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第三章 旅
第49話 六合夜市
しおりを挟む高雄の夜は、熱気と光で溢れていた。
“六合夜市”。
頭上には色とりどりの提灯が連なり、赤や橙の灯りが夜空を柔らかく染めている。
屋台がずらりと並び、鉄板の上では肉が焼ける音。香辛料の香りが鼻腔をくすぐり、油のはじける音が鼓膜を刺激してくる。
「うわ、めっちゃええ匂いするー!」
隼人が先頭を歩きながら、目を輝かせて屋台を一つひとつ見て回っていた。
「このトウモロコシ、甘辛いタレ塗って炭火で焼いてんねん! 絶対うまいって!食うぞ英斗!」
「待て待て、全部の屋台回る気かよ」
俺は呆れたように笑いながらも、財布を押さえた。
このまま流されれば、間違いなく“予算オーバー”になる未来しか見えない。
その横では――
「……こういう賑やかな雰囲気、ちょっと苦手なんだけど」
雨宮が少し顔をしかめながら、肩からかけたスケッチバッグを胸に抱えていた。
けれど、その目はしっかりと周囲を見つめている。
「……あの屋台、看板のデザインが面白い。あとでスケッチしよう」
呟くような声は、すでに“観察モード”に入っていた証だった。
一方、咲耶は少し離れた位置から静かに人の波を眺めていた。
モノトーンのカットソーにロングスカートという落ち着いた服装。
表情はまだ硬く、船酔いの影響が抜けきっていないようだった。
けれど、彼女なりに歩調を合わせ、夜市の空気を味わおうとしているのが伝わってくる。
俺は近くの屋台でドリンクを買って戻ってきた。
「ほら、これ。タピオカミルクティー。あんまり甘くないやつ」
咲耶に手渡すと、彼女は少し驚いたような顔でそれを見つめ――そっと受け取った。
「……助かります」
そして、静かに一口。
「……ん。……美味しいです」
ほんのわずかに、口元が緩む。彼女の張り詰めた空気が、少しだけ和らいだ。
「英斗、俺らの分は?」
隼人が口を尖らせる。
「自分で買え」
「翼さん、どない思います?」
「吉野君、冷たいよね」
雨宮まで小さく頷いてくる。
「くっ……」
俺は無言でUターンし、結局ふたりの分も買ってくることになった。
◇
「おっ、あれ……ちょっとヤバそうやけど……うまいんかな?」
隼人の声に、俺たちの視線が止まった。
彼の指差す先には、ひときわ強烈な匂いを放つ屋台。
ツンと鼻を刺すような発酵臭が、空気を切り裂くように漂っていた。
「……うっわ、なにこれ……」
顔をしかめながら、俺は思わず半歩後退した。
「……臭豆腐だね」
雨宮が平然とした顔で答える。
「台湾名物。発酵させた豆腐。好きな人にはハマるけど……」
「嫌な予感しかしない」
俺はさらに二歩後ろへ下がる。
だが――
「これは挑戦せんわけにはいかんやろ!」
隼人は鼻をつまみながらも、まるで戦場に挑むような気合いで注文していた。
「観光地でビビってたらアカン! この勇気が世界を変えるんや!」
熱弁と共に紙皿を手にし、戦士のような気概で一切れをつまみあげる。
――そして、覚悟を決めて、口の中へ放り込んだ。
「うぐっ……んがっ、んぶっ――おえぇぇぇえええっっ!!」
数秒後。
屋台の脇でうずくまり、悶絶する隼人の姿があった。
涙と鼻水を垂らし、顔を真っ赤にしてしゃがみ込む。
「隼人!……だ、大丈夫か……?」
俺は引き気味に声をかける。
「む、無理や……無理やて……翼君、どうぞ……」
ふらふらと立ち上がり、手の震える紙皿を雨宮に差し出す。
雨宮は一瞬だけ躊躇したが――
何かを思いついたように、黙って皿を受け取った。
そして、ひと切れ。
匂いに顔をしかめながらも、慎重に口元へ運ぶ。
「おい、まじで行くのか……」
止めようとしたその瞬間、雨宮はぱくりと食べてしまった。
沈黙。
数秒後――
「……美味しい? ……これ、案外いけるかも」
平然とした顔で呟いた。
「うそやん……もっかい試してみよかな……」
隼人は再び、恐る恐る手を伸ばし一口。
すると。
「……うそだよ」
ぼそりと一言だけ告げると、雨宮はくるりと背を向け、茂みに走り去っていった。
「ぐ……んぶっ――おえぇぇぇえええっっ!!」
二度目の悲鳴と共に、隼人が白目をむいてその場に崩れ落ちた。
「つ……ばさ……」
俺は、その瞬間を見逃さなかった。
咲耶がすぐ隣で、小さく口元を上げていたのだ。
――まるで、“ざまぁみろ”とでも言いたげな、静かな勝者の微笑み。
「…………」
何も言えず、ただ頷いた。
それから、俺たちはしばらく屋台の並ぶ通りを歩き回り――
観覧車のあるエリアへと足を運んだ。
屋台の喧騒が徐々に遠ざかり、夜の空気がほんの少し、静けさを取り戻し始めていた。
翌朝――。
窓の外から射し込む柔らかな朝陽と、遠くから聞こえる港の汽笛。
俺たちは、再び海へと戻る日を迎えていた。
「……名残惜しいな」
隼人が大きく伸びをしながらホテルのロビーで呟く。
顔色は昨晩よりだいぶ良い。臭豆腐の記憶はまだ尾を引いていそうだが、それでも元気そうだった。
「次の船は同じグロリア・マリーン5号……予定では明日の夕方に那覇港、その次が本州……横浜か東京港です」
咲耶が手元の端末を確認しながら、きっちりと情報を伝える。
「今のうちに食料とか、ちょっとした買い物済ませといた方がええかもな」
隼人がカバンをゆすりながら言ったが、荷物の中にはどう見てもお土産の袋が増えていた。
「……旅慣れてきたね」
雨宮はボソリと呟きながら、肩に液タブのケースをかけ直す。
今日も表情は穏やかだったが、その目は出航前の街並みをしっかりと記憶に刻み込んでいるようだった。
◆
再び、港へ――。
《グロリア・マリーン5号》が、朝焼けのなか静かに停泊していた。
船体の表面は淡く金色に照らされ、どこか金属的な光沢を放っている。
まだ完全に目覚めきらない街の中で、巨大なその影だけが、確かな存在感をもって岸壁に寄り添っていた。
昨日までと同じ船。それなのに、その姿はどこか違って見えた。
“ただの移動手段”だったものが、今は――
これから向かう先に待つ“何か”への覚悟を、無言で語っているようだった。
「ふぅ……戻ってきたって感じやなぁ」
隼人が、桟橋に響く金属音と共に歩き出す。
小さなリュックを揺らしながら、どこか懐かしそうに振り返った。
「うぅ……また乗るのですね……」
咲耶は帽子のつばを押さえ、軽く眉をひそめながら空を見上げていた。
船の向こうに広がる朝焼けは、どこまでも穏やかで――不思議と心を落ち着かせる。
「でも、今日の海は静かそうだ」
雨宮の声は、波の音に混じって、さらりと耳に届く。
旅慣れた視線で水平線を見つめながら、小さく頷いた。
タラップを上りながら、通りすがる船員たちに軽く会釈をする。
皆、昨日とは違う緊張と疲れを背負いながら、それでもどこかに“連帯感”があった。
「さあ、あと二泊くらいやろ?」
隼人が振り返りながら、にやっと笑う。
「もう一回、夜市行きたいな~……那覇の屋台とかどうやろ?」
「今回も……無事に行けるといいね」
雨宮が少しだけ笑って応じる。
その言葉には、冗談のようでいて、どこか本気の祈りが混じっていた。
咲耶は真顔でこくりと頷く。
「緊張しすぎやって~、咲耶ちゃんは」
隼人が肘で軽くつつく。
「もう少し肩の力抜いたらええで?」
「……まぁ……そうですね……」
咲耶は表情を変えず、けれど、ほんのわずかに目元を緩めて見せた。
「さあ、行こう」
俺たちは並んで、再びあの船に足を踏み入れた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
束の間の寄り道――台湾・高雄で過ごした時間は、笑いと絆、そしてほんの少しの回復をもたらしてくれました。
雨宮と隼人、咲耶、それぞれの個性が滲む夜市の騒がしさの中で、彼らは“仲間”になってきています。
再び船へと戻る一行を待つのは、果たして安息か、それとも――。
“旅の中盤”を迎える今、物語は静かに、次なる波を孕み始めます。
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