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会社帰りの小雪さん
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「明日が土曜日で、本当に良かった……」
眠い目をこすりながら、ひたすらキーボードを叩いていた手は、腱鞘炎になりそうなほどだるく重い。
座りっぱなしで足もむくみ、歩くというより引きずるようにして会社を出た。
「いつになったら、こんな馬鹿げたことから解放されるんだろう……」
出るのは、深い溜息ばかり。
楠葉小雪は、社長が厳しいのを知っている。
モデルのような長身痩躯と整った顔立ちで、仕事もできる。
仕事には特に厳しく、数字には容赦がない。
でも筋の通らないことが嫌いだ。
彼は、いつだって正しい。
だからこそ怖い。
だからこそ、言えない。
三年前に結婚したという社長夫人が、ホストに大金を流している――という事実を。
しかも、会社の金を使っている形跡がある。
けれど夫人は、自分さえよければ他はどうでもいい典型的なタイプだ。
経理担当の顔をしながら仕事は小雪に丸投げし、成果は自分のものにする。
「この子、仕事がとろくて……」
社長に報告するときの、お決まりの台詞。
社長はただ黙って、書類に目を通す。
その横で、夫人の香水のきつさに社長が一瞬だけ顔をしかめるのも、夫人は気づかない。
夫人は「余計なことは言うな」と言わんばかりの鋭い視線を、小雪へ落とす。
惨めだと思いながらも、小雪は何も言えない。
彼氏も友達もいない歴=年齢。
取り柄もない。
今の職を失うのが怖い。
ただそれだけで、口は縫い付けられたみたいに動かない。
毎日びくびくしながら、できることは地道な証拠集めだけだった。
生贄にされないために。
全部の罪を被せられないために。
帳簿のコピー。
仕訳の元データ。
入金のタイミング。
誰がいつ承認したかの痕跡。
ばれないように、ほんの少しずつ。
復讐じゃない。
保険だ。
私が生き残るための。
なぜなら――会計士すら信用できなかった。
夫人は“女”を使って人に取り入る。
それにすぐなびく男もどうかとは思うけれど……。
一度、会議室でいちゃついている現場を見てしまった。
あの瞬間から始まったのだ。
「証拠集め」が。
下手に逆らえば、潰される。
――私なんて、いとも簡単に。
だから小雪は、言えない。
社長が公平で正しい人だと、頭では理解していても、だ。
多くの会社を経営する社長は、本社にさえめったに帰ってこない。
それをいいことに夫人は好き勝手をしている――そんなことにも気がつかない。
言った瞬間、自分が疑われる未来が、ありありと想像できてしまう。
社長は、夫人を疑わない――。
夫人は最近、懐妊したらしい。
社長はそのお腹の子は、「自分の子である」と信じて疑わない。
だからきっと、夫人のことも疑わない。
妊娠六ヶ月だというのに、十センチのピンヒールにミニのタイトスカート。
化粧と香水の入り交じった匂いで、つわりの気配さえなく毎日を謳歌する夫人。
そして今夜。
残業帰りの深夜一時半。
小雪はコンビニに寄り、まずカップ酒に手をかけた。
「一個……ううん、三個はいける……」
自分に言い訳をしてかごへ放り込む。
次に「疲れたときには甘い物」と、苺の柄のついた三角形のピンクの袋――昔ながらの苺ミルク飴を掴んで、同じようにかごへ入れた。
客は自分だけだった。
レジには、自分より少し年上だろう、痩せ細って疲れ切った男がひとり。
ぼうっと立っている。
今日の店員は彼だけらしい。
「すみませーん。」
声をかけてかごを置くと、小雪はおでんコーナーを指さした。
今夜は、とにかく肉が食べたい。
「大根三個と、ウインナー三本と、卵二個……厚揚げひとつ、鶏つくねひとつ、牛すじ一本ください。」
「……わかりました。」
生気のない声。
男は黙々と具材をカップに詰めていく。
その手が、かごの中身を会計しようとしたとき――
ピタリ、と止まった。
男の指先が、苺ミルク飴の袋に触れている。
袋のビニールがかすかに鳴った。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「……苺ミルク」
掠れた声が漏れる。
まるで無意識に、喉の奥から落ちた言葉みたいに。
次の瞬間、男の目の焦点が合わなくなった。
現実のレジカウンターが、その奥へすり抜けていく。
――五年前。
苺ミルク飴は、あの女が好きだった。
そして、あの夜を境に――すべてが壊れた。
『疲れたときには甘い物』
そう言っては、必ず買う飴。
馬鹿みたいに甘いくせに、舌の奥に粉っぽさが残る、古い味。
『子どもみたいって笑わないで……』
そう言って、彼の口にも放り込んだ笑顔。
そのはにかむような笑顔が、大好きだった――はずなのに。
その笑顔のすぐ後ろで、ひとりの女が薄く笑っていた。
――馬鹿な女。
そう言いたげな目で。
通帳。
結婚資金。
毎月の入金。
使い込み。
嘘。
嘘。
嘘。
そして廃病院。
薬品みたいな匂い。
生ぬるい風。
湿ったコンクリートの冷たさ。
床下の、息が詰まる闇。
――見なかった。
見ない方がいいと思った。
見たら、自分が戻れなくなる気がした。
彼女の親友は泣いていた。
泣いているふりをしていた。
『私たちのためだったの』
『あなたは悪くない』
その言葉に、男はすがった。
すがってしまった。
悪くないはずなのに、手は土の感触を覚えていた。
爪の間に入った黒いものを、何度洗っても落ちなかった。
あの夜、最後に聞いた声。
床下から、濡れた息みたいに響いた――
『惨めな男……』
レジに戻る。
目の前にいるのは、疲れ切った女――ただの客だ。
彼女ではない。
姿形もまったく違う。
地味で、疲れを隠しきれない顔の女。
――なのに。
男は苺ミルク飴の袋の向こうに、あの女の顔を見た気がした。
手が震え始める。
バーコードリーダーを握る指が、力を失う。
「……あ、あの……」
小雪が何か言いかけた。
だが男の耳には入らない。
鼓動だけが大きい。
息が吸えない。
苺ミルク飴の袋が、カサ、と鳴った。
それは合図みたいだった。
「……もらえませんか?」
小雪の声に、男の身体がびくりと跳ねる。
現実へ引き戻される。
「……すみません。今、何と?」
「さっき呼んだタクシーが来たので、会計、急いでもらえませんか?」
小雪は急いで会計を済ませ、入口付近に止まったタクシーへ乗り込んだ。
その背中を、男はぼうっと見送った。
「もう……終わったことなんだ……」
コンビニに自分ひとりが残る。
男はレジの前に座り込み、頭を抱えた。
終わったはずなのに。
苺ミルクの甘い匂いが、まだ喉の奥に残っている気がして。
「ヒッ……」
男は小刻みに震えだした。
さっきまで“無かった”はずの苺ミルク飴が、レジの外側にひとつだけ置かれている。
その苺ミルク飴の袋が、ひとりでカサ、と音を立てた気がした。
眠い目をこすりながら、ひたすらキーボードを叩いていた手は、腱鞘炎になりそうなほどだるく重い。
座りっぱなしで足もむくみ、歩くというより引きずるようにして会社を出た。
「いつになったら、こんな馬鹿げたことから解放されるんだろう……」
出るのは、深い溜息ばかり。
楠葉小雪は、社長が厳しいのを知っている。
モデルのような長身痩躯と整った顔立ちで、仕事もできる。
仕事には特に厳しく、数字には容赦がない。
でも筋の通らないことが嫌いだ。
彼は、いつだって正しい。
だからこそ怖い。
だからこそ、言えない。
三年前に結婚したという社長夫人が、ホストに大金を流している――という事実を。
しかも、会社の金を使っている形跡がある。
けれど夫人は、自分さえよければ他はどうでもいい典型的なタイプだ。
経理担当の顔をしながら仕事は小雪に丸投げし、成果は自分のものにする。
「この子、仕事がとろくて……」
社長に報告するときの、お決まりの台詞。
社長はただ黙って、書類に目を通す。
その横で、夫人の香水のきつさに社長が一瞬だけ顔をしかめるのも、夫人は気づかない。
夫人は「余計なことは言うな」と言わんばかりの鋭い視線を、小雪へ落とす。
惨めだと思いながらも、小雪は何も言えない。
彼氏も友達もいない歴=年齢。
取り柄もない。
今の職を失うのが怖い。
ただそれだけで、口は縫い付けられたみたいに動かない。
毎日びくびくしながら、できることは地道な証拠集めだけだった。
生贄にされないために。
全部の罪を被せられないために。
帳簿のコピー。
仕訳の元データ。
入金のタイミング。
誰がいつ承認したかの痕跡。
ばれないように、ほんの少しずつ。
復讐じゃない。
保険だ。
私が生き残るための。
なぜなら――会計士すら信用できなかった。
夫人は“女”を使って人に取り入る。
それにすぐなびく男もどうかとは思うけれど……。
一度、会議室でいちゃついている現場を見てしまった。
あの瞬間から始まったのだ。
「証拠集め」が。
下手に逆らえば、潰される。
――私なんて、いとも簡単に。
だから小雪は、言えない。
社長が公平で正しい人だと、頭では理解していても、だ。
多くの会社を経営する社長は、本社にさえめったに帰ってこない。
それをいいことに夫人は好き勝手をしている――そんなことにも気がつかない。
言った瞬間、自分が疑われる未来が、ありありと想像できてしまう。
社長は、夫人を疑わない――。
夫人は最近、懐妊したらしい。
社長はそのお腹の子は、「自分の子である」と信じて疑わない。
だからきっと、夫人のことも疑わない。
妊娠六ヶ月だというのに、十センチのピンヒールにミニのタイトスカート。
化粧と香水の入り交じった匂いで、つわりの気配さえなく毎日を謳歌する夫人。
そして今夜。
残業帰りの深夜一時半。
小雪はコンビニに寄り、まずカップ酒に手をかけた。
「一個……ううん、三個はいける……」
自分に言い訳をしてかごへ放り込む。
次に「疲れたときには甘い物」と、苺の柄のついた三角形のピンクの袋――昔ながらの苺ミルク飴を掴んで、同じようにかごへ入れた。
客は自分だけだった。
レジには、自分より少し年上だろう、痩せ細って疲れ切った男がひとり。
ぼうっと立っている。
今日の店員は彼だけらしい。
「すみませーん。」
声をかけてかごを置くと、小雪はおでんコーナーを指さした。
今夜は、とにかく肉が食べたい。
「大根三個と、ウインナー三本と、卵二個……厚揚げひとつ、鶏つくねひとつ、牛すじ一本ください。」
「……わかりました。」
生気のない声。
男は黙々と具材をカップに詰めていく。
その手が、かごの中身を会計しようとしたとき――
ピタリ、と止まった。
男の指先が、苺ミルク飴の袋に触れている。
袋のビニールがかすかに鳴った。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「……苺ミルク」
掠れた声が漏れる。
まるで無意識に、喉の奥から落ちた言葉みたいに。
次の瞬間、男の目の焦点が合わなくなった。
現実のレジカウンターが、その奥へすり抜けていく。
――五年前。
苺ミルク飴は、あの女が好きだった。
そして、あの夜を境に――すべてが壊れた。
『疲れたときには甘い物』
そう言っては、必ず買う飴。
馬鹿みたいに甘いくせに、舌の奥に粉っぽさが残る、古い味。
『子どもみたいって笑わないで……』
そう言って、彼の口にも放り込んだ笑顔。
そのはにかむような笑顔が、大好きだった――はずなのに。
その笑顔のすぐ後ろで、ひとりの女が薄く笑っていた。
――馬鹿な女。
そう言いたげな目で。
通帳。
結婚資金。
毎月の入金。
使い込み。
嘘。
嘘。
嘘。
そして廃病院。
薬品みたいな匂い。
生ぬるい風。
湿ったコンクリートの冷たさ。
床下の、息が詰まる闇。
――見なかった。
見ない方がいいと思った。
見たら、自分が戻れなくなる気がした。
彼女の親友は泣いていた。
泣いているふりをしていた。
『私たちのためだったの』
『あなたは悪くない』
その言葉に、男はすがった。
すがってしまった。
悪くないはずなのに、手は土の感触を覚えていた。
爪の間に入った黒いものを、何度洗っても落ちなかった。
あの夜、最後に聞いた声。
床下から、濡れた息みたいに響いた――
『惨めな男……』
レジに戻る。
目の前にいるのは、疲れ切った女――ただの客だ。
彼女ではない。
姿形もまったく違う。
地味で、疲れを隠しきれない顔の女。
――なのに。
男は苺ミルク飴の袋の向こうに、あの女の顔を見た気がした。
手が震え始める。
バーコードリーダーを握る指が、力を失う。
「……あ、あの……」
小雪が何か言いかけた。
だが男の耳には入らない。
鼓動だけが大きい。
息が吸えない。
苺ミルク飴の袋が、カサ、と鳴った。
それは合図みたいだった。
「……もらえませんか?」
小雪の声に、男の身体がびくりと跳ねる。
現実へ引き戻される。
「……すみません。今、何と?」
「さっき呼んだタクシーが来たので、会計、急いでもらえませんか?」
小雪は急いで会計を済ませ、入口付近に止まったタクシーへ乗り込んだ。
その背中を、男はぼうっと見送った。
「もう……終わったことなんだ……」
コンビニに自分ひとりが残る。
男はレジの前に座り込み、頭を抱えた。
終わったはずなのに。
苺ミルクの甘い匂いが、まだ喉の奥に残っている気がして。
「ヒッ……」
男は小刻みに震えだした。
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