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電柱下での約束

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「ねえ、私の為だけに生きてよ」

 突然、彼女はこちらに振り向いて言葉を転がす。街灯のない夜道では詳しい表情は伺えない。
「……どうしたの。いきなり」
「だって……、だってさ……」
 彼女は自身の髪でカーテンを作って、全部を覆い隠すように立ち止まった。僕は静かに近寄って前髪を払うが、自分よりもうんと小さな手に簡単に手首を掴まれ、阻まれてしまった。
「しょうくん。癌がわかってからどんどん痩せちゃって、顔色も良くなくて、……このままじゃ死んじゃうかもしれなくて」
「……治療もしてるし、大丈夫だよ」
「でも、手術もできない状態なんだよ? ……私、怖いよ」
「……」

「怖いの! 怖いんだよ!」

 僕はここが公道であることを気にせず彼女を抱きしめる。こうする事しか、今の僕にはできないから。――幸い人が通ってくることはなかった。
「お願い、お願いだから私の為にもっと生きてよ。もっと一緒にいたいよ」
 Tシャツの胸元をシワが取れないくらい掴む彼女に、僕は思わず涙ぐむ。フラッシュバックのように、先日医者から『膵臓癌の進行度がまた進んでいる』と報告されたのを思い出した。
 
 入院して、放射線治療も投薬も受けた。ダメだった。都会に出て、お金をかけて高い治療もやった。それもダメだった。これからまた入院するけれど、一体どれだけ彼女と過ごせるだろうか。せっかくやっと結婚もして一軒家の話もしていたのに。
 
 僕は彼女を抱く腕の力を強くする。生きてるよ、って全身で伝えるために。
「次の入院が終わったらきっともっと元気になるよ。おそろいのコップとかの話してたらすぐだよ」
「うん。……うん」
「僕もずっと一緒にいたいから、頑張るから……。リカも応援して待ってて」
「約束だよ」
「うん」
「絶対だからね」
「絶対だね」
「治療終わったらハネムーンの準備だから。……今日はしょうくんの好きな番組あるし早く帰ろっか」
「そうだね」
 手を繋いで二人で歩き出す。今日のドラマの話をする彼女の声音は心なしか明るくなっていた。
 彼女のために生きたい。
 先程の彼女のセリフでは無いけれど、僕は強く思った。



 ――それはもう、たぶん、叶うことはないけれど。
 たった一ヶ月ちょっと前の会話を僕は思い返していた。彼女は泣きながら僕の手をさするけど、それに握り返して応える力ももう残っていない。うまく動かない手は緩く震えるだけだ。
 視界には五月初めらしい緑と、彼女の顔がぼんやり映っている。大好きな彼女の顔も、もうよく見えない。
 
(リカ……泣かないで……)
 
 ベッドの上で細い息を吐きながら、寝たきりの僕は死期を悟りつつ、彼女の未来を想った。
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