爺ちゃんの時計

北川 悠

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新ちゃん

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 まだ七時半だというのに、空港はにぎわっていた。スーツ姿の人も多い。
 みんな朝早くから働いているのか……
「新一さん、まだ時間があるから、ちょっとお婆ちゃんに挨拶していってもいいかな?」
「あ、うん。僕からも、チケットのお礼言いたいし、でもこんな早くから、お店に来ているの?」
「ここのお店は大抵、朝六時には開いているのよ。お婆ちゃんはいつも朝早くから羽田に来てお昼過ぎにはスタッフと交代して帰るの」
「凄いね、お婆さん何歳?」
「う~ん。多分、七十七か八だと思う」
 床枝さんが案内してくれたのは、元祖豆饅頭まつのや、というお店だった。商品はその名の通り饅頭に大豆をトッピングしたものだが、皮や庵にいろいろなバリエーションがあり、新一も食べた事があった。
 床枝さんの説明だと、まつの屋は戦前からある老舗で、この手の豆饅頭は、うちが元祖だけれど、今では日本中で同じような商品が販売されているという。
「こうゆうものに特許はないのかな?」
「さあ? でもお婆ちゃん気にしてないみたい。お婆ちゃんの本業は国語の先生だったの。もちろんとっくに定年を迎えて、今は稼業のお饅頭屋さん」
「お婆さんは誰かと暮らしているの?」
「もう、お爺さんは亡くなったけれど、稲毛の家では長男夫婦と同居していて、そこでお店もやっているの。ここ羽田は出張店舗。戦前は千葉駅の近くにお店があったみたいだけど、空襲で焼けちゃったから稲毛に引っ越したって聞いてるわ」
 紹介された床枝さんのお婆さんは床枝松子、と名乗った。だからまつのやなのだろうか。とても感じのいい人だ。
 松子さんは歳を重ねていたが、しわも少なく、とても上品な顔立ちだった。言われなければとても七十代には見えない。若い頃はさぞかし美人だったことだろう。
「床枝さんが可愛いのは遺伝なんだね」
 普段の新一なら、とてもそんな気の利いた事は言えなかっただろうが、そう言わしめるオーラのようなものが松子さんにはあった。
「あらあら、こんな若い人にそんな事言われると嬉しくなっちゃうじゃない」
 松子さんはそう言いながら豆饅頭の包みを新一に手渡した。
 一つ一つ丁寧に笹の葉で包んだ高級豆饅頭は最近、特に外国人に人気なのだという。

 搭乗ゲートに向かう途中、喫煙コーナーの横を通ったが、新一はグッと我慢した。煙草を吸わない人にとって、喫煙者という人種は犯罪者と言っても過言ではない。そんなわけで自宅では父親も自分も、母の目を盗んで換気扇の下か庭で吸っているのである。
 昔のテレビドラマの影響か、刑事はヘビースモーカーというイメージがあるが、父親いわく、同僚でも禁煙した者が多く、喫煙者はせいぜい三割ぐらいだという。禁煙をした者の多くは健康の為ではなく、肩身が狭くなった事が理由らしい。
 国が合法と定めている嗜好品で税金も課しているのに、最近のこの風潮、喫煙者に対する扱いは正直納得がいかない。確かにマナーの悪い輩がいるのは確かであるが……
 酒の方がよっぽど悪である。常々そう思っている。新一も酒は飲むが飲まれる事はない。酒を飲んで所かまわず大騒ぎする連中、酒臭さが漂う終電……そもそも煙草を吸ったからといって犯罪を犯す奴はないが、酒に酔って人殺しをする奴はいる。にも拘わらず、飲酒運転でもない限り酒飲みが断罪される事は無い。世の中、多数決なのだ。善悪は関係ない。大多数の意見が正義とみなされるのである。
「新一さん? 煙草いいんですか?」
 秀美は首を傾げて、下から新一の顔を見上げるようにして聞いた。
 なんて可愛いんだ。一瞬で腰砕けになってしまう。
「えっ僕、もの欲しそうにしてました?」
「うん、メチャメチャ」
 そう言うと床枝さんはくるっと向きを変えて喫煙コーナーに向かって歩いて行った。
「いいの?」
「わたし、新一さんに嘘ついていました。ほら、ヤンチャしてた時があったって言ったでしょ? ほんとは、わたしも吸うんです。持ち歩く程ではありませんが」
「えっ、そうなの? てっきり……」
「煙草吸う女は嫌いですか?」
「イヤイヤ全然! むしろ、気を使わなくて楽っていうか」
「わたし、看護師になった時に、煙草止めたんです。でも仕事でストレス抱えた事がきっかけで……普段は仕事柄、吸いませんが家にいる時たまに……」
「これでよければ」
 そう言って新一はメビウスを一本差し出した。
 床枝さんは、咽る事も無く普通に煙を吸い込んだ。なんだか、彼女の違う一面を見たようであったが、新一にまた一つ心を許してくれたようで嬉しかった。
「でも、良くないですよ」
「えっ、何が?」
「煙草ですよ。わたし、新一さんが止めろって言ったら止めます。一緒に止めませんか?」
「えっ?」
 どういう事だ? 今の会話、どう受け取ったらいいんだ? 床枝さんと同じ時間を過ごしているというだけで、思考が鈍っている。俺に煙草を止めさせたい? イヤイヤ、問題はそこじゃないだろう。
 煙草の会話はそこで終わった。

 飛行機の座席は思った以上に狭い。エコノミー症候群という言葉があるくらいだから当たり前なのだが、でもそれは隣の乗客と非常に近い距離にあるという事だ。それはそれで嬉しい。新一の座席番号は窓側であったので、床枝さんと代わってあげた。
「いいんですか? ありがとう」
 狭い座席を移動する際、床枝さんの大きな胸が新一の背中に触れた。今まで女性の身体に触れた事が無かった訳ではないし、新一だってそれなりに女性経験はある。しかし違うのだ。まるで思春期に差し掛かったばかりの中学生のようにドキドキした。
 新一の逆隣には中年の外国人男性が座った。アメリカ人だろうか? 彼は日本人より一回り大きな身体を座席に押し込むと、片言の日本語で新一に話しかけてきた。
「リョコウデスカ?」
「ええ、まあそんなところです」
 ビビッて、とっさにそう答えたが、こんな言い回しは外国人には分からないだろう。
「ソノカワノジョセハコイノデスカ?」
 何だ? このオッサンは何が言いたいんだ?
 しかたなく新一は片言の英語を使った。真面目に英語を勉強したのは中学生の時だ。そんなレベルでまともな会話など出来るはずもないが、ここ数年、オンラインゲームをやりこんだおかげで、最低限の会話なら何とかなる。海外のオンラインゲームのチャットは基本英語である。一度、ゲーム内で女性プレイヤーとチャットして以来、少しだけ英語を勉強しなおしたのだ。勿論、そんなレベルで、まともな英会話が成り立つものでもないし、そもそも隣の外人が英語圏の人とは限らない。そんな、つたない英語ではあったが、なんとか通じたようで、気を良くしたその外人は脱兎のごとく喋りはじめた。
 隣の可愛い女性は恋人か? 山口に旅行する目的は? 歳は? 仕事は? などというものだった。
 彼女は友達だと説明したが、何度もしつこく聞きなおすので、しょうがなく                  
I hope it s a lover と答えた。それが受けたようで、オッサンは、聞きもしないのに、自分の身の上を語り始めた。英語での内容は七割程しか理解できなかったが、オッサンの片言の日本語も交えると、何とか会話は成り立った。
 オッサンの家族は全員、大の日本ファンで、何回か日本を訪れているうちにとうとう娘が日本の大学、山口県の大学に留学したのだという。
 昨日は夫婦で東京に一泊し、今日は娘のアパートに行くのだという。そう言って、通路を隔てて隣に座っている奥さんを紹介してくれた。奥さんは小柄な女性で、スペイン系アメリカ人だと紹介されたが、新一には普通のアメリカ人にしか見えなかった。
 オッサン(名はマークというらしい)はアリゾナ州在住で、観光セスナ機のパイロットをしているという。
 もし、その可愛い彼女と二人でアリゾナに来ることがあれば、グランドキャニオン上空を格安で飛んでくれると約束してくれた。そのifがあれば、どんなに嬉しいだろう。
 新一が、回天の記念館に行くのだと言いうと、どうやら、大津島の事を知っていたらしく、自分の爺さんも太平洋戦争時には軍人で、衛生兵として南方戦線に派遣されていたのだという。
 マークの爺さんは、終戦の直後、自害しようとした日本人捕虜を助けた事があり、戦後三十五年を経て、その日本人とマークの爺さんはアメリカで再会を果たしたのだそうだ。その時はテレビ局の取材もあったようである。マークは当時高校生だったが、その日本人と、彼の友人や家族の素晴らしさに感動し、それ以来、大の日本ファンになったのだと言う。
 爺さん達が生きていた頃はお互い、たまにエアメールのやり取りがあったようだが、その後付き合いは無くなってしまったという。
 そして今回、娘と休日を過ごした後、東京に戻って、その元捕虜だった日本兵の身内に会う約束をしているのだそうだ。その人にはマークが高校生の時、一度、アメリカで会っている。当時は三十代半ばだったから、今はもう七十歳を超えているだろうが、会うのがとても楽しみだと語った。
 かつて、戦争という名の元に殺し合いをしていた民族の末裔が今、同じ飛行機に乗って和気あいあいと話をしている。これが平和というものだ。どんな理由があっても戦争などするものではない。
 せっかく床枝さんと密着しているのに、飛行時間のほとんどをマークとの会話に費やしてしまった。だが、結構楽しかったのでよしとしよう。
 飛行機は岩国錦帯橋空港に向かって降下を始めた。
「凄い。新一さんって英語話せるんですね?」
「イヤイヤ、聞いてたでしょ。片言だよ」
「そんな事ないです。尊敬します」
 中学生レベルの語学力を褒められて喜んでいいのか解らなかったが、取りあえず幸先は順調だ。
「新一さん、いつもわたしのこと苗字で呼ぶけど、わたしの名前知ってます?」
「知ってるよ、秀美。でしょ? 母さんが秀美ちゃんって言ってるから」
「はい。この名前、お婆ちゃんがつけてくれたんです。私の母は私を産んだだけで、しばらく育児放棄だったらしくて」
「大変だったんだね……」
 そんな陳腐な返答しかできない自分がもどかしい。床枝さんに比べたら、自分はなんて恵まれた環境に育ったのだろう。彼女もたぶんそう思っているはずだ。なのに、こんなニートの俺を好きになるはずはない。ifはやっぱりifなのだ。
「ごめんなさい。わたし、そんな事を言うつもりじゃなくて……だから、苗字じゃなくて名前で呼んでもらっていいですよって事が言いたくて」
 少し困ったような顔でそう言った床枝さんは、看護師の床枝さんではなく、二十三歳の女の子だった。
「あ、じゃあ僕の事も、さん、づけじゃなくて……」
「えっ、でも、じゃあそうね、新ちゃん。新ちゃんがいいですね」
 新ちゃんか。母親も新ちゃんと呼ぶが、床枝さんにそう呼ばれると、それは全く違う響きになる。
 ifに少し期待を持ってもいいのかな。

 マーク夫妻に別れを告げ、空港からは、予約していたレンタカーで徳山港に向かった。
「新ちゃん、もし時間があったら帰り、錦帯橋寄ってもいい?」
「うん、勿論。せっかく山口まできたんだから、行かなきゃ勿体ないよね」
 新ちゃんか。新ちゃん、と呼ばれると何だか本当の彼女みたいだ。こんなに幸せでいいのか……

 徳山港に着いたのは十一時前だった。フェリーの出発までには、まだ充分時間があったので二人は近くのコンビニで、おにぎりやお菓子を買い込んだ。大津島には食事ができるような店は無いらしい。
 中国地方もまだ梅雨明け宣言はされていなかったが、今日は全国的に晴れ渡っているようである。かなり気温は上昇しているが、雨が降るよりずっといい。
 フェリーには十数人が乗り込んだだけであった。新一達以外、観光客と思しき人は、七十代くらいの老夫婦と、小さな女の子を連れた家族の二組だけだった。女の子は黄色い風船を持っている。後は釣り竿を持った人が二人と作業着姿の人。それ以外は島の住人だろう。
 先程買ったおにぎりを食べた後、新一はデッキにでた。ムッとする暑さではあったが、海風が心地よい。
 後から出て来た床枝さんも、新一の近くでデッキの柵に寄りかかった「本当に沢山の島があるんだね。とっても綺麗。あたし、大阪より西に来たの初めてです」

 彼女の長い髪が風になびいている。それをかき上げる仕草はまるで映画の一シーンを見ている様であった。
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