アセンデッドの繭

星裂 翔

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序章

異常の兆候

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東京大学医学部附属病院の神経内科病棟に、奇妙な患者が運び込まれたのは、桜の散り始めた四月の午後だった。「先生、緊急搬送です」看護師の田中が、息を切らしながら診察室に駆け込んできた。「十九歳の男性、意識混濁と異常行動で救急搬送されました」神経科学者のレオ・ハートマンは、手にしていたコーヒーカップを置いて立ち上がった。三十五歳の彼は、脳神経科学の分野で注目される若手研究者として知られている。特に、デジタル技術が人間の認知機能に与える影響について、先駆的な研究を行っていた。「症状は?」レオは白衣を羽織りながら尋ねた。「搬送時、患者は空中の何かを掴もうとする動作を繰り返していました。『いいね』を押さなければならないと言って、止まらないんです」レオは眉をひそめた。最近、似たような症状の患者が増えている。若者を中心に、SNSやゲームに関連した異常行動を示すケースが報告されていた。医学界では「デジタル依存症候群」と呼ばれているが、その原因は解明されていない。救急外来に向かう途中、レオは病院の廊下で異様な光景を目にした。待合室にいる患者たちの多くが、同じような動作をしている。スマートフォンの画面を見つめながら、機械的にスワイプを繰り返している。その動作は、まるでプログラムされたロボットのように一定のリズムを刻んでいた。「おかしい」レオは呟いた。「あまりにも動作が統一されている」救急外来に到着すると、搬送された患者の様子を確認した。田中の説明通り、十九歳の大学生は、空中に向かって指を動かし続けている。その動作は、明らかにスマートフォンの操作を模倣していた。「患者の名前は?」「山田太郎さんです。東京工業大学の学生で、コンピューターサイエンスを専攻しています」レオは患者に近づき、瞳孔の反応を確認した。瞳孔は正常に光に反応するが、視線の焦点が合っていない。まるで、現実とは異なる何かを見ているようだった。「山田さん、聞こえますか?」レオは優しく声をかけた。患者は振り返ったが、レオを見ているようで見ていない。その目には、奇妙な光が宿っていた。「いいねを押さなければ」患者は機械的に呟いた。「フォロワーが減ってしまう。アルゴリズムが、アルゴリズムが私を見ている」レオは戦慄した。患者の言葉は、単なる妄想ではない。何らかの強迫的な思考に支配されているようだった。「いつからこの症状が?」レオは付き添いの友人に尋ねた。「昨日の夜からです」友人は心配そうに答えた。「最初は普通にSNSを見ていたんですが、だんだん様子がおかしくなって。一晩中、スマホを操作し続けていました」「使用していたアプリは?」「主にInstagramとTikTokです。あと、最近『NeuroBoost』という新しいアプリをダウンロードしていました」レオは聞き慣れない名前に注意を向けた。「NeuroBoost?」「脳機能を向上させるアプリだそうです。クロノス・テック社が開発したもので、最近若者の間で人気になっています」クロノス・テック社。レオはその名前を知っていた。AI技術とニューロテクノロジーの分野で急成長している企業で、CEO のアダム・クロノスは「人類の認知能力を次のレベルに押し上げる」と豪語していることで有名だった。レオは患者の血液検査を指示した。通常の検査項目に加えて、特殊な項目も追加した。最近の研究で、デジタル依存症患者の血液中に、原因不明の微細な粒子が検出されるケースが報告されていたからだ。検査結果が出るまでの間、レオは患者の脳波を測定した。脳波計のモニターに表示された波形を見て、レオは息を呑んだ。「これは、異常だ」通常の脳波とは明らかに異なるパターンが表示されている。特に、19Hzの周波数帯域で、異常に強い活動が観測されていた。この周波数は、人間の前頭前皮質の活動と密接に関連している。「19Hz」レオは呟いた。「なぜこの周波数だけが?」その時、検査室のドアが開き、血液検査の結果を持った技師が入ってきた。「先生、検査結果です。通常の項目は正常値ですが、一つ気になることがあります」「何ですか?」「血液中に、微細な磁性粒子が検出されました。サイズは約200ナノメートル、材質は酸化鉄のようです」レオは驚いた。200ナノメートルという大きさは、赤血球の約40分の1に相当する。これほど小さな粒子が、どのようにして体内に入ったのだろうか。「この粒子、どこから来たのでしょうか?」技師が尋ねた。レオは考えた。磁性粒子、19Hzの脳波異常、そしてNeuroBoostアプリ。これらの間に何らかの関連があるのではないだろうか。「患者さんは、最近ワクチンや注射を受けましたか?」レオは友人に尋ねた。「そういえば、先月『脳機能向上ワクチン』というものを受けていました。クロノス・テック社が無料で提供しているもので、認知能力が向上するという触れ込みでした」レオの心に不安が広がった。脳機能向上ワクチン、磁性粒子、そして異常な脳波。これらが偶然の一致とは思えない。その時、病院の緊急放送が流れた。「緊急事態発生。渋谷区内で、原因不明の集団異常行動が報告されています。症状は、反復的なスマートフォン操作動作と意識混濁です。該当する患者の搬送に備えてください」レオは窓の外を見た。夕方の東京の街並みが広がっているが、その向こうで何かが起こっている。「集団発症」レオは呟いた。「これは、もはや個別の症例ではない」病院のテレビでは、ニュース速報が流れている。渋谷のスクランブル交差点で、数百人の若者が同時に異常行動を示している映像が映し出されている。彼らは皆、空中に向かって同じような動作を繰り返している。「まるで、操られているようだ」レオは戦慄した。その時、レオのスマートフォンに着信があった。発信者は、東京大学の同僚である田所教授だった。「レオ君、大変なことになっている」田所教授の声は緊迫していた。「君の病院にも、異常行動の患者が運ばれているだろう?」「はい。血液中に磁性粒子が検出されました」「やはりそうか。私の研究室でも、同様の症例を分析している。これは、単なる病気ではない。何者かが、意図的に人間の脳を操作している可能性がある」レオは田所教授の言葉に衝撃を受けた。「脳操作?そんなことが可能なのですか?」「理論的には可能だ。磁性ナノ粒子を脳内に配置し、外部からの電磁波で加熱することで、特定の脳領域の活動を制御できる。最近のMITの研究でも、類似の技術が報告されている」「しかし、なぜそんなことを?」「分からない。しかし、確実に言えることは、これが偶然ではないということだ。組織的で、計画的な攻撃の可能性がある」レオは病院の窓から、再び街を見下ろした。普通に見える東京の夜景だが、その下で見えない戦争が始まっているのかもしれない。「田所教授、私たちは何をすべきでしょうか?」「まず、証拠を集めることだ。そして、この技術を開発した者を特定する必要がある。クロノス・テック社が怪しいが、確証はない」通話を終えた後、レオは再び患者の様子を確認した。山田太郎は相変わらず、空中に向かって指を動かし続けている。しかし、よく観察すると、その動作には一定のパターンがあることに気づいた。「まるで、何かのコードを入力しているようだ」レオは呟いた。その時、患者が突然口を開いた。「プロメテウスが、プロメテウスが呼んでいる」レオは驚いた。「プロメテウス?」「火を盗んだ神。人類に知識を与えた神。しかし、今度は人類から何かを奪おうとしている」患者の言葉は、妄想のようでありながら、どこか意味深だった。プロメテウス。ギリシャ神話の神の名前だが、なぜ患者がその名前を口にするのだろうか。レオは、この事件の背後に巨大な陰謀が隠されていることを直感した。そして、自分がその陰謀の中心に巻き込まれようとしていることも。夜が更けていく中、東京の街では異常行動を示す人々が増え続けていた。彼らは皆、見えない何かに操られているかのように、同じ動作を繰り返している。レオは決意した。この謎を解明し、人々を救わなければならない。しかし、その時の彼は、自分自身もまた、この巨大な実験の被験者の一人であることを知らなかった。病院の地下では、誰も知らない場所で、小さな装置が静かに電磁波を発信し続けていた。その装置には、「NeuroNano Control System - Phase 1」という文字が刻まれている。人類の脳を巡る戦いが、静かに始まっていた。
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