ヒミツのワンルーム

近井とお

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両想いカレンダー 4

『8月20日 ハレサクとお酒解禁日』


 ハレサクの好きな側面が増えてから、生活がままならない。朝、視界に最初に映るのはハレサクで、夜、瞼を閉じる直前まで俺の瞳に居座っているのもハレサクだった。おはようですら恥ずかしく、おやすみには少しだけ寂しさがある。部屋の至る所に散らばる二人暮らしの痕跡は、俺をからかっているように思えた。
 告白への返事は喉の奥につっかえて、どうやっても返すことが出来ない。あいつのことが何よりも大切だと思うたびに、自分の感情が一方的なものだったらどうしよう、と臆病になってしまう自分がいる。そうなってまた、俺に好きだと伝えてくれたハレサクの成長を痛感するのだった。
 そもそも、ハレサクは俺のどこが好きなのだろう。偶然通りかかって助けたことに恩義を感じているのは分かる。けれど、ハレサクのように容姿が整っているわけでもなく、何か秀でた特技があるわけでもない。趣味が合うだけの、一緒にいる時間が長い男を、どうして好きと言ってくれるのだろう。
 ハレサクへの感情が膨れ上がるごとに、どんどん自分が嫌いになっていく。


 アルコール解禁日当日になって、大きな問題に気付いた。
 俺も、ハレサクも、こういうときにどんなお酒を飲むのが正解なのか分からない。
 致命的だった。いつものスーパーのアルコールコーナーは、一晩にしてレイアウト変更したのかと疑いたくなるほど広い。そのせいで、余計に迷ってしまっている。ハレサクと二人で立ちすくみ、顔を見合わせた。

「ビール、ワイン、チューハイ、日本酒……。改めて見てみると、お酒ってこんなにも種類があったんですね。炭木先輩は飲みたいものありますか?」
「飲んだことがないから、何を選べばいいのか分からないな」
「あれ? 僕を置いて、宅飲み、してましたよね?」

 悪戯っぽく笑う男を睨みつければ、すみません、と反省の色もなく謝られた。

「少し、浮かれてるんです。酔った先輩が他の人間に見られていたら、絶対に許せませんから。先輩の初めてが僕で嬉しくて。プレゼントで頂いたグラスを使うのも楽しみなんです」
「まあ、酔って迷惑を掛けるなら、ハレサク相手の方がいいか」
「そうじゃなきゃ、嫌です」

 そう言って、機嫌良さそうに無骨なカートを押し始めた。色とりどりの瓶が並ぶ棚を眺め、その中から一つ手に取って難しそうな顔をしている。
 とりあえず、気になるものをいくつかピックアップしよう。
 ハレサクとは反対側の棚に目をやって、一番興味が惹かれた缶の方へ向かう。シリーズで展開されているらしく、色や絵の異なる缶がそこに陳列されている。左から二番目、犬の絵が描かれているものを手に取った。

「ハレサクっぽくて、いいな」

 缶の中心で、ふわふわとした毛並みの犬がおめかしをして踊っている。その下には『子犬のマーチ』と書かれており、裏面にビールであることとその度数が記されている。左右の缶も『黒猫のタンゴ』や『兎のダンス』という風に、すべて動物がモチーフになっていた。
 これは飲んでみたい、かもしれない。
 振り返ればハレサクはまだ悩んでいるらしかった。持って彼の元へ行けば、俺の手元を見て小さく笑った。

「犬だ」

 ハレサクみたいで可愛かったから、選んだんだ。
 伝えたいのに、喉が熱くなって何も言えない。恋人候補は俺の気持ちなんて知らずに缶を抜き取って、自分の顔の横まで運んだ。

「似てますか?」

 見れば見るほど、ハレサクとパッケージの犬は似ているように思えた。それなのに、俺の視線は勝手に缶を排除しようとしている。柔らかく跳ねるミルクブラウン、長い睫毛が縁取る優しい瞳、温かに染まる頬、無邪気に笑う唇。まじまじと見る晴佐久カイに、心が乱される。

「……に、てる。でも、ハレサクの、方、が、その、可愛い、から」

 ハレサクに思ったことを伝えるというだけなのに、どうしてこうも普通には言えないのだろう。下手くそな言い方でも、目元が緩めて頬が紅潮させ、俺の言葉が届いたと教えてくれていた。
 カゴに缶を入れ、期待に染まった表情でもう一度問いかけられる。

「じゃ、じゃあ、僕のことは好きになってくれましたか……?」

 心臓が強く胸を叩く。頭の中で何度も同じ言葉が巡って、そのたびに鼓動が早くなっていく。
 好きだ。
 そう言えればよかったのに、どんな音も漏らせないように唇が固まってしまっている。全身が自分の制御から離れて、頭を軽く縦に振るだけでも大変だった。
 俺の意志とは反対に、ハレサクは何故か不満そうだ。

「炭木先輩、最近また隠し事してますよね」
「ええっと……?」
「前まではまっすぐに好きだと言ってくれたのに、めっきり言ってくれなくなりましたし。時々僕のことを見て不自然に目を逸らしたり、離れようとしたりしませんか?」
「い、いや、それは……」

 先ほどまで眺めていた棚から、ハレサクは無造作に瓶を抜き取った。色を変えて、何本もカゴの中に入れていく。

「何を隠しているか、お酒の力を借りて吐いてもらいますからね」

 あまりにも整いすぎている微笑みが、怖い。平坦にそう宣言した後、おつまみも見てみましょうか、とカゴを押し始めた。慌てて追いかけると、ハレサクは悪戯っぽく、本気ですよ、と笑いかけてきた。


 頬が火照る。呂律が回らず、紡がれる言葉はいつもよりも子どもっぽい。触れ合う腕から、身体から、心臓から、熱が伝わる。
「しぇんぱあい、しゅきれす」

 後ろから俺を抱き締めて、ハレサクは何度目かの告白をしてくれた。

「きいてるんれすかあ」
「聞いてる、聞いてる」

 透き通った青いグラスの中で、果実酒が揺れる。一口飲むと、ミカンジュースに似た風味が広がり、喉元を焼いていった。
 ハレサクは、本人が予想していたよりもずっとアルコールに弱いらしかった。飲み始めて三十分も経たないでこんな状態になり、向かい合いは寂しいと言って俺の横に移動してきた。そのときに告白し、抱き締めてきて告白し、口を開けば告白の連続だった。
 顔はいつも以上に真っ赤で、瞳がとろんと甘く垂れている。言葉の節々が溶け、子犬のように俺にじゃれついていた。
 はいはい、と宥めていると、首筋から左肩かけてにぐりぐりと顔を押しつけられた。柔らかな髪が首元に当たって、くすぐったい。

「んふふ、しゅみきしぇんぱいのにおい……」

 ハレサクは楽しそうに言って、グラスを持っていない左手を上から重ね合わせ、じわじわと指の隙間を広げていく。

「ぼくより、ちいさいて」

 長い指は根本まで降りて、ぎゅっと握り込まれた。熱っぽい吐息が首を撫でる。

「ぼくの、ぼくだけの、しゅみきしぇんぱい」

 いつもより低く、掠れた声だった。幼い呼び方の中にある艶っぽさが、俺を落ち着かなくさせている。可愛いハレサクも好きだが、この、綺麗で大人っぽいハレサクは未だ見慣れないせいで、どうしても変な気持ちになる。
 感情を沈めるために果実酒を呷ったものの、かえって心音がうるさくなっていく。ハレサクに聞かれてしまったら、どうしよう。そのときは素直に、と思ったところで、ひとくちくらさーい、とグラスを盗られた。

「あれ、はいってにゃい……?」

 声の調子はいつの間にか元に戻っていた。
 俺の身動きを奪っている男は、こっちの気持ちも知らないで余所見ばかりしている。なんだか悔しくなって、犬の絵が描かれた缶に手を伸ばした。脈動で震える指先でどうにかプルタブを引き上げると、プシュッといって懐かしい匂いが弾けた。幼い頃に父親の晩酌に割り込んだときのものに嗅いだことがあるものだった。来月には両親にハレサクを紹介するんだな、と考えて、頭を振る。今はどんなことでもこいつに帰結してしまう。
 唇を付けて、手が固まる。泡だけが入ってきて、苦い。

「……俺の、どこが好きなわけ」

 気がつけば、そんなことを口走っていた。こんなのビールが苦いせいに違いがない。ハレサクみたいな可愛いパッケージなのに、こんなに苦いなら、もうハレサクに当たる他なかった。
 視界の端で青いグラスが動いていた。あれを使うときも、やはり時間が掛かった。使うのが勿体ないとか言って、じっと眺めていたのだ。ただ、バースデーケーキとは違って、ハレサクは自分の意志で観察を止めた。俺との晩酌時間を減らす方が勿体ないという判断だった。少しだけ、嬉しかった。
 コトン、と置いた音が、身体中に響く。左手は相変わらず俺の手を握ったままで、空いた右手はぐるっと俺の胴に回っていった。

「いっぱい、いーっぱいありますよお! まず、ぼくをみつけてくれたことれす。つぎに、たしゅけてくれたことれ、ぼくのことをおぼえていてくりぇたこと。ふふ、それはもうしぇんぱいもわかってくれていることれすよね。ううん、しぇんぱいにいえてないこと……。しぇんぱいのすべてがすきれすけど、めが、すきれすね、ぼくのことをみてくれるあたたかいめ。みちゅけてくれて、って、これはしゃっきいいましたねえ。ぼくのいしをそんちょおしてくれるところ、わがままをゆるしてくれりゅところ、ぼくのしゅきをうけいれてくれるところ……。しぇんぱいのぜーんぶ、だいしゅきれす! えへへ、だいしゅきなんれ、またいっちゃった……!」

 幼くこんがらがった音が、淀みなく紡がれていく。上機嫌さは俺ごと身体を揺らし、また顔をぐりぐりと首筋に押し当てた。こぼさないようにと、唇に缶を近付けて、そのまま飲んでしまう。苦みが口内に広がり、少しだけ嫌な気分になる。

「じゃあ、俺がお前のことを好きになれなかったとしたら、好きって言えなかったら、どうするんだ」

 今度は俺から缶を奪い、テーブルの上に移動させた。

「どんなてをつかっても、ぜったいにしゅきっていわせます! ぼく、もうあきらめません。しゅみきしぇんぱいのためなら、だいほんなんかなくたって、ぼくはどこまでもひじょうになれるんれすよ。ほかのにんげんをはいじょして、ぼくだけをみてもらって、はれしゃくのことがしゅきって、いわせます。そうじゃないと、ぼくは、しゅみきしぇんぱいにつりあいましぇんから」

 頼もしい言葉は、酔いの影響で丸みを帯びていた。それなのに、胸の奥に刺さって、簡単には抜けそうにない。
 つい、弱音が口からこぼれ落ちていった。

「釣り合わないのは、俺の方だ」
「いいえ、ぼくのほうれす。しぇんぱいみたいなすてきなひとは、このせかいのどこをさがしても、あなたいがいいないれす。しゅきれす、あなただけが、なによりも。ぼくはあなたのためならば、なんだってさしだして、なんだってけしさります。そうして、ぼくとしぇんぱいはどこまでもどこまでも、ずっといっしょなんれす」
 本当に、どこまでも、俺のことが好きらしい。そんな魅力が自分にあるようには思えないのに、ハレサクは俺がまるですごい人物のように言ってくる。恥ずかしい。それなのに、嬉しくてしょうがない。熱に浮かされた頭が、こいつが側にいてくれるならもうなんでもいい、と勝手に思わせてきていた。

 身体を巡る血液が、忙しなく動いていた。握られている手や、顔がとにかく熱くてしょうがない。

「すみきせんぱい」

 あの、掠れた艶っぽい音で、俺の名前が呼ばれた。身体に巻き付いていた右腕が離れ、顔を掴まれる。優しく左に向かされて、酔いの収まっていない美貌と目が合う。

「かおまっか」

 低い声がからかい、小さく笑った。

「かわいい」

 唇の端に、柔らかいものが触れている。ハレサクの耳が、よく見える。改めて見ると、綺麗な曲線をしていた。穴は開いていない。開けてみたいけれど怖くて出来なかったと、前に言っていた。
 それが離れて、見せつけるようにゆったりと微笑んだ。
 ハレサクに、キスを、された。
 頭がようやく理解したと同時に、何か重たいものが左肩に乗っかった。頬に触れていた手は、俺の身体にぶつかりながらだらんと落ちていく。脈動の隙間から、穏やかな呼吸が聞こえる。

「うそだろ」

 右手で、唇の端に触れる。重なっていたのは一瞬だったはずなのに、確かにハレサクの体温がまだ皮膚上に残っているようだった。犬に舐められたようなもの、なんて到底思えなかった。そう、笑って誤魔化したくはなかった。

「ハレサクの馬鹿」

 左手はぎゅっと握られて、動かせそうにない。右手をそっと寝落ちした男の頬へ伸ばした。見た目通りに溶かされそうなほどの温度を持っていて、気を抜けば手の平がくっついてしまいそうだった。
 支えたまま、顔を横にずらす。

「はれさくの、ばか」

 ミルクブラウンに唇を落とすと、んん、と分かっているかのように鳴いておかしかった。ハレサクは、今、どんな夢を見ているのだろうか。幸せな夢の中に、俺もいてくれればいいのにと願って、唇を離す。
 このままでは寝れそうにないし、右手をテーブルの方へと移動させた。可愛い犬の缶の中に、ビールはまだまだ残っている。ちびちびと苦みを口に流し込むが、先ほどよりも気になることはなかった。


 頭に、ハレサクの叫び声が響いていた。

「せ、せせせせ、せんぱい!? ごめんなさい……!」

 温かな体温に包まれているのに、やけに身体が気怠かった。覚醒を拒むような頭痛を抱えながら、その温度の形を確かめる。左肩に、背中に、左手に、太股の側面に、優しい熱さを感じた。
 そうだ、俺とこいつの体格差ではどうにもならないからと、ベッドに寝かせるのを諦めて眠ったのだった。

「ん、いいぞ、気にしてない」

 折角だし後ろに体重を預けると、何故か慌てふためいていた。表情は見えないが、きっと可愛いに違いない。

「可愛いな、ハレサクは」
「す、炭木先輩、酔ってます……?」
「酔ってたのは俺じゃなくて、お前の方。寝る前のこと、覚えてるか?」

 愛おしい沈黙が広がっていく。ああ、今は、どんな風に顔色を変化させているのだろう。落ち込んでいるのだろうか、それとも照れている? あんなに張り切っていたのだから、悔しがっているのかもしれない。

「やっぱり、お前は可愛い。好きだよ、ハレサク」
「せっ、先輩、やっぱり酔ってますよね!? でも、嬉しいです。やっと好きって言ってくれた。早く、僕に惚れて下さいね」
「分かった」
「変です! 先輩がそんなこと言ってくれるはずないですもん! 一体、僕と先輩は、寝落ちてしまう前にどんな会話をしていたんですか……!?」

 ハレサクは慌ただしく俺を手放していった。振り返って、ベッドに逃げ込もうとする手を掴む。ミルクブラウンから覗く耳は真っ赤に熟れていた。
 ハレサクがこれだけ好きと言ってくれているのなら、自分を嫌う方が不誠実だ。

「ハレサク、好きだ。お前が俺を見つけてくれてよかった」

 勢いよく振り返り、酔っているときと変わらない真っ赤な美貌をこちらに見せつけた。下がった眉が、いつも以上に照れていると訴えている。

「見つけてくれたのは、僕じゃなくて、炭木先輩です! ああ、こんな姿、他の人間が見ていたらと思うと、本当に耐えられない……。やっぱり先輩はこの部屋から出しては駄目だ、誰もが先輩の魅力に気付いてしまう。もっと、セキュリティーのしっかりした部屋に」
「ハレサク」
「は、はいっ」
「寝るぞ」

 腕を軽く引っ張って立ち上がり、まだ酔いの醒めていなさそうな男をベッドに突き飛ばした。突然のことで身構える時間もなかったのか、俺の力でも簡単に寝かせることが出来た。
 起きあがろうとする身体を押し倒して、全身を使ってベッドに縫いつける。

「片付けは起きてから、二人でやろうな。おやすみ」
「え、お、おやすみなさい、先輩……?」

 おずおずとハレサクの腕が背中に回ってきた。じんわりと身体がまた温かくなっていく。その心地の良さに、少しずつまた微睡みが訪れていた。優しい温度に身を任せて、再び瞼を閉じた。


『もう二度と飲みません……。
また飲もうな。飲みませんから!』


  *


『8月22日 定期読書会→○○パーティーに変更。答えが分かったら炭木まで』


「じゃあハレサクは、こういう風にたこ焼きを焼いたり、いろんな具材を試したりするのを何て言うのか知ってるか?」

 手の平でたこ焼き器の温度を確かめながら問いかければ、隣に座っている男はボウルの中身をかき混ぜるのを止めてじっと俺の手の下を見つめた。考え込んで固くなった表情が、一瞬にして柔らかくなる。そして、俺の方を見て、困ったように口を噤んでいた。

「分からなくても笑わないよ。お前の思った言葉を聞きたいだけだ」

 慰めるように言えば、形の良い唇が重たそうに持ち上げられる。

「た、たこぱ? ですか……?」
「そう、たこパ、たこ焼きパーティー。知ってはいるんだな」
「言葉だけなら、どこかで聞いたことがあって。なるほど、たこ焼きパーティーを略した言葉が、たこパ、なんですね」

 神妙に頷いて、また生地を混ぜ始めた。小振りな泡立て器が会話の隙間で、しゃかしゃかと小気味の良いリズムを奏でている。パンケーキを焼くのが得意なハレサクは、生地をかき混ぜるのもまた得意だった。
 サラダ油を引いて、キッチンペーパーを使って穴の一つひとつにしっかりと馴染ませていく。

「あれだけ人がいると、屋台巡りも疲れるな。地元の祭りなんてあの半分もいないぞ」
「それくらいの方が、ちょうどいいですよ。歩くのも一苦労でした。でも、先輩と一緒だったから、それすらも楽しかったです」
「俺も。ハレサクがいてくれたおかげで、最後まで迷わずに楽しめた」

 ローテーブル一杯に、トッピングが広がっている。たこに、天かす、紅ショウガ、ねぎ、ソース、チーズ、ソーセージ、チョコ、レーズン……。部屋中の小皿や小鉢をかき集めても足りず、たこはボウル、天かすは袋のまま並べることになった。
 言葉を遮るように、油が弾ける。おたまを持つと、ハレサクは泡立て器を抜いて、ボウルをこちらに差し出した。受け取ったときに指が触れてしまったのを、たこ焼き器が音を重ねてからかってくる。

「お手本、……になればいいけどなあ。小学生振りにやるから、失敗したらごめん」
「炭木先輩、随分と弱気ですね。いつもなら、間違ってもなんとかなるから、って笑ってくれるのに」
「俺にだってそういう日くらいある」

 クリーム色の生地の表面は、先ほどまでかき混ぜられていたとは思えないほど、落ち着きを払っている。掬いあげて、半分を過ぎるくらいに、と気を付けながら流し入れていた。それなのに、半分も入っていないところやたっぷりと満たしているところと、あまりにも大きな差が付いてしまっていた。
 盗み見る隣の男の双眸は、すでにたこ焼き器に釘付けで、それが失敗なのかどうかは気にも留めていないようだった。そうだ、ハレサクはそもそもたこ焼きが家で出来ることを知らない。たこパどころか、家庭用のたこ焼き器自体、初めてなのだ。
 これの存在を思い出したのは、偶然だった。色々と記憶を探っている中で、一年生の頃に学祭のビンゴ大会で手に入れたこと、結局未使用のまま新居へと運んだことと仕舞った位置が頭にぱっと浮かんできた。ハレサクが俺の誕生日に向けてこそこそとしている隙を狙って探してみれば、確かにそれは思っていた通りの場所にあった。引っ越してきて一年も閉じ込められていたそれは、箱の表面にうっすらと埃が積もっていた。
 元々の約束を変更してもらって秘密のパーティーを計画し、一緒に買い出しをした。その道中、食材や道具を見て何のパーティーなのか予想してもらっていたが、たこ焼き機を取り出してくるまで正解は出てこなかった。
 俺の手が動くと、ハレサクの視線もそちらにずれた。入れ替えるようにたこの入ったボールを手に取り、ハレサクの楽しみが減らないよう一つひとつ間違いなく落としていく。その上に天かす、紅ショウガ、ねぎを散らすだけで、全体が華やかになった。

「初めて俺とハレサクが会った日さ、お前を公園に置いてって、結局道に迷って遅刻したんだよ」
「ふふ、炭木先輩らしいですね。今の僕なら、意地でも先輩の後を追いかけて、案内しますって言いますよ」
「ありがとう。やっぱりお前は本当に頼りになるな、俺の自慢の可愛い後輩だ」

 生地を入れると、暖かな色が穴を溢れ、プレート全体に広がっていく。大丈夫だと自分に言い聞かせ、ボウルを手放した。

「好きな小説を、お前も気に入ってくれて嬉しかった。一人だったときは本の中を旅していたのに、美術館とか、動物園とか、お前は俺をいろんな場所に連れ出して、案内してくれたよな」
「僕だって、一人だったらあんなに出掛けないです。先輩のおかげで、行きたい場所がまたいっぱい出来たんですよ。いつか、海外旅行もしましょうね」

 熱が伝わっているのが、表面にありありと浮かび上がっている。穴の間を走る千枚通しは、ハレサクが隣にいてくれるおかげで、道に迷うことはなかった。間違いなく真っ直ぐに線を引き、一つ一つを切り分けていく。

「もう、お前以外と一緒に暮らすなんて、想像出来なくなってる。同じくらい、お前が誰かと一緒にいることを、想像したくなくなっている。……って、それは流石に心が狭いか」
「それ、って、どういう……」

 美味しいと言ってくれるように、好きだと言ってくれるように、生地をひっくり返した。最初は歪だったものの、回していくごとに少しずつ、それらしい形になってくる。
 表面に焼き色がついてくると、すごい、と隣から感嘆の音が漏れた。受け取ってくれなかったらと弱気になっていたところはあったが、その心配はなさそうだ。
 念のために、電源を落とす。それから、黒い鉄板の上で輝く無数の中の、特に綺麗な丸を選んで、銀の先端を刺した。ハレサクの柔らかな瞳が俺の手を追いかける。想いを乗せるように息を吹きかけて冷ましてやり、待ちきれずにいる唇へと運んでいく。
 視線が、手元を越えて、俺とぶつかった。
 今日もハレサクは、可愛くて、綺麗だ。

「口開けろ」

 自分のものとは思えないほど、優しい声色が己の喉から出ていた。
 何度か瞬きをし、ハレサクは頬に照れを滲ませて、唇を開いた。ゆっくりと、丁寧に、運んでいく。はふはふと熱さを逃がしながらも、楽しそうに食べてくれていた。
 喉仏が上下するのを見届けて、唇を動かす。

「ハレサク。お前のことが、好きだ」

 はれさく、おまえのことが、すきだ、と同じ音を繰り返しなぞって、不意に目を見開いた。俺だけが、瞳の中心にいる。

「え、うそだ、うそですよ。……ほんとうに?」
「お前の思う俺は、ここで嘘をつく性格か?」
「だ、だって、先輩が、僕のことを好きになるなんて、そんな都合のいいことあるわけないです」
「早くしないと、たこ焼きが焦げるぞ」

 閉じ込めたときは、あんなに迫ってきていたくせに、いざ言ってみれば逃げようとしている。初めて見つけた、ハレサクの可愛い一面だ。

「後輩として、友人として、同居人として、……その、恋人候補として、好きだ。恋人らしいことを俺はお前にしてやれないだろうけど、それでもよければ、俺と付き合ってくれないか」
 精一杯の告白を、ハレサクは黙って聞いていた。睫毛に飾られた瞳は光を反射してきらきらと輝き、困ったように下がる眉と相俟って、泣いているようにも見えた。
 あの雄弁な指先が俺の方へと伸びてきて、頬に優しく触れた。俺の言葉を確かめるように、心のままならなさを伝えてくれているように、何度も指が撫でる。そして、ゆっくりと手の平が当てられた。いつにも増して、手の中は温かかった。

「ずっと一緒にいてくれないと嫌です」
「俺でいいなら、ずっと側にいるよ」
「もう、僕を置いて、どこかに行かないで下さい」
「それは悪かった。反省してる」
「僕を、僕だけを好きでいて下さい。お願いです、炭木先輩……」
「分かった」
「すみき、せんぱいは、ずるいです……。ずるい、ですよ……」

 瞬きに合わせて、目尻が煌めいた。それが頬を伝うのを見届ける前に、強く抱き締められてしまう。手探りで千枚通しをテーブルに置き、その広い背中に手を伸ばした。
 視界の端で、柔らかなミルクブラウンが揺れていた。片手をそこへと伸ばして撫でてみると、ずるいです、と何度も俺を幼く罵ってきた。

「ハレサクの返事、聞かせてくれないか」
「ぼくも、せんぱいのこと、だいすき、です」
「じゃあ、両想いだな」

 首元にじゃれついて、同じ感情であると肯定してくれた。
 胸の奥が熱く、くすぐったかった。この可愛くも綺麗な男の一挙一動に、俺は弱いのだ。一つに絞りきれない様々な側面を持っているのに、これ以上のものをこれから得ていくのだと思うと、この夏休みが終わらなければいいのにとさえ感じてしまう。

「夏休みは短いから、これからもっと楽しまないとな」

 俺の誕生日も近付いているし、それが終わったら実家にも行く。その間にも色々と一緒にやることがある。
 恋人になってくれた男は顔を上げて、可愛らしい微笑みをこちらに向けた。

「は、いっ……!」
「じゃあまずは、たこパだ。これを食べたら、次はハレサクが作る番。パンケーキを焼くのが上手だから、きっと綺麗に作るんだろうな」

 寂しそうに身体を離していくのが、おかしい。つい笑ってしまうと、俺に釣られてハレサクも笑ってくれた。
 彼の背中の向こうに、犬のデザインの壁掛けカレンダーが見える。いつの間にか月の半分以上が終わっていて、その一日一日に様々な思い出が詰まっている。今までは一人分だった筆跡は二人分に変わり、書き込みのない日はもうどこにもない。
 ハレサクは今日のことを、どういう風に書いてくれるのだろうか。今から楽しみでしょうがなかった。


『炭木先輩と両想い記念日! これまでも、これからもずっと、大好きです!
 ありがとう、俺もハレサクのことが好きだぞ。』
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