなたの後継は男の子だったなんて!」
振り向くとそこには、もう一人女性がいた。
その顔を僕がはっきりと覚えていない。ただ、その人の顔を一瞬見て、完璧だ、と言う感想を持ったことだけは覚えている。
真正面から見ても、横から見ても、その女性は美しいという記憶はあるのだ。ただ、顔を一つに保っていなかった。炎が揺らぐように、女性の顔は変わって行く。
何ものだかは分からない。でもその女性が、僕たち人間よりもはるかに高位の生き物だろうと言うことは本能的に理解できた。
きっと、神様が本当にいるとしたら、こんな姿形をしているに違いない。
「湖の……女神……様……」
貼り付けになった女性はか細い声で、彼女のことを確かにそう呼んだ。
本当に……神様なの?
こう言う状況で、神様なんてものに出会ったら普通は高揚するのだろうか? しかし、僕はそれを手放しに喜ぶことはできなかった。
目の前にいる湖の女神という人物はあまりにも凶悪な笑い方をしていたのだ。ニタリとへばりつくような笑みは、君の悪さと生命の危機を僕に感じさせた。
__逃げなきゃ、でもどこへ?
正解もわからず、顔に多量の汗をかいていると、女神が僕と張り付けになった女性の顔を交互に見たあと、楽しそうにゆるんだ口を開いた。
「第一の聖女。残念だったわね。タイムオーバー。
後続の子が来た見たいね……。なんの因果か、男の子みたいだけど」
「聖女信仰が強いハルツエクデンにその子を送り込むなんて! せめて、シハンクージャやラザンタルクに送ることはできないの?」
「できないわ。今、聖女を送れるのはハルツエクデンだけだもの。他の二つの国は残念だけど基盤が弱いのよ。三国の管理者として……、もう少しマシな改良を、と思うのだけれど、なかなか手が回らなくてね……。あたしって一箇所を集中的に、作り上げたいたちなのよね」
「だからって……」
貼り付けになった女性の顔が悲壮に歪む。
どうやら彼女は聖女、という肩書きらしい。
「そうそう、ここに呼ばれたあなた? 名はなんというの?」
いきなり話しかけられた僕は慄く。本当は名なんて知られたくないけど、僕の口は恐怖で勝手に動いてしまう。
女神は逆らうことは許さない、というような圧を僕に無意識にかけているような気がする。
「僕は……。____です」
「そう、____っていうのね。残念だけど、あなたの名は今日限りで、封印します」
封印? 僕は____であることを失わなければならないの? 混乱する頭をなんとか落ち着かせる。
この人に逆らったら、ここで消されてしまう予感しかない。僕の従順そうな様子を確認し、気をよくしたような表情を見せた女神は言葉を続けた。
「あなたは、今日から……。シェナン・クゥールと名乗りなさい」
「シェナン・クゥール……」
「ええそう。第二の聖女、という意味の名前よ。……まああなたは男の子みたいだけど。そういうことってあるのよねえ」
キャハっと悪辣に笑った女神は、僕に音もなく近づく。瞬きをしたら、少し遠くにいたはずの彼女が目の前にいたため、瞬間的に冷や汗をドバッとかいてしまった。
そのまま僕の顎を掴み、耳元に口を寄せる。そのまま、鼓膜に染み込ませるみたいな淫靡で深い声でささやいた。
「ねえ、クゥール? ゲームをしましょう? 聖女の任期は百年。その間にあたしを殺せたら、あなたの勝ち」
「え?」
僕はいきなりの提案に目を瞬かせることしかできない。そんな僕を聖女と呼ばれた女性は心配そうに見つめていた。
「それで……。ゲームオーバーになると……。こう!」
そう言って女神はパチンと指を鳴らした。
すると聖女が貼り付けになった、土台がみるみるうちに黒く、焼けていく。鼻の奥にツンと焦げ落ちた有機物の匂いが届いた。
「ぎゃああああああああ!」
聖女の叫び声が、空間に響く。
その様子を見ていられなかった僕はギュッと目をつぶって、耳を塞いだ。しばらくすると音が消え恐る恐る目を開けた時には、跡形もなく聖女は消えてしまっていた。
僕はその瞬間、女神と名乗る目の前の生き物の力を見せつけられたような気がした。
汗が背中から、足から、滝のように流れているのがわかる。目が覚めてから何分も立っていないのに、僕は何を見せられていたんだ?
恐れ慄いた視線をその場に残った女神に向けると、女神はゆっくりと口角をあげた。
「大丈夫、安心して? 一度約束したら、百年経つまではあなたのことを殺しはしないわ。というか、一度、契約を結ぶと、あたしでもそれを破ることができないの。例外はあるのかもしれないけれど、あたしはそれを知らない。それって無いと同じでしょう?
あなたは、今後この世界でどんな大きい負傷を抱えても死ぬことはないわ」
__なにが安心して? だ。
聖女、という女性は百年間、女神を殺すことはできなかったんだろう。聖女という人は聡明そうに僕の瞳には映った。
その人が百年かけて、無し得なかったことを、僕にしろと?
なんて、無茶をいうんだ。
しかもわけもわからない場所で百年間も生かされるだって⁉︎
逃げたい、逃げたい、死にたい! ここから出る前に死なないと、百年間死ねない!
僕は舌を噛もうと試みた。
そんな僕を止めない女神は、お気に入りの玩具を見るような楽しげな顔で見つめていた。
「逝ってらっしゃい! 気をつけてね!」
また、目が覚める。
どうやら僕は死ねなかったようだ。ザワザワと、人の声が聞こえる。
鈍色に光るガラスに覆われた一室。あちこちに重そうな金のタッセルが付いた深緑色のビロードの天幕が貼られた、なにやら荘厳な部屋で僕は目を覚ました。
あたりを見渡すと僕は体ほどの大きさの紋様の上に立っていた。のちにこれが聖女を呼び出す魔法陣であったことを僕は知ることになる。
「どういうことだ! 聖女を呼び出したというのに、召喚されたのは男ではないか!」
咆哮したのは現ハルツエクデン王だった。優れた統率性を持ち、賢王と名高かった彼は頭を抱え、膝をつくと、周りにいたお供に介助されながら、部屋を退出して行った。
ここにきていきなり、いい大人が方向をあげて、嘆き喚いているのを見たのだから、ぽかんとすることしかできない。
僕はまた変なところに、飛ばされたことに焦り、あたりを見回す。
周りの人間の服装や、建物の様式はそこまで奇抜ではない。僕が高熱を出す前にいた家と様式は変わらないし、服も高位の貴族達が着ていた服装に近い。
とりあえず、情報を取り入れようと、耳をすます。
「なぜ……。男なのだ? 術式に間違いはなかったはずだろう?」
「どうやら現王は湖の女神の寵愛を受けられない方らしいな」
よかった。言葉も同じみたいだ。英語しか話せない僕にも内容が理解できる。
儀式に居合わせた関係者たちは、みな僕が男であることに、一様に落胆する言葉を発していた。
紛い物、失敗。様々な言葉が僕に降りかかる。
ああ、あの白い部屋で、聖女と呼ばれていた人が言っていた通りだ。僕は全く歓迎されていなかった。
聖女召喚の儀式で、不完全な生き物を呼び出してしまった、国の重役達は僕の処遇に困ってしまったらしい。
役目を果たすことは出来なそうだが、殺してしまうのも、女神の機嫌を損ねるきっかけになりうるということで、有識者の話し合いの結果、王城の隅の部屋に押し込められるように暮らすことが決まった。
暇で暇で、仕方のない生活の始まりだった。
部屋は決して質素ではなく、往生らしい気品ある装飾の客室だった。きちんと寝台も用意されていて、客人が来た際にもてなすようなソファとローテーブルのセットもある。クローゼットには洋服だってきちんと用意されていて、酷い扱いとは言い切れない暮らしだ。前の世界での待遇より、幾分マシかもしれない。
しかしその窓には鉄格子がはめられており、この部屋が訳ありの人間を収容するために設けられた部屋だということが嫌でもわかる。
その部屋で特になにをしろ、と言われることもなく、部屋の中で生きていることだけを強要される。
ベッドでゴロゴロしていても暇が潰れるわけでもない。僕は知識欲を持ち始める。
この世界はどんな世界なんだろう。僕が呼ばれた際に、魔法陣なんておとぎ話の世界感のものが使われていたんだ。きっと、もっと面白いものがあるに決まっている。
王城内のほとんどの書物は観覧に規制がなく、僕のような立場の人間でもそれを手にすることは出来た。それをいいことに、僕は読めるだけの書物を読み続ける生活を始める。
湖の女神……。あの怖い神様のことや聖女と呼ばれていた女性のことを調べていくと謎が解けていく。
湖の女神と呼ばれる神様は、僕の今いる国、ハルツエクデンとラザンダルク、それとシハンクージャという三つの国を作ったとされているらしい。
その三つの国にとって、湖の女神は信仰の対象とされていて、その住まいとされる、ハルツエクデン湖は聖地とされている。ハルツエクデン湖自体はなんの変哲もない湖だが、何百年かごとに湖から気まぐれに現れる女神は、気に入った土地に祝福を授ける。
その土地には特殊な力が宿り、繁栄しやすくなるのだ。
しかし気まぐれな女神は湖周辺の土地にしか、祝福を授けないのだ。
そのため、三国間で聖地の扱いは極めて、難しく、ハルツエクデンからハルツエクデン湖を奪おうと、何回も戦争が起きているそうだ。
戦いは日に日に苛烈になり、治ることはなく、三国は荒れに荒れた。それを治めるために、この地に召喚されたのが“聖女“と呼ばれる存在らしい。
以前の聖女が残した記録を確認していると、聖女の力は神力、と呼ばれるものであるということがわかった。
神力はこの世界の魔力の聖の要素に性質は似ているが、その威力は比べられないほどのものらしい。
使い方を覚えれば、どんな禁術でも使うことができて、かつ火力が異常に高いなんてこの世界ではほとんど無敵だ。
僕は一応、聖女枠としてこの世界に召喚されたのだから、その神力とやらが使えないか、確認してみる。
手始めに、植物を癒すところからやってみよう。
僕は部屋を抜け出し(僕の部屋には一応見張りはいるが、それほど厳しくはない。もはやザルと言ってもいいくらいだ)、王城に接する森へと足を運ぶ。
その中で、木々が枯れている場所を探し、聖女の記録の中にあった、再生の祝詞を口にしてみる。
「生命の導きに反する悪し乱れよ。一切の欠けを残すこともなく、穢れを払い給え……ってこんな感じかな?」
首を傾げながら、目の前の森を見る。すると、森の葉は白い光を放ち、シュワリと何かが溶けて抜け落ち、空に還って行った。
なにが起こったのか分からずに、僕は目を擦る。枯れていた木々は元の青々とした様子に戻っていたのだ。
__僕の力は生き物を蘇らせてしまうほどに、強大だったのだ。
僕の変化はそれだけではなかった。この世界に入った瞬間、僕の記憶力は驚くほどに精度を上げたのだ。見たもの、覚えたいと思ったものが信じられないくらい明確に、するすると頭に入って行く。
その記憶力を生かして、魔術を勉強することにした。幸いにも、放任状態が続いていたので、王城に出入りしていた魔術師の紹介を受けて、魔術省に出入りする権利を得ることが出来た。そこで、学ぶと一年ほどで、ほとんどの魔法陣は使うことができるようになっていた。
世界が違うと、自分はこれだけ大きな力を持つのか、と妙に感心したのを覚えている。
この世界のものは僕を損なうことはできない。
そんな僕の様子を見て、様々な人間が僕の評価をあげてゆく。長い間、放任状態で、役に立たず、廃棄もしにくい聖女のなり損ないに、利用価値が出てきたのだ。
王城で何年か暮らすと、僕を捕らえて、使役しようと試みる者が現れ始めた。
その者たちはことあるごとに、僕に危害を加えようとしてきた。
どんな攻撃を受けても、僕は女神の百年契約のおかげで、死ぬことはなかった。
しかし確かに、死ぬことはなくても、加虐されたら痛いのだ。
誰も僕の面倒を見てくれる訳でもなく、庇護も無い。傷ついた体を魔法陣や神力で直していく生活は、心を荒ませていく。
僕はどんな時も、一人で痛みに耐え続けた。
痛いことなんて好きではない僕は、危害を加えたものには制裁を加えることにした。
焼かれたら、焼き返す。
嬲られたら、嬲り返す。
日々はその繰り返しだ。
そんな暮らしを続けていると人々は僕に恐れを抱いた。王都の人間は誰も僕を、人間として扱わなくなっていく。
気がつけば、僕は魔物と呼ばれるようになっていた。
僕が自分の損なわれない頑丈さを呪い始めたのはその頃からだ。強ければ強いほど、人は僕は孤独になって行く。
誰と話しても、皆僕に畏怖を抱く。この世界に絶望して自死を望んでも女神の加護のせいで死ねない。
ひとりぼっちは、痛くて苦しい。
この世界に僕がいる意味なんて何もない。虚無だ。
__そんな空虚な日々の中で自分のことをただの人間だという、不思議な子供に出会う。
あの子供は僕のことを聖女でも、化け物でもなく、先生と呼ぶ。それはこの世界に落とされた時に与えられたクゥールや聖女という役職ではなく、全く新しい僕個人の呼び名だ。
それを与えられた時、僕はこの世界に少し受け入れられたような気がしたのだ。
僕があの子供に出会ったのは恩寵だったのだろう。
今なら、それがはっきりとわかる。
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