Changeling

SF

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第八章

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身体がすっかり冷えてしまった。泉から上がりローブの血糊のついていない部分で身体を拭く。
皮膚は冷たいのに、体の芯は熱を持ったままだ。手早く服を着てそれを隠す。薄い着物しか着るものが無くなってしまったソラスには自分の上着を着せてやった。
森の中に入り、火を起こす。ソラスを背後から抱きしめるようにして炎に当たった。じんわりとソラスに温もりが戻ってくるのを感じ、安心すると同時にその心地良さに溺れた。
白い髪は芳醇な花の香の中に清涼な薄荷の香りがたなびいて、いつまでもそこに顔を埋めていたくなる。
尖った耳の先に唇を寄せれば、拗ねた子どものような横顔を見せ、可愛らしくてたまらなかった。そっと顔に手を添えて、浅く、時折深い口づけを幾度も交わす。どうしようもなく心が満たされていく。向かい合いぴたりと身体を密着させるが、布一枚分の身体の隙間さえもどかしい。私達はいつの間にか、互いを腕の中に捕らえたまま眠ってしまった。

目が覚めたのは、夜明け前だった。その時間は深夜より闇が濃くなる。焚き火に照らされる風景は白く霞んでいる。ソラスの姿をくらます魔法だ。
ソラスを見れば、すっくと立ち上がり矢を射らんとする狩人のように表情を尖らせていた。私が起きたことに気がつくと、すぐにここから離れるよう促した。
遠くで幾つもの灯りが揺らめいている。
人の声の騒めきも聞こえてきた。
村長宅の惨劇が明るみになったようだ。
置き去りにしてきた罪が私達を追ってきた。
ソラスは私に逃げるよう言う。
何故ーーーー

置いていけない者がいるという。
あの侍女だった。村長宅へ赴いた時、"対価"は別のものにして欲しいと申し出た。しかし、侍女や私が酷い目に遭うと脅され、尚且つ私との約束を思い出し抵抗が躊躇われ従ったという。
たった一欠片の憐憫の情が、愛に飢えた彼の心に突き刺さり、この世に縛りつけていた。
そして、私もソラスの枷になってしまっていたのか。

『村長はもういない、彼女を傷つけるものはもういないよ』

私は侍女の死を告げることが出来なかった。
足音が迫る。時間がない。
この魔法は長く持つものではなく、また姿は見えなくとも触れることが出来てしまう。私は彼の手を引いて走り出した。白く霞む景色の中を駆ける。
しかし、靄が所々薄れてきて、ソラスの足も何度も縺れるようになってきた。彼を振り返れば、肩を上下させ全身で息をしていた。魔法を使いながらの逃避は彼の体力を大幅に削いでいったのだ。
また、ソラスが足を止めた理由はもう一つあった。霞がかった視界に気づかなかったが、私の行先は大きく裂けた渓谷の割れ目だったのだ。このまま闇雲に駆け抜けていたらと思うとぞっとする。
点在していた灯りが集まってくる。
昼間のような明るさに晒された村人達の顔は、憎しみや、恐怖や、獲物を探す愉悦に歪んでいた。
ふらつくソラスの身体を支えながら抱きしめた。視界にまた靄がかかる。そんなことはもうしなくていいと言うが、ソラスは首を振った。そして声を殺し、決して目を開けてはいけない、と私の頭を抱えるように胸に押しつけた。
彼の心臓は暴れていた。
視界の端に、闇よりもなお濃い黒い靄のようなものが見えた。ソラスは体の向きを変え、より強く抱きしめてくる。
そして見てはいけないともう一度繰り返す。
私は理解した。
子ども達の言っていた、森を彷徨うーーーー

爆発するような悲鳴が聞こえた。幾重にも重なるそれらも、乱れる足音も、やがて端から呑み込まれてゆく。

ーーーー旧い神。人が名を呼ぶ事も、見る事さえ許されない存在。

私達は根源に刻まれた畏怖と恐怖に震えながら、それが通り過ぎるのをただ待っていた。

静寂に包まれ耳鳴りがしてくる頃、ようやく目を開ける事を許された。
太陽が登り始めているのか、闇が薄れてきた気がする。村人達は煙のように掻き消えてしまい、足跡一つ残っていない。まるで何事もなかったように針葉樹の森は静まりかえり、それがかえって恐ろしかった。
がさり、と乾いた落ち葉の擦れる音が静寂を切り裂いた。薄明かりの中で小さな二つの光が瞬く。うつ伏せに倒れた少年が、怯えた顔でキョロキョロと目を動かしていた。トラフィー家で見かけた少年だ。怪我はないか語りかけながらそっと近づく。
少年の視線が私とソラスを捉えた瞬間、彼の目が鋭くなった。その手に持っていたボウガンの矢尻ように目をぎらつかせる。私はとっさにソラスの元に駆け出し飛びついた。背中に衝撃が走り、細い矢は火柱のように熱くなる。
目だけで後ろを振り返ると、トラフィー家の少年は父親や祖父を呼びながらぐるりと白目を剥きこうべを垂れた。
よく見れば下半身は口にできぬ程悍ましい状態になっていた。
ソラスは驚く間もなく私の全体重を受けて、私達は重なり合ったまま、深い深い地面の裂け目に落ちていった。

風が耳元で唸りを上げる。今度は私がソラスの身体を頭から包み込んだ。せめて、ソラスが助かれば。
ソラスは何やら喚いていた。私の考えは見透かされているようだ。
けれども私の身体は毒に侵され震え始めていた。万が一地面に叩きつけられるのを免れても助からないだろう。
目に光が差す。もう夜が明けたのだろうか。いや、違う。光は底から沸き上がっている。あれはもしかしたらーーーー

光が背中に触れた途端、全身が大きく脈打った。ソラスを離してしまいそうになり、腕に力を入れる。しかし、腕は段々短く縮んでいくではないか!
それとは反対に足や腹はむくむくと大きく膨らんでいく。顔は頭蓋骨ごと引き延ばされ、口は裂けて細かな牙が覗く。
皮膚は痒みに襲われ、全身に分厚い鱗が浮かび上がり、生えた端から乾燥して木の表皮のようになっていく。
背中がみしみしと音を立てて軋み、矢はいつの間にか抜け落ちていた。べりっと大きく皮膚が剥がれる感覚の後に、突如としてぶわりと風が立った。翼を羽ばたかせるたびに力が漲り、これが私の本当の姿だったのだろうと思い起こさせる。
私は肩甲骨を必死に動かした。飛び方は識っていた。草食動物が産まれてすぐ立ち上がるように、植物がひとりでに花を咲かせるように。しかしうまくいかず、何度も岩肌にぶつかってしまった。
ソラスは無事だろうか。私は滑空しながら彼を呼ぶが、喉から出るのは狼の唸りや鳩が喉を鳴らすような音だけだった。
私の鉤爪の生えた手の中のソラスは呆けた顔をしていたものの、傷一つなかった。
竜の顔をした私をその緑の眼に映すと、いつかの夜のように私の胸に生える鱗をなぞり、目を細めた。

さあ帰ろう。"かの国"へ。私達の来た場所へ。
私はソラスを大切に抱えたまま、朝焼けに似た光の中に飛び込んだ。

蘭の花の香が鼻をくすぐり、懐かしい唄声が聞こえた。







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