小雪さんの深夜の一杯

蒼月柚希

文字の大きさ
1 / 5

会社帰りの小雪さん

しおりを挟む
「明日が土曜日で、本当に良かった……」

 眠い目をこすりながら、ひたすらキーボードを叩いていた手は、腱鞘炎になりそうなほどだるく重い。
 座りっぱなしで足もむくみ、歩くというより引きずるようにして会社を出た。

「いつになったら、こんな馬鹿げたことから解放されるんだろう……」

 出るのは、深い溜息ばかり。

 楠葉小雪は、社長が厳しいのを知っている。
 モデルのような長身痩躯と整った顔立ちで、仕事もできる。

 仕事には特に厳しく、数字には容赦がない。
 でも筋の通らないことが嫌いだ。
 彼は、いつだって正しい。

 だからこそ怖い。
 だからこそ、言えない。

 三年前に結婚したという社長夫人が、ホストに大金を流している――という事実を。
 しかも、会社の金を使っている形跡がある。

 けれど夫人は、自分さえよければ他はどうでもいい典型的なタイプだ。
 経理担当の顔をしながら仕事は小雪に丸投げし、成果は自分のものにする。

「この子、仕事がとろくて……」

 社長に報告するときの、お決まりの台詞。
 社長はただ黙って、書類に目を通す。
 その横で、夫人の香水のきつさに社長が一瞬だけ顔をしかめるのも、夫人は気づかない。

 夫人は「余計なことは言うな」と言わんばかりの鋭い視線を、小雪へ落とす。

 惨めだと思いながらも、小雪は何も言えない。
 彼氏も友達もいない歴=年齢。
 取り柄もない。
 今の職を失うのが怖い。
 ただそれだけで、口は縫い付けられたみたいに動かない。

 毎日びくびくしながら、できることは地道な証拠集めだけだった。
 生贄にされないために。
 全部の罪を被せられないために。

 帳簿のコピー。
 仕訳の元データ。
 入金のタイミング。
 誰がいつ承認したかの痕跡。
 ばれないように、ほんの少しずつ。

 復讐じゃない。
 保険だ。
 私が生き残るための。

 なぜなら――会計士すら信用できなかった。
 夫人は“女”を使って人に取り入る。
 それにすぐなびく男もどうかとは思うけれど……。
 一度、会議室でいちゃついている現場を見てしまった。

 あの瞬間から始まったのだ。
「証拠集め」が。

 下手に逆らえば、潰される。

 ――私なんて、いとも簡単に。

 だから小雪は、言えない。
 社長が公平で正しい人だと、頭では理解していても、だ。

 多くの会社を経営する社長は、本社にさえめったに帰ってこない。
 それをいいことに夫人は好き勝手をしている――そんなことにも気がつかない。

 言った瞬間、自分が疑われる未来が、ありありと想像できてしまう。

 社長は、夫人を疑わない――。

 夫人は最近、懐妊したらしい。
 社長はそのお腹の子は、「自分の子である」と信じて疑わない。
 だからきっと、夫人のことも疑わない。

 妊娠六ヶ月だというのに、十センチのピンヒールにミニのタイトスカート。
 化粧と香水の入り交じった匂いで、つわりの気配さえなく毎日を謳歌する夫人。

 そして今夜。
 残業帰りの深夜一時半。

 小雪はコンビニに寄り、まずカップ酒に手をかけた。

「一個……ううん、三個はいける……」

 自分に言い訳をしてかごへ放り込む。
 次に「疲れたときには甘い物」と、苺の柄のついた三角形のピンクの袋――昔ながらの苺ミルク飴を掴んで、同じようにかごへ入れた。

 客は自分だけだった。
 レジには、自分より少し年上だろう、痩せ細って疲れ切った男がひとり。

 ぼうっと立っている。
 今日の店員は彼だけらしい。

「すみませーん。」

 声をかけてかごを置くと、小雪はおでんコーナーを指さした。
 今夜は、とにかく肉が食べたい。

「大根三個と、ウインナー三本と、卵二個……厚揚げひとつ、鶏つくねひとつ、牛すじ一本ください。」

「……わかりました。」

 生気のない声。
 男は黙々と具材をカップに詰めていく。
 その手が、かごの中身を会計しようとしたとき――

 ピタリ、と止まった。

 男の指先が、苺ミルク飴の袋に触れている。
 袋のビニールがかすかに鳴った。
 その音が、やけに大きく聞こえた。

「……苺ミルク」

 掠れた声が漏れる。
 まるで無意識に、喉の奥から落ちた言葉みたいに。

 次の瞬間、男の目の焦点が合わなくなった。
 現実のレジカウンターが、その奥へすり抜けていく。

 ――五年前。

 苺ミルク飴は、あの女が好きだった。
 そして、あの夜を境に――すべてが壊れた。

『疲れたときには甘い物』

 そう言っては、必ず買う飴。
 馬鹿みたいに甘いくせに、舌の奥に粉っぽさが残る、古い味。

『子どもみたいって笑わないで……』

 そう言って、彼の口にも放り込んだ笑顔。
 そのはにかむような笑顔が、大好きだった――はずなのに。

 その笑顔のすぐ後ろで、ひとりの女が薄く笑っていた。

 ――馬鹿な女。

 そう言いたげな目で。

 通帳。
 結婚資金。
 毎月の入金。
 使い込み。

 嘘。
 嘘。
 嘘。

 そして廃病院。
 薬品みたいな匂い。
 生ぬるい風。
 湿ったコンクリートの冷たさ。
 床下の、息が詰まる闇。

 ――見なかった。
 見ない方がいいと思った。
 見たら、自分が戻れなくなる気がした。

 彼女の親友は泣いていた。
 泣いているふりをしていた。

『私たちのためだったの』

『あなたは悪くない』

 その言葉に、男はすがった。
 すがってしまった。

 悪くないはずなのに、手は土の感触を覚えていた。
 爪の間に入った黒いものを、何度洗っても落ちなかった。

 あの夜、最後に聞いた声。
 床下から、濡れた息みたいに響いた――

『惨めな男……』

 レジに戻る。

 目の前にいるのは、疲れ切った女――ただの客だ。
 彼女ではない。
 姿形もまったく違う。
 地味で、疲れを隠しきれない顔の女。

 ――なのに。

 男は苺ミルク飴の袋の向こうに、あの女の顔を見た気がした。

 手が震え始める。
 バーコードリーダーを握る指が、力を失う。

「……あ、あの……」

 小雪が何か言いかけた。
 だが男の耳には入らない。

 鼓動だけが大きい。
 息が吸えない。

 苺ミルク飴の袋が、カサ、と鳴った。
 それは合図みたいだった。

「……もらえませんか?」

 小雪の声に、男の身体がびくりと跳ねる。
 現実へ引き戻される。

「……すみません。今、何と?」

「さっき呼んだタクシーが来たので、会計、急いでもらえませんか?」

 小雪は急いで会計を済ませ、入口付近に止まったタクシーへ乗り込んだ。
 その背中を、男はぼうっと見送った。

「もう……終わったことなんだ……」

 コンビニに自分ひとりが残る。
 男はレジの前に座り込み、頭を抱えた。

 終わったはずなのに。
 苺ミルクの甘い匂いが、まだ喉の奥に残っている気がして。

「ヒッ……」

 男は小刻みに震えだした。

 さっきまで“無かった”はずの苺ミルク飴が、レジの外側にひとつだけ置かれている。
 その苺ミルク飴の袋が、ひとりでカサ、と音を立てた気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

側妃契約は満了しました。

夢草 蝶
恋愛
 婚約者である王太子から、別の女性を正妃にするから、側妃となって自分達の仕事をしろ。  そのような申し出を受け入れてから、五年の時が経ちました。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

処理中です...