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7.遣らずの雨

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豊高は身構えドアから飛び出そうとするが、足がもつれドアにぶつかりそうになる。
屋敷の主はゆっくりとダイニングテーブル下の椅子を引き、目線で座るよう促した。そして、旧式のコンロにヤカンをかけたまま飾り窓の付いたドアを開け、部屋から出て行ってしまった。
つまり、ぽつんと一人残されたのだった。
豊高は予想外の行動にどうしてよいか分からなくなり、立ち尽くすばかりだった。
部屋の中をよく見れば、この間案内された応接室より簡素なしつらえになっており、使用人が使うキッチンのような印象だった。
柔らかなオレンジ色の電球がこじんまりした室内を暖かく照らす。
先ほどは勝手口から入ってきたらしい。コンクリートの土間に立てかけた傘から滴った水が斑点模様を作っている。
豊高はあがりこむ気力も逃げる体力もなく、土間と床の段差に腰掛けたままだった。
体調の悪さが戻ってきてぼうっとしていると、背後から足音が聞こえ、頭から背中にかけバスタオルが降ってきた。
豊高はゆっくり振りむき様子を伺う。
彼は木で出来た棚から紅茶葉の缶を取り出した。次に様々な色や形のグラスが収まっている食器棚からぽってりしたポットとティーカップを二つテーブルの上に置く。
そして、沸騰した湯をヤカンからポットとティーカップに注ぎ温める。コンロにヤカンを戻すと豊高の肩に手を伸ばした。
猛烈な勢いで振り払われる。
黒いTシャツを豊高の脇にそっと置くと、使われていない黒い傘に気づいた。

「礼を言う」

豊高の頭に手を乗せると、鞭のようにしなる豊高の腕をするりとかわし紅茶を入れる作業を続けた。
茶葉が程よく蒸らされ、柑橘系の果物のような香りが立ち昇る。
豊高は座り込んだままだった。
屋敷の主は豊高の肩を叩く。
反応はない。
しかし一呼吸置いて

「・・・・・・帰る」

ふらりと立ち上がった。
彼は黙って黒いTシャツと傘を差し出した。

「まだ降っている」
「知ってるよ」

豊高が動くと、バスタオルがずり落ち、赤くなり始めた背中や腰が露わになった。
彼は少し目を見開く。

「どうした?」
「あんたには関係ない、ってか、関わるな」

ドアが開く。雨が少し降りこんだ。
土砂降りの雨の中に身を投じようとする豊高の手を、彼が掴んだ。

「離せよ!!」

振り払った手が顔面に当たる。歯切れ良い音がしたが、その整った顔のパーツの位置を一つも乱さなかった。

「・・・カエデ」
「あ?」

豊高は屋敷の主を睨む。

「俺は楓だ」

殺気立つほど激しい豊高の目を、楓は、静かに佇む黒い瞳で真っ直ぐ見据えていた。

「・・・苗字?名前?」

いくらか感情が静まってきたのか、素っ頓狂な質問が転がり落ちた。

「楓と呼べばいい」

豊高は楓と名乗った人物をじっと見つめる。
穏やかな目だ。
あの暴漢のような卑しい光や、父親のような蔑みの色を宿さない、漆黒の瞳。
しかしあまりにも深すぎて思考を読み取れず、信頼していいものか、と立ち尽くしていた。
楓は豊高の考えを察したのかのように、手を差し出した。

「手は出さない」

豊高はその手を見て

「・・・出してんじゃん」
「む」

楓は手を一度引っ込め掌を見つめる。
そのどこか抜けた様子に、少し警戒心が緩んだ。
楓は握手を求めるようにもう一度手を差し出した。

「何もしない」

その意外にも小さな手に、豊高はそっと手を伸ばす。そしてぴしゃりとはたき落とした。

「余計なお世話だ」

豊高は部屋に上がり込み、黒いTシャツに袖を通す。
楓はふっと微笑んだ。そして薄い磁器のティーカップを豊高の目の前に置く。
深い臙脂色の紅茶から白く柔らかい湯気が立ち上っていた。芳しい香りにつられ、何も入れずに口に運ぶ。
変わっている、と楓は呟き砂糖は入れずにミルクだけ紅茶に入れて飲む。
あんたもな、と豊高は頭の中で悪態をつき、少しずつ紅茶を口に含む。

お互いなんの会話も詮索もない。
豊高は妙に落ち着いた気分だった。
だが警戒心を絶やさず、心の一部をピンと張り詰めていた。
心地よい沈黙が破られたのは、楓が椅子を引き立ち上がったときだった。
豊高と目が合うと「夕食は?」と尋ねた。さも当然食べていくだろうと言った口ぶりだった。

「は?」

豊高はようやく紅茶を飲み干しティーカップをテーブルに置いたところだった。
帰るよ、と言いかけて口をつぐんだ。
父親を殴り飛ばしてきたのだ。帰りづらかった。恐れもあるが、屈辱と怒りでどうにかなってしまいそうだった。豊高の背中が熱くなる。

「今日は帰らない」

きっぱりそう告げると、楓は少し目を見開き驚いた様子だった。
豊高は自分の言った言葉の意味を理解すると顔が熱くなった。

「いやっ、そういう意味じゃっ、なんつぅか、帰りづらいっつぅかっ、あーもうめんどくせぇ・・・」

豊高は机に突っ伏して顔を隠す。楓は赤くなった豊高の耳を見て口角をほんの少し吊り上げながら

「ん」

と短く答えた。
楓はコンロの横の小さな冷蔵庫から鍋を取り出し火にかける。更に腕を捲り野菜をリズミカルに刻んでいく。
豊高は手慣れた手つきに驚いていた。
あっという間に夕食が出来上がる。
テーブルにトマトのサラダ、ソーセージと野菜がたっぷり入ったコンソメスープが並んだ。

「米は?」

豊高が何の気なしに聞くと

「切らしている」

と簡素な答えと斜めに切られたバケットが出された。
豊高はこのやり取りの中で思い当たる節があった。
彼と、話したことがなかったか、と。
ふと思い浮かんだ答えは

「食べな」

という楓のひと言に消された。
手を合わせ、楓はスープを一口啜る。途端、彼は真顔になった。
豊高は楓の顔とスープを代わる代わる見て何事かと考えを巡らせる。やがて楓は言った。

「・・・・・・美味い」
「自分で言うかっ!」

豊高は思わず吹き出した。

「何?て・・・天然?」 

肩を震わせる豊高を見て、楓はふっと微笑んだ。

「笑った」
「・・・え?」

笑っていたのか、と豊高は思った。
すると、親に蔑まれて殴られ雨の中を飛び出したこと、体調も気分も最悪だったこと、なのに、自分がこうして笑っていることが妙に可笑しくなり、豊高は声を上げて笑った。
その途端、ギュウウ、と腹の虫が鳴き、ますます笑いがこみ上げてきた。
しかし静かに食事を続ける楓を見て急に気恥ずかしくなり、自分も手を合わせ楓の料理に手をつけた。
味は素晴らしくよかった。豊高は久しく満腹になるまで食べた。
夕食が済むと、座っていていい、とだけ言い残し、楓は部屋を出て行った。

気がつけば、掛け時計は22時を回っていた。
豊高はそんなはずないと飛び起きる。
跳ね起きたことで、豊高はいつの間にか眠ってしまっていたことに気づいた。
体を起こすとふかふかの毛布が背中でずり落ちる。
テーブルにはメモが残され、風呂場の場所と、好きな部屋を使っていいとの旨が記されていた。
流れるような書体に、文字まで整っているのか、とぼんやり思い、毛布を再び羽織ると、豊高はテーブルの上で寝入ってしまった。
朝になると、このキッチンには朝日が差し込むらしい。強い光がちらつき目が覚めた。

「おはよう」

顔を上げると楓が微笑んだ。

「・・・首痛てぇ」

豊高は顔をしかめてうなじをさすった。焼けたパンの匂いがする。そして紅茶の香りも。

「食えるか?」
「・・・・・・」

半分寝ぼけた豊高の代わりに腹の虫が答えた。
楓は分厚いトースト、目玉焼き、ベーコン、レモンとオレンジの蜂蜜漬けの乗ったプレートを豊高の前に置く。豊高は黙々と食べ始めた。

「・・・・・・美味い」

食べながら豊高はぽつりと漏らす。
トーストも目玉焼きも温かい。胃袋だけでなく胸の中にも温かいものが溜まっていく気がしていた。
誰かと食事をして、誰かと過ごして温かい気持ちになったことがあっただろうか、と考えた時、豊高はなぜか酷く胸が痛んだ。その気持ちに蓋をするように、豊高はがむしゃらに朝食を詰め込んだ。
満たされた感覚の中でぼうっとしていると、妙にくつろいでいる自分に気づいた。
そうだ、と豊高は思う。
今更ながらこの間の出来事、家に連れ込み襲われかけた事を思い出す。またふつふつと猜疑心が湧いてくる。楓は豊高に背を向け、食器をふきんで拭いていた。

「俺、帰る」

楓は振り向いた。

「メシ、うまかった。あと、色々世話になって・・・」

豊高は立ち上がる。
楓は手を拭きながら豊高に近づく。豊高は何かされるのでは、と身構えた。
しかし、楓は豊高の横をすり抜け、ドアノブにかかった傘を持ちドアを開けた。
豊高はそそくさと靴を履き、外に出ようとする。
と、唐突に、楓に黒い傘を渡された。

「今日晴れてるじゃん」

草の上で露が輝く、とびきりの晴天。
しかし豊高は少し考えた後、

「いや、・・・・・・借りるよ」

と傘を受け取った。そしてくるりと背を向けて歩き始める。

「ちゃんと、返すから」

去り際の小さな声でも楓に届いたらしく、いつでもいいと口角を少し吊り上げた。
豊高は掌をひらひらさせて応えた。

どんな人間か見極めたい
借りをつくりたくない
まだ信用できない
けれども、だからこそ
ーーーーーー楓のことが、知りたい。

そんな複雑な感情を抱えながら。
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