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Ⅴ 十六夜月
04 十六夜月
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ファジールはまだ、躊躇っていた。黒の長の館の前に立ちまだ、迷っていた。感情が麻痺したまま正常に戻ってはいない。
ジゼルは大切だと思う。その一方、過去味わった恐怖が蘇ってくる。ジゼルは彼女とは違う。きちんと婚姻し、五部族の長に認められている。誰かが害をなさないことも判っていたが、それでも、過去の恐怖は簡単に消えてはくれなかった。
ジゼルと顔を合わせれば嫌でも思い出す感情。無意識に避けていたことは否定出来ない。そのために、ジゼルが勘違いしたことも判っていた。
はたして迎えに行き幸せに出来るかと訊かれたら、はっきりと断言出来なかった。
だが、何時までも過去に捕らわれていては前には進めない。ファジールは意を決し扉を叩いた。
まるでファジールを待っていたかのように直ぐに扉は静かに開かれた。
「お待ちしておりました」
シンは静かにそう言った。
「此方に」
ファジールが何かを言う前にある場所に誘った。無言で問うファジールにシンは無表情に扉を開いた。其処は館の入り口の正面にある階段の裏だった。
「長様の指示です。場所は判りますね」
シンの言葉にファジールは頷いた。一度入ったことのある場所だった。両親が眠りにつくとき、見守るために入った場所だった。
まさか、こんなに早く入ることになるなど想像も出来なかった。
入るとすぐ目の前に現れるのは地下深くに繋がる螺旋階段だ。下をのぞき込むと深い闇が襲いかかってくる。
小さく息を吐き出し、足を踏み出した。
その場所は薄暗くはあったが、全くの闇ではなかった。壁が微妙に発光している。
普段は閉じている聴覚の魔力を解き放つ。微かに聞こえてくる音は彼の足音ではなかった。静寂が支配している場所で音があるのは其処に誰かがいる証拠だ。
長く続く階段を慎重に降り、目の前に黒く大きな扉が現れた。何時もは閉まっている筈の扉は開かれていた。
ファジールは黒の長がわざと閉めずに奥に向かったことが判った。おそらく、レイチェルがファジールの元に行き、後を追ってくることが判っていたに違いない。
一瞬躊躇い、だが、気を取り直し中に入った。
微かにけれどはっきりと届く声。足音を忍ばせ、声に耳を傾けた。哀しみを帯びた声は酷く穏やかで、黒の長に答える言葉は全てを悟った者のそれだった。
伝えて欲しいとジゼルが発した言葉をファジールはしっかり耳にした。全てはファジールを労る言葉だけだった。黒の長の確認に何も答えず、最後の言葉と共にジゼルの命が別の物に移動したことが感じられた。
入り口に辿り付いたときはっきりと動揺していることに気が付いた。それは、今まで感じたことのない感覚だった。
「お前はどうするつもりでここに来たのです」
黒の長の問い掛けにファジールは一族の地下廟内に足を踏み入れた。静かに歩を進め、黒の長の目の前まで来ると、視線を柩に移した。
黒と赤の柩の中にジゼルはいた。胸に不思議な色合いの薔薇を抱き、静かに眠りについていた。
「聞いていましたね。どうしますか」
黒の長は再度、問い掛けた。
ファジールは黒の長に向き直る。此処に来るまで何一つ答えは見いだせていなかった。ジゼルの言葉を聞くまで心は凍り付いたままだった。
黒の長はファジールの表情に驚き口を噤んだ。無表情だった黒薔薇の主治医の顔ではなかった。
苦痛に満ちた、後悔を滲ませた表情をしていた。瞳にうっすらと涙を浮かべ、それが気持ちを雄弁に語っていた。
「……僕は何て愚か者なんだ……」
小さく呟いた言葉はやはり、後悔を滲ませていた。哀しみに捕らわれ何も見ようとしていなかった。向き合うことで過去を思い出したくなかったのだ。その思いが如何に愚かな考えであったのか、はっきりと突き付けられた気がした。
「正直、怖かったんだ」
ファジールは素直に気持ちを口にした。
「判っています。けれど、過去に捕らわれては大切な者を見失いますよ」
ファジールは黒の長の言葉にきつく目を閉じた。
「ジゼルにはあのことを話しました」
黒の長はジゼルに視線を移し、とても静かに言った。驚いたのはファジールだった。目を見開き動揺した。聴覚の魔力を解放したとき、その話しは耳に入っていなかった。
「嫌悪感を抱いたと、そう思いますか」
黒の長は穏やかに問い掛けた。
向けられた言葉に息を飲む。
「彼女は純粋ですよ。隔離されていたせいか荒んだところが全くない。その話しを聞いて尚、眠りにつくことを望みました」
黒の長は視線をファジールに戻した。表情が哀し気になり、痛ましい者を見るように目を細めた。
「月華だからと。それは、聞いていましたね」
ファジールは頷いた。ジゼルは何も悪くはない。月華として生まれついたのは彼女のせいではない。運命の悪戯で振り回されたのだ。気に病む必要も、気にする必要もない。
「……何故、望みを聞いたんだ」
レイチェルは黒の長がジゼルの望みを許可すると言っていた。そして、それは現実に目の前に突き付けられた。
「ジゼルは追い詰められていました。お前の生を犠牲にし助かった自分に対して罪悪感すら抱いていました。考え抜いた結果、眠りにつくことで解放しようとしたのですよ」
ジゼルは《太陽の審判》を望まなかった。それは、命を捨てることになるからだ。ファジールの命で助かった命を無駄にしたくなかったのかもしれない。
「昨日、薔薇が届いたとき嫌な予感はしましたよ。眠りの薔薇を使う予定の者はいませんでした。それが届けられたとき、不意にジゼルが思い浮かびました」
結婚二年目で届けられた柩にも驚いていた。ほぼ同じ時期に婚姻したレイチェルとアジルの柩はまだ、地下廟には無いのだ。それは、異例の早さだった。
「お前はどうしますか」
黒の長は視線を反らせると、出口に向かって歩き始めた。
「蓋を閉じるも、連れ帰るもお前次第です」
黒の長は去り際に呟くように一言言った。
黒の長の足音が遠のき、代わりに痛いほどの静寂がファジールを包んだ。
ジゼルに向き直ると、躊躇いがちに彼女の頬に触れた。遺体でもない、眠っているのでもない体は冷たくはあったが固くはなかった。
ジゼルが胸に抱く薔薇を取り出し、吸い取られていた命が戻れば目覚める。だが、ジゼルは今のファジールを受け入れるのだろうか。散々苦しめ、悩んでいることも判っていて放置していた。
レイチェルが最後の言葉だと言って伝えてきた言葉と、ジゼルが黒の長に伝えて欲しいと頼んでいた言葉が重なる。
「僕は何時だって自由だったんだ」
生命活動を停止させているジゼルに向かって呟いた。聞いている筈のない彼女に思わず漏らした。
自由でなかったのは逆にジゼルの方だった筈だ。確かに好きなことが出来るようにはなっただろう。何時も誰かに監視されるような生活ではなくなったのは事実だ。
だが、命を助けるために繋がってしまった血の絆で縛り付けってしまったのはファジールだったのかもしれない。
月華であったことより正直に驚いたのは名前だったのだ。あのとき、息が止まるほどの衝撃を受けた。
ファジールは考えた挙げ句、胸の薔薇に手を伸ばした。指先に触れた薔薇は無機質で、とても植物だとは思えなかった。
薔薇の茎に触れ、そのまま引き抜く。薔薇は小さく震え、ジゼルの上で砕け散った。光の粒子となり、躯に吸い込まれていく。
ファジールはジゼルの髪に触れた。少し波打つ黒髪はあのときより長くなり、だが、質感は変わっていない。
息を吸い込む音が聞こえてくる。咽せるように咳き込んだ。ファジールは慌てて抱き起こすと背中をさする。
強張った躯は直ぐには機能しない。何度か見たことがあるので知っていた。意識がはっきりしないのか仕切りに頭を振っている。
「大丈夫か」
いきなり耳元に届いた声に、ジゼルの動きが止まった。今、居る筈のない者の声だったからだ。黒の長に問われ、有り得ないと答えなかった。
躯を支えている者の顔を見る。
「……どうして……」
疑問が生まれた。自分は疎まれている筈なのに、何故、此処にいるのか。混乱し、どうしていいのか判らなかった。
「……私は」
ジゼルの顔が歪んだ。自由にするつもりで来たのに、また、迷惑をかけてしまったのだと思い込んだ。
浅はかな考えで、そこまで考えた後、涙が溢れてきた。情けなくて、何処かに消えてしまいたくなった。
「聞いた。だから、迎えに来た」
ファジールは何故悩んでいたのか、不思議な気持ちになった。アジルに大切すぎてどうしていいのか判らないんじゃないかと言われ、間違っていないことに気が付いた。
だから、言わなければいけなかった。
「僕の過去を聞いたんだろう」
いきなり聞かれジゼルは素直に頷いた。
「何故、避けていたか判らないだろう」
更に頷く。
「君の名前だ」
ファジールにそう言われ、ジゼルは目を見開いた。
「彼女の名前はジゼルだったんだ」
息が止まるほどの衝撃を受けた。ジゼルは自然と体が震えた。偶然にしては出来すぎている。
「姿は全く違うのに、君を見る度、思い出してしまうんじゃないかと怖かったんだ」
ジゼルは小さく息を飲む。好きだった娘と同じ名前。
本当に泣きたくなった。
「それは君のせいじゃないのに、会う度に辛くなった」
過去に味わった出来事が全ての始まりだった。浅はかな若い頃の過ちだ。よく考えずに行動した結果が生んだ事件だったのだ。
「僕は彼等を捜さなかったよ。あの頃、見つけ出していたとしたら、八つ裂きにしていただろう」
後先考えずに突っ走り、もっと、酷い結果になったかもしれない。
「……でも、貴方のせいじゃないわ……」
ジゼルは言った後、思い切り咳き込んだ。
躯の機能を停止させる。それはかなりの負担を躯に強いる行為だ。余程でない限り目覚めさせることはない。
眠りについて本人が目覚めを望む状況になったとき、一族の者が薔薇を引き抜く。ジゼルのように眠りにつき直ぐ目覚めさせる例は一度もなかった。
「話さない方がいい」
ジゼルは泣きそうな顔をファジールに向けた。
「君が気にする必要はないし、気に病む必要もない。これは終わったことだ」
しかし、ジゼルは首を横に振った。黒の長は言ったのだ。
「……子供がいるってっ……」
百年前ならまだ子供だ。その子まで忘れてしまったのだろうか。女児なら吸血族の中では大切にされる筈だ。
「……気になるか」
ジゼルは強く頷いた。お節介なのかもしれない。ファジールにとって関わって欲しくないことなのかもしれない。
それでも、知っておきたかった。目覚めるつもりがなかったのに目覚めてしまった。おそらく、黒の長はもう認めてはくれない。ならば、気になることは知っておきたかった。
知らずに心に溜め込みたくなかった。
「あの子は子供が授からなかった夫婦の元に預けられた」
子供が産まれてすぐ、娘は半狂乱になった。自分の中から誕生した命は、愛した者の子ではない。ましてや、知らされた事実は娘の精神を蝕んでいた。
人の世では吸血族は吸血鬼として恐れられていた。実際に吸血行為をしていたのは随分過去で、その当時は禁止されていた行為だ。
だが、人間は過去を教訓とし子孫に伝え続ける。それは吸血族とて同じだ。そのため、娘には生まれた子は死産であると告げ、記憶を封じた。
「長は僕と生まれた子の接触を禁止した。だから、預けられた後、どうなっているのか実際は知らない」
ファジールは淡々と語った。禁止した理由も何となくだが理解出来た。愛した者が産み落とした命だ。ファジールがのめり込むことを危惧したからに違いなかった。
だからこそ、誰に託したのか実際には知らなかった。
「納得したか」
ジゼルは少し考え、渋々頷いた。おそらく、ファジールは本当に知らないのだ。ならば、訊く者を間違えているとジゼルは判断した。
「……何故、来たの……」
声が上手く出せない。乾いた声は聞き取るのが困難なほどだったが、ファジールは聴覚の魔力を解放していた。そのせいか、鮮明に聞き取ることが可能だった。
「避けていたのは嫌っていたからじゃない。失うつもりは更々無いからな」
素っ気ない言葉だが、黒の長からファジールの過去を聞いたジゼルには、それが精一杯の言葉なのだと納得出来た。
しかし、ファジールの心が見えない。見えなければ不安が募るばかりで、また、考えてはいけないことを考えてしまいそうだった。
「……それじゃあ……判らないの……」
涙を浮かべジゼルは訴えた。上辺の言葉が欲しい訳じゃない。ファジールの中のジゼルに対する真実が欲しかった。
「……嫌いなの……それとも……疎ましいの……」
ジゼルの問いにファジールは目を見開いた。レイチェルと黒の長の言葉が蘇る。
ファジールに対してジゼルは負い目を感じていた。言いたいことが言えず、全てを飲み込むしかなかった。
愛の言葉を口にしたくても、口にしてはいけないのだと噤むしかなかった。
ファジールはただ、抱き締めた。言葉で言い繕うことは簡単だが、ジゼルが求めているものはそれじゃない。
「ごめん」
耳元でそれだけ言うのが精一杯だった。言いたいことは確かにあった。しかし、その言葉は本当に真実を伝えてくれるのだろうか。
ジゼルはただ抱き締めてきたファジールに泣きたくなった。言葉が欲しかったわけではない。ましてや、ファジールの過去は壮絶すぎた。
あんな過去は話したくなかったに違いない。それでも話してくれた。だが、不安だった。
不安すぎて訊かずにはいられなかった。
「帰ろう」
ファジールは短く言った。何時までも此処にはいられない。この場所は眠りにつく場所だ。静寂を乱すのは眠りにある者の妨げにしかならない。
ジゼルは少し躊躇い、ファジールに抱き付いた。そして、頷いた。だだ、これだけは伝えたかった。
「……一つだけ、我が儘を言わせて…… 」
ファジールは頷いた。ジゼルは結婚してから何時も何かを言いた気だった。それを飲み込んでいたことも知っていた。
「……好きなの……好きでいることは許して欲しいの……」
ファジールは抱き締めていた腕に力を込めた。それは我が儘ではない。何時でもどんなときでも、気持ちは心は自由だ。
許しを乞わなくてはいけないのはファジールの方だ。ジゼルはきちんと現実と向き合っている。現実を見ず、ただ過去に捕らわれ向き合っていなかったのはファジール自身だ。
「ありがとう」
ファジールはただ、一言本心を言った。感謝以外の言葉は見つからなかった。全てはこれから始まるのだ。
ジゼルはその言葉を聞き終わる前にファジールに力無くもたれ掛かった。眠りの封印が解けた躯は限界に達していたようだった。
「おやすみ、ジゼル」
ファジールは小さく呟いた。規則正しい寝息がこれほど安心出来るものなのだと初めて知った。ジゼルを抱き抱え地下廟を見渡した。
ファジールの一族は数的に少ない。それは、結婚に対して消極的だからだ。ある意味、ファジールは一族の中で最も早く結婚したことになる。両親の年の差を考え、ファジールは苦笑した。
ジゼルは親子ほど年の離れた婚約者を嫌っていた。だが、ファジールの両親の年の差を聞いたら吃驚する筈だ。何時か話すときが来るかもしれない。
二人で普通に笑い、幸せだと感じることが出来るときに。そして、この場所に来るときは二人で眠りにつくときだ。そのときまで、来たいとは思わなかった。
黒薔薇の部族の地下廟の扉を静かに閉め、地上を目指した。 深く、暗い、静寂が支配する地下廟は ただ静かに存在していた。
ジゼルは大切だと思う。その一方、過去味わった恐怖が蘇ってくる。ジゼルは彼女とは違う。きちんと婚姻し、五部族の長に認められている。誰かが害をなさないことも判っていたが、それでも、過去の恐怖は簡単に消えてはくれなかった。
ジゼルと顔を合わせれば嫌でも思い出す感情。無意識に避けていたことは否定出来ない。そのために、ジゼルが勘違いしたことも判っていた。
はたして迎えに行き幸せに出来るかと訊かれたら、はっきりと断言出来なかった。
だが、何時までも過去に捕らわれていては前には進めない。ファジールは意を決し扉を叩いた。
まるでファジールを待っていたかのように直ぐに扉は静かに開かれた。
「お待ちしておりました」
シンは静かにそう言った。
「此方に」
ファジールが何かを言う前にある場所に誘った。無言で問うファジールにシンは無表情に扉を開いた。其処は館の入り口の正面にある階段の裏だった。
「長様の指示です。場所は判りますね」
シンの言葉にファジールは頷いた。一度入ったことのある場所だった。両親が眠りにつくとき、見守るために入った場所だった。
まさか、こんなに早く入ることになるなど想像も出来なかった。
入るとすぐ目の前に現れるのは地下深くに繋がる螺旋階段だ。下をのぞき込むと深い闇が襲いかかってくる。
小さく息を吐き出し、足を踏み出した。
その場所は薄暗くはあったが、全くの闇ではなかった。壁が微妙に発光している。
普段は閉じている聴覚の魔力を解き放つ。微かに聞こえてくる音は彼の足音ではなかった。静寂が支配している場所で音があるのは其処に誰かがいる証拠だ。
長く続く階段を慎重に降り、目の前に黒く大きな扉が現れた。何時もは閉まっている筈の扉は開かれていた。
ファジールは黒の長がわざと閉めずに奥に向かったことが判った。おそらく、レイチェルがファジールの元に行き、後を追ってくることが判っていたに違いない。
一瞬躊躇い、だが、気を取り直し中に入った。
微かにけれどはっきりと届く声。足音を忍ばせ、声に耳を傾けた。哀しみを帯びた声は酷く穏やかで、黒の長に答える言葉は全てを悟った者のそれだった。
伝えて欲しいとジゼルが発した言葉をファジールはしっかり耳にした。全てはファジールを労る言葉だけだった。黒の長の確認に何も答えず、最後の言葉と共にジゼルの命が別の物に移動したことが感じられた。
入り口に辿り付いたときはっきりと動揺していることに気が付いた。それは、今まで感じたことのない感覚だった。
「お前はどうするつもりでここに来たのです」
黒の長の問い掛けにファジールは一族の地下廟内に足を踏み入れた。静かに歩を進め、黒の長の目の前まで来ると、視線を柩に移した。
黒と赤の柩の中にジゼルはいた。胸に不思議な色合いの薔薇を抱き、静かに眠りについていた。
「聞いていましたね。どうしますか」
黒の長は再度、問い掛けた。
ファジールは黒の長に向き直る。此処に来るまで何一つ答えは見いだせていなかった。ジゼルの言葉を聞くまで心は凍り付いたままだった。
黒の長はファジールの表情に驚き口を噤んだ。無表情だった黒薔薇の主治医の顔ではなかった。
苦痛に満ちた、後悔を滲ませた表情をしていた。瞳にうっすらと涙を浮かべ、それが気持ちを雄弁に語っていた。
「……僕は何て愚か者なんだ……」
小さく呟いた言葉はやはり、後悔を滲ませていた。哀しみに捕らわれ何も見ようとしていなかった。向き合うことで過去を思い出したくなかったのだ。その思いが如何に愚かな考えであったのか、はっきりと突き付けられた気がした。
「正直、怖かったんだ」
ファジールは素直に気持ちを口にした。
「判っています。けれど、過去に捕らわれては大切な者を見失いますよ」
ファジールは黒の長の言葉にきつく目を閉じた。
「ジゼルにはあのことを話しました」
黒の長はジゼルに視線を移し、とても静かに言った。驚いたのはファジールだった。目を見開き動揺した。聴覚の魔力を解放したとき、その話しは耳に入っていなかった。
「嫌悪感を抱いたと、そう思いますか」
黒の長は穏やかに問い掛けた。
向けられた言葉に息を飲む。
「彼女は純粋ですよ。隔離されていたせいか荒んだところが全くない。その話しを聞いて尚、眠りにつくことを望みました」
黒の長は視線をファジールに戻した。表情が哀し気になり、痛ましい者を見るように目を細めた。
「月華だからと。それは、聞いていましたね」
ファジールは頷いた。ジゼルは何も悪くはない。月華として生まれついたのは彼女のせいではない。運命の悪戯で振り回されたのだ。気に病む必要も、気にする必要もない。
「……何故、望みを聞いたんだ」
レイチェルは黒の長がジゼルの望みを許可すると言っていた。そして、それは現実に目の前に突き付けられた。
「ジゼルは追い詰められていました。お前の生を犠牲にし助かった自分に対して罪悪感すら抱いていました。考え抜いた結果、眠りにつくことで解放しようとしたのですよ」
ジゼルは《太陽の審判》を望まなかった。それは、命を捨てることになるからだ。ファジールの命で助かった命を無駄にしたくなかったのかもしれない。
「昨日、薔薇が届いたとき嫌な予感はしましたよ。眠りの薔薇を使う予定の者はいませんでした。それが届けられたとき、不意にジゼルが思い浮かびました」
結婚二年目で届けられた柩にも驚いていた。ほぼ同じ時期に婚姻したレイチェルとアジルの柩はまだ、地下廟には無いのだ。それは、異例の早さだった。
「お前はどうしますか」
黒の長は視線を反らせると、出口に向かって歩き始めた。
「蓋を閉じるも、連れ帰るもお前次第です」
黒の長は去り際に呟くように一言言った。
黒の長の足音が遠のき、代わりに痛いほどの静寂がファジールを包んだ。
ジゼルに向き直ると、躊躇いがちに彼女の頬に触れた。遺体でもない、眠っているのでもない体は冷たくはあったが固くはなかった。
ジゼルが胸に抱く薔薇を取り出し、吸い取られていた命が戻れば目覚める。だが、ジゼルは今のファジールを受け入れるのだろうか。散々苦しめ、悩んでいることも判っていて放置していた。
レイチェルが最後の言葉だと言って伝えてきた言葉と、ジゼルが黒の長に伝えて欲しいと頼んでいた言葉が重なる。
「僕は何時だって自由だったんだ」
生命活動を停止させているジゼルに向かって呟いた。聞いている筈のない彼女に思わず漏らした。
自由でなかったのは逆にジゼルの方だった筈だ。確かに好きなことが出来るようにはなっただろう。何時も誰かに監視されるような生活ではなくなったのは事実だ。
だが、命を助けるために繋がってしまった血の絆で縛り付けってしまったのはファジールだったのかもしれない。
月華であったことより正直に驚いたのは名前だったのだ。あのとき、息が止まるほどの衝撃を受けた。
ファジールは考えた挙げ句、胸の薔薇に手を伸ばした。指先に触れた薔薇は無機質で、とても植物だとは思えなかった。
薔薇の茎に触れ、そのまま引き抜く。薔薇は小さく震え、ジゼルの上で砕け散った。光の粒子となり、躯に吸い込まれていく。
ファジールはジゼルの髪に触れた。少し波打つ黒髪はあのときより長くなり、だが、質感は変わっていない。
息を吸い込む音が聞こえてくる。咽せるように咳き込んだ。ファジールは慌てて抱き起こすと背中をさする。
強張った躯は直ぐには機能しない。何度か見たことがあるので知っていた。意識がはっきりしないのか仕切りに頭を振っている。
「大丈夫か」
いきなり耳元に届いた声に、ジゼルの動きが止まった。今、居る筈のない者の声だったからだ。黒の長に問われ、有り得ないと答えなかった。
躯を支えている者の顔を見る。
「……どうして……」
疑問が生まれた。自分は疎まれている筈なのに、何故、此処にいるのか。混乱し、どうしていいのか判らなかった。
「……私は」
ジゼルの顔が歪んだ。自由にするつもりで来たのに、また、迷惑をかけてしまったのだと思い込んだ。
浅はかな考えで、そこまで考えた後、涙が溢れてきた。情けなくて、何処かに消えてしまいたくなった。
「聞いた。だから、迎えに来た」
ファジールは何故悩んでいたのか、不思議な気持ちになった。アジルに大切すぎてどうしていいのか判らないんじゃないかと言われ、間違っていないことに気が付いた。
だから、言わなければいけなかった。
「僕の過去を聞いたんだろう」
いきなり聞かれジゼルは素直に頷いた。
「何故、避けていたか判らないだろう」
更に頷く。
「君の名前だ」
ファジールにそう言われ、ジゼルは目を見開いた。
「彼女の名前はジゼルだったんだ」
息が止まるほどの衝撃を受けた。ジゼルは自然と体が震えた。偶然にしては出来すぎている。
「姿は全く違うのに、君を見る度、思い出してしまうんじゃないかと怖かったんだ」
ジゼルは小さく息を飲む。好きだった娘と同じ名前。
本当に泣きたくなった。
「それは君のせいじゃないのに、会う度に辛くなった」
過去に味わった出来事が全ての始まりだった。浅はかな若い頃の過ちだ。よく考えずに行動した結果が生んだ事件だったのだ。
「僕は彼等を捜さなかったよ。あの頃、見つけ出していたとしたら、八つ裂きにしていただろう」
後先考えずに突っ走り、もっと、酷い結果になったかもしれない。
「……でも、貴方のせいじゃないわ……」
ジゼルは言った後、思い切り咳き込んだ。
躯の機能を停止させる。それはかなりの負担を躯に強いる行為だ。余程でない限り目覚めさせることはない。
眠りについて本人が目覚めを望む状況になったとき、一族の者が薔薇を引き抜く。ジゼルのように眠りにつき直ぐ目覚めさせる例は一度もなかった。
「話さない方がいい」
ジゼルは泣きそうな顔をファジールに向けた。
「君が気にする必要はないし、気に病む必要もない。これは終わったことだ」
しかし、ジゼルは首を横に振った。黒の長は言ったのだ。
「……子供がいるってっ……」
百年前ならまだ子供だ。その子まで忘れてしまったのだろうか。女児なら吸血族の中では大切にされる筈だ。
「……気になるか」
ジゼルは強く頷いた。お節介なのかもしれない。ファジールにとって関わって欲しくないことなのかもしれない。
それでも、知っておきたかった。目覚めるつもりがなかったのに目覚めてしまった。おそらく、黒の長はもう認めてはくれない。ならば、気になることは知っておきたかった。
知らずに心に溜め込みたくなかった。
「あの子は子供が授からなかった夫婦の元に預けられた」
子供が産まれてすぐ、娘は半狂乱になった。自分の中から誕生した命は、愛した者の子ではない。ましてや、知らされた事実は娘の精神を蝕んでいた。
人の世では吸血族は吸血鬼として恐れられていた。実際に吸血行為をしていたのは随分過去で、その当時は禁止されていた行為だ。
だが、人間は過去を教訓とし子孫に伝え続ける。それは吸血族とて同じだ。そのため、娘には生まれた子は死産であると告げ、記憶を封じた。
「長は僕と生まれた子の接触を禁止した。だから、預けられた後、どうなっているのか実際は知らない」
ファジールは淡々と語った。禁止した理由も何となくだが理解出来た。愛した者が産み落とした命だ。ファジールがのめり込むことを危惧したからに違いなかった。
だからこそ、誰に託したのか実際には知らなかった。
「納得したか」
ジゼルは少し考え、渋々頷いた。おそらく、ファジールは本当に知らないのだ。ならば、訊く者を間違えているとジゼルは判断した。
「……何故、来たの……」
声が上手く出せない。乾いた声は聞き取るのが困難なほどだったが、ファジールは聴覚の魔力を解放していた。そのせいか、鮮明に聞き取ることが可能だった。
「避けていたのは嫌っていたからじゃない。失うつもりは更々無いからな」
素っ気ない言葉だが、黒の長からファジールの過去を聞いたジゼルには、それが精一杯の言葉なのだと納得出来た。
しかし、ファジールの心が見えない。見えなければ不安が募るばかりで、また、考えてはいけないことを考えてしまいそうだった。
「……それじゃあ……判らないの……」
涙を浮かべジゼルは訴えた。上辺の言葉が欲しい訳じゃない。ファジールの中のジゼルに対する真実が欲しかった。
「……嫌いなの……それとも……疎ましいの……」
ジゼルの問いにファジールは目を見開いた。レイチェルと黒の長の言葉が蘇る。
ファジールに対してジゼルは負い目を感じていた。言いたいことが言えず、全てを飲み込むしかなかった。
愛の言葉を口にしたくても、口にしてはいけないのだと噤むしかなかった。
ファジールはただ、抱き締めた。言葉で言い繕うことは簡単だが、ジゼルが求めているものはそれじゃない。
「ごめん」
耳元でそれだけ言うのが精一杯だった。言いたいことは確かにあった。しかし、その言葉は本当に真実を伝えてくれるのだろうか。
ジゼルはただ抱き締めてきたファジールに泣きたくなった。言葉が欲しかったわけではない。ましてや、ファジールの過去は壮絶すぎた。
あんな過去は話したくなかったに違いない。それでも話してくれた。だが、不安だった。
不安すぎて訊かずにはいられなかった。
「帰ろう」
ファジールは短く言った。何時までも此処にはいられない。この場所は眠りにつく場所だ。静寂を乱すのは眠りにある者の妨げにしかならない。
ジゼルは少し躊躇い、ファジールに抱き付いた。そして、頷いた。だだ、これだけは伝えたかった。
「……一つだけ、我が儘を言わせて…… 」
ファジールは頷いた。ジゼルは結婚してから何時も何かを言いた気だった。それを飲み込んでいたことも知っていた。
「……好きなの……好きでいることは許して欲しいの……」
ファジールは抱き締めていた腕に力を込めた。それは我が儘ではない。何時でもどんなときでも、気持ちは心は自由だ。
許しを乞わなくてはいけないのはファジールの方だ。ジゼルはきちんと現実と向き合っている。現実を見ず、ただ過去に捕らわれ向き合っていなかったのはファジール自身だ。
「ありがとう」
ファジールはただ、一言本心を言った。感謝以外の言葉は見つからなかった。全てはこれから始まるのだ。
ジゼルはその言葉を聞き終わる前にファジールに力無くもたれ掛かった。眠りの封印が解けた躯は限界に達していたようだった。
「おやすみ、ジゼル」
ファジールは小さく呟いた。規則正しい寝息がこれほど安心出来るものなのだと初めて知った。ジゼルを抱き抱え地下廟を見渡した。
ファジールの一族は数的に少ない。それは、結婚に対して消極的だからだ。ある意味、ファジールは一族の中で最も早く結婚したことになる。両親の年の差を考え、ファジールは苦笑した。
ジゼルは親子ほど年の離れた婚約者を嫌っていた。だが、ファジールの両親の年の差を聞いたら吃驚する筈だ。何時か話すときが来るかもしれない。
二人で普通に笑い、幸せだと感じることが出来るときに。そして、この場所に来るときは二人で眠りにつくときだ。そのときまで、来たいとは思わなかった。
黒薔薇の部族の地下廟の扉を静かに閉め、地上を目指した。 深く、暗い、静寂が支配する地下廟は ただ静かに存在していた。
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※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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