爺ちゃんの時計

北川 悠

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回天

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「爺ちゃんは姉が一人、弟が一人の三人兄弟でな、家は小作農家で貧しかった―昭和十八年、十七歳の時に自ら海軍予科飛行練習生、いわゆる予科練に志願したんだ」
「予科練って零戦とかの? てか志願したの?」
 予科練。新一は昔、何かの映画で見た事があった。
「そうだ志願した。でも正直に言うとな、その時はお国の為とか、戦争に参加したかったとか、そういう訳じゃない。一番の目的は食いぶちを減らすためだった。それに爺ちゃんが兵隊になれば母ちゃんに仕送りだってできる。飛行機にも乗ってみたかったしな」
「零戦?」
「ああそうだ。戦闘機乗りは当時の若者の憧れだった。零戦のパイロットは格好良かったからな」
「乗ったの?」
「いいや、順番が回ってこなかった。昭和十九年、予科練の学科を修了する前に戦局は悪化してな、もう戦闘機など、ほとんど無かったんだよ」
 賢一は窓の外の青空を仰ぎ見て続けた「ある日、少佐が爺ちゃんたち予科練生を前にして言ったんだ。このまま予科練を修了しても、戦闘機には乗れない可能性が高い。それより海軍の特殊兵器に搭乗する希望者はいるかと」
「それが回天?」
「ああそうだ。右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの。そう説明を受けた」
「そんな抽象的な言い方? 誰も質問しなかったの?」
「海軍の機密だから質問は一切受けない。これ以上説明はしない。希望するのかしないのか、それだけだった」
「マジか……でも、その言葉だけで、それが特効兵器だってわかったの?」
「一撃必殺、危険を伴う。まあその言葉で何となく理解した。周りの連中も察しただろう」
「で、希望した?」
「ああ」
「どうしてだよ。百パー死亡の殺人兵器だろ。今なら志願どころか暴動だよ」
「今ならそうだろうな。でも当時はそうじゃなかった。戦争だ。国と国が本気で殺しあいの喧嘩を始めたんだ。どちらかが勝って、どちらかが負けるまで終わる事はない。引き分けはないんだ。勝つまで辞めるつもりは無いし、そう教育されてきた」
 賢一は一呼吸おいてから続けた「そりゃ誰だって、例えば小さな子供だって、喧嘩をしたら負けるより勝ちたいに決まっているだろ」
「でも、それって洗脳……」
「そうだな。でもな……同僚や友人が次々と死んでいくんだ。このまま更に戦局が悪化すれば、いずれ親兄弟や恋人までもが死ぬかもしれない。それを食い止める事が出来るのは、それを守る事が出来るのは、前線で戦わなければならない自分達だったんだ。皆そう思っていた。だから実際、ほとんどの者が我先にと志願したんだよ」
「そんな……」
「もし、この戦争に負ければ日本はアメリカの植民地にされる。三千年続いた神の国、日本は連合軍によって滅ぼされる。軍人は殺され、女は犯され、残ったものは奴隷のような生活を余儀なくされる。皆そう思っていた」
「凄い考えだね」
「ああ、そうだな。でも実際B29によって本土空襲が始まってからは家族を亡くした者も多かった。爺ちゃんの両親も姉も後の空襲で亡くなった」
「壮絶だね。現実にあった事なんだよな……」
「まあ、そんな訳で、爺ちゃんもその特殊兵器の搭乗に志願した」
 窓の外を見上げると、旅客機が少しずつ高度を下げながら羽田に向かっていく姿が目に入った。賢一は缶珈琲を握ったまま、悲しそうにその飛行機を目で追っていた。
「無理して話してくれなくてもいいよ」
 何だか爺ちゃんがかわいそうで涙が出そうだった。
「もう聞きたくないか?」
 窓の外の飛行機を見ながら賢一が言った。
「いや、聞きたい。俺、ちゃんと爺ちゃんの話を聞いたこと無かったし、もっと早く、聞いておけばよかったって思ってる」
「ありがとな新一。えっと、どこまで話したっけな」
 そう言った爺ちゃんの顔はいつもの優しい爺ちゃんの顔だった。
「海軍の特効に志願したってとこ」
「そうだった。爺ちゃん達、予科練からの志願兵は山口県の大津島にある海軍基地に連れていかれた。そこですぐにその兵器を見せられたんだが皆、足がすくんだよ。そいつは大きくてな、どう見ても魚雷そのものだった」
「ちょっと待って」
 新一はスマホを取り出して、回天を検索した。
「元々は九十三式三型魚雷という超大型の魚雷だったものに操縦席を設けて、更に炸薬量を二倍にしたものだ」
「それが回天か。かなりヤバいね」
 新一は検索した画像を爺ちゃんに見せた。
「そう、それだ。爺ちゃん達は的とよんでいた。まず基礎知識を詰め込んで、その後は、その複雑な操縦を覚え、最終的には近海で航行訓練を繰り返したんだが、なかなか思うように操縦出来るような代物ではなかったよ」
「見てみるね」
 新一はスマホに回天、操縦と打ち込んで検索した。
「うん、ほんとだ。ネットにも非常に複雑で操縦が難しかったと書いてあるよ」
 模型ではあったがスマホに映し出された回天の操縦室を爺ちゃんに見せた。
「ああ、そんな感じだったな。沢山ある弁を覚えるのが大変でな、操縦室は狭いし薄暗いし油臭かった。酷い有毒ガスが発生することもあってな、それで死ぬものもいた」
 賢一は目を閉じて続けた「勿論、窓などないし、レーダーも無い。回天には目が無いって訳だ。隊員は秒時計とゲージだけを頼りに頭の中で計算しながら操縦するんだが、そんな状態で洋上を航行している敵艦船にぶつけるなんて神業だな」
「見えないのか。メッチャ難しいね」
「ああ、正直できっこないと思ったよ。最も、最初は停泊中の敵艦船を狙ったが敵もバカじゃない。あっという間に防衛策をとられてしまったというわけだ」
「で、航行中の船を狙ったと?」
「そうだ、だが簡単に当たるものじゃない」
「でも、実際それなりの戦果はあったんじゃないの?」
「人間が操縦して体当たりするのだから、百発百中と言われたし、出撃の度に華々しい戦果が報告されるものだからな。爺ちゃんも含めて隊員の士気はうなぎ登りだった。だが実際はそうじゃなかったんだ」
 賢一は珈琲を啜ると、またしばらく沈黙した。
「実際の戦果はたいした事なかったんだね。確かに、戦後の調査では命中率二パーセントって書いてあるよ」新一は検索した記事を見ながら言った。
「新一、お前は自転車が得意だったな」
「えっ? 得意って程じゃないけど」
「例えばな、お前の数十メートル先を一台の自転車が走っているとする。向こうからはお前の姿が見えていないと仮定する。お前は自転車に乗り、方向を修正した後、目隠しをして発進し、その走っている自転車の側面に体当たりする事ができるか?」
「できっこないよ」
「なぜそう思う?」
「相手が止まっているならまだしも、動いていたら無理だよ」
「その通りだ。回天は発射後、一度浮上して、現在位置から敵艦船までの距離と航行速度を一瞬で判断し、自艇の入射角と速度を割り出して突入を開始する」
「マジか」
「ああ。後はひたすら秒時計を確認しながら航行し、激突の瞬間。つまり己の死の瞬間を待つ。技術的にも精神的にも並大抵のことじゃあない」
 死を目の前にして尚、要求される強い精神力と判断力か……新一は仕事がつまらない、先輩が気に入らないからといって、すぐ会社を辞めてしまった自分が恥ずかしくなった。
「更に、運も必要だ。途中で故障する事もあるし、発進後、敵に発見されれば十中八・九衝突前に撃沈される。つまり犬死だ」
 一呼吸おいて賢一は続けた「何かしらのトラブルで発進出来ない事も多かったし、そもそも回天を搭載した潜水艦ごと撃沈されてしまう事もあった。回天の耐圧深度は八十メートルしかないから、潜水艦はその深度までしか潜れない」
「それって問題なの?」
「ああ問題だ。水深八十メートル以内で敵に捕捉されたら対潜爆雷で狙い撃ちにされるわけだ。潜水艦の航行速度は洋上の艦船より遅いから逃げ切る事は難しい」
 回天が命中すれば隊員は元より、当然、敵艦にも多くの犠牲者が出る。現在の平和な日本に暮らす新一には、回天が次々と敵に命中した方が良かったのかは分からないが、それでも爺ちゃんの話を聞くとなんだかやるせなくなってくる。
 今の時代、インターネットを検索すれば何でも調べられる。だが、ネットで調べた情報はあくまで結果論だ。戦争を知らない世代が、いくら綺麗事を並べても心に響かない。当事者である爺ちゃんの言葉は一つ一つが新一の胸に突き刺さった。
「その時計を爺ちゃんにくれた上官は相良少尉といってな、爺ちゃんと同じ回天隊員だった。そこの写真を取ってくれるか」
 新一は時計の入っていた引き出しを開け、写真の束を爺ちゃんに渡した。その中には家族の写真や新一の子供の頃の写真も数枚混じっていた。
 賢一は束の中からセピア色の古い写真を一枚選んで新一に渡した。
「それは爺ちゃんと同じ潜水艦に搭乗した回天隊員の写真だ。向かって右から二番目が爺ちゃん、その左隣が相良少尉だ」
 賢一は写真の中の相良少尉を指さした「出撃の当日に撮った写真だよ」
「爺ちゃん若いな。相良少尉はイケメンだね」
 写真の中の六人は皆若く、そしてとても凛々しかった。今、正にこれから死に行く者の顔とは思えない。死んでいく自分達が見る事の無い写真。遺族に渡すため、あるいは記録の為に撮ったのであろう。皆、どんな気持ちでカメラを見つめたのだろう。
「少尉って言ったら士官だよね? 士官でも特効の隊員になったの?」
「回天の隊員の中には中尉も大尉もいた。みな志願だった。相良少尉は学徒出陣によって徴兵された人でな、戦死などで不足した士官候補生だ。W大学の学生で、とても頭のいい人だったよ。少尉は二十三歳だった」
 二十三って言ったら俺と同い年じゃないか……            
「なぜそんな人が特効に志願したのか? でも、まあ当時は皆そうゆう流れにのまれておった。戦争などするつもりのなかった爺ちゃんも志願したんだからな」
「仲良かったの?」
「いいや、ほとんど話したことは無かったよ。だが、相良少尉は学科も実技もずば抜けて優秀だったから、皆知っていた」
 賢一は窓の外を眺めている。また飛行機がゆっくりと大空を横切っていく。
「何か、何かを忘れている気がするな……何だろう? 少尉と……」
 賢一は目を閉じて何か思い出そうとしている。
「だめだ、思い出せない……新一、とりあえずもう一本貰おうかな」
 そう言って賢一がサイドテーブルの缶珈琲に手を伸ばした時「そうだ! 思い出した」
賢一が手を叩いて頷いた。
「なんだよ爺ちゃん、びっくりするだろ」
「すまんすまん」
 そう言って賢一はテーブルの上に置かれた将棋盤を指さした。
「将棋だ。たしか相良少尉と一度だけ将棋を差した事があった。戦後七十年以上、一度もその事を思い出さなかった気がする……不思議な感じだが、記憶とはそんなものかも知れないな」
「勝ったの?」
「いや負けたよ。負けた。覚えている。一局だけだ。少尉とはそれだけだよ」
「そんな人が何で爺ちゃんに時計をくれたの?」
「分からん」
「えっ? わかんないの?」
「ああ、今もって分からん。爺ちゃんが死んで、向こう側に行ったら聞いてみようと思っとる」
 賢一が窓の外を眺めながら言った。
「回天戦が下された時、少尉はそっと爺ちゃんにその時計を握らせたんだ。何か言っていたと思うが、艦内の雑音で聞き取れなかった。でも『柳原、貴様が持っていろ』そう言ったのだけは聞こえた」
「潜水艦の中で?」
「ああそうだ。それから少尉は爺ちゃんに敬礼して微笑んだ。それは良く覚えとる。それが相良少尉との最後だった」
「時計って当時は高価な物だったんだよね?」
「そうだな。それは相良少尉が海軍に入る時、父親に貰ったもので、志という刻み文字もその時に掘って貰ったものらしい。少尉のお宅は裕福だったのだろう。少尉から直接聞いた話じゃない。相良少尉が同期の上田少尉と話しているところを聞いた事があった。そんな大事な時計をなぜ死の間際に爺ちゃんに託したのか……」
「うん、確かにおかしいね。残された家族に渡してくれってのならわかるけど、それなら回天隊員の爺ちゃんじゃなくて、潜水艦の乗組員に渡すはずだよね、遺品になるんだから」
「そうだな。でも、相良少尉が爺ちゃんと一緒に出撃した時、既に少尉の家族は空襲で全員亡くなっていた。だから遺品を家族に渡す事は出来なかったんだ」
「それでも、爺ちゃんに渡すってのはおかしくない?」
「ああ、おかしいな。でも少尉はあの日、爺ちゃんに時計を手渡すと、敬礼して微笑んだんだ。その意味は今もって分からないが戦後、その時計を見る度に相良少尉の分もしっかり生きなきゃいかんと思った」
「爺ちゃんの世代って、凄いな……」

 戦争で国の為に死んでいった兵士達が今の平和な日本を見たら何て思うだろう。自分達の死が報われた? 本当にそう思うだろうか? 自衛隊の存在意義や総理大臣の靖国神社参拝問題。海外に憧れ、日本人という事に誇りを持たない若者。更には自分も含め、定職に就かないフリーターやニートの増加……俺だったら化けて出たくなる。そう思ったが爺ちゃんには言わなかった。

 話し疲れたのか賢一は、いつの間にか寝てしまった。
 新一は、爺ちゃんの時計を床枝さんから借りたタオルに包んでリュックに入れた。
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