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11 奇跡みたいなこと
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「オメガの抑制剤?」
今日の担当である老医師に、冗談で言っているわけではないと、佐倉は真剣な顔でそうですと言った。
「抑制剤と言ってもねぇ……、君には必要ないと思うけど。血液検査も問題ないし、数値も全く変化はない。君にとってオメガ性は飾りみたいなものだよ」
「でっ、でも! ヒートを起こしたんです! オメガみたいな……アルファ相手に、理性を失ってて……」
佐倉はバース定期健診の時期を少し早めて、朝一番に予約を取り、病院の診察に訪れていた。
名前を呼ばれた佐倉は、診察室で椅子に座るなり抑制剤をくださいと医師に詰め寄った。
「抑制剤は保険がききますよね? 確か、治験者は二割負担……だったかな。とりあえず、一ヶ月分で様子をみて……」
「佐倉さん、落ち着いて。混乱する気持ちは分かるけど、数値から判断してもやはり君はアルファだよ。オメガ用の抑制剤を飲んでも、効果はない」
佐倉は言われた通り混乱していた。
考えに考え抜いてきたことを、医師にバッサリと否定されてしまった。
訳が分からず頭の中は迷子になってしまい、力が抜けて椅子に座り込んだ。
週末、梶に呼び出された佐倉は、外で待ち合わせた。
準備万端の顔で、梶は服屋から美容室までスマートに連れて行ってくれた。
そこはよかったのだが、問題はその後だった。
梶が予約していた飲み屋は、全室が個室になっていて、食事処と休憩所も兼ね揃えているというお金持ちの遊び場のようなところだった。
最初はのんびり食事をして飲んでいたのだが、そのうちにお互いの性の深い話が始まって、梶に匂うと言われてしまった。
そして梶のアルファのフェロモンを浴びた佐倉は、オメガがヒートを起こしたような状態になって、洗面所に逃げ込んだが、そこに今度は佐倉のフェロモンにあてられたと言って梶が来てしまった。
発情している状態の二人が肌を合わせれば、もう止められなかった。お互い理性を失って貪り合うようにセックスしてしまった。
佐倉は梶を求めることしか頭になくなってしまった。自分のものとは思えないくらい、艶かしい声を上げて、欲しい欲しいと強請って梶を放さなかった。
忘れてしまったならまだ救いがあるが、悲しいことに、その時の記憶もバッチリと佐倉の頭に残っていた。
行為中に気を失い、目が覚めた時、佐倉は続きの部屋に寝ていた。
梶は横に座っていて、佐倉が気がついたら平身低頭で謝ってきた。
佐倉はなんとも言えない気持ちと気まずさに押しつぶされそうだったが、混乱しつつも自分も理性を失って求めてしまったので、梶を責めることはできなかった。
そう、これは事故だ。
お互い複雑なバース性であったために起こった事故である。
誰の責任でもない。
自分も受け入れたし、これは事故みたいなものだから、お互い忘れようと言って佐倉は梶の肩を叩いた。
だから二度とこんなことが起きないようにしなくてはいけない。
体がオメガに変わってしまったなら、薬を飲まなくてはいけないと、週明けに病院の予約を入れて、仕事の休みも取った。
万全の体制で、佐倉さん大変ですよと言われる準備をしていたのに、返ってきたいつもと同じ言葉に、佐倉は愕然としてしまった。
「じゃあ……あれは……」
当てが外れてしまい、頭が真っ白になっている佐倉に老医師は優しく話しかけてきた。
「そのお相手のアルファさんは、もしかしたら、アルファの中でも強い性を持っているんじゃないかな」
「……そうだと思います。本人も、発情をコントロールできるって言っていました」
「おー、そりゃ相当だ。私が診てきた中でも、数えるほどしかいないな。強いアルファ性の中でも階級があって、その最高位のアルファは、ベータやアルファをフェロモンによって、一時的にオメガに変えることができるんだ。オメガのように催淫フェロモンを出すわけじゃないが、それ以外はオメガのヒートと同じになる。つまり、君は擬似ヒートを起こした可能性がある」
「擬似ヒートですか!?」
聞いたこともない言葉に佐倉は驚いて椅子をガタッと鳴らした。
老医師は佐倉に向かって優しく笑って話を続けた。
「あくまでも仮説だよ。バース性ってもんは、例外が多くて困ったもんなんだ。一時的であれば、治れば元に戻るから気にすることはない。検査しても変わらないのはそのためだろう」
老医師の柔らかい笑顔に、混乱していた佐倉の心もようやく落ち着いてきた。
そういう事情なら仕方がないと納得してしまった。
「ということは、梶……あの、相手のアルファは、故意に私を陥れたと……」
「まあ、仮説ならその可能性もある。強いアルファ性の人間は、一般人の思考とは違う、独自の考え方で生きている者が多い。一番いいのは関わらないことだ。嫌な記憶は忘れた方がいい」
医師の言葉に、佐倉は頷きそうになってピタリと止めた。
梶との行為に羞恥心と、気まずさはあるが、嫌悪感や傷ついたような気持ちはなかった。
むしろ我を忘れてしまうくらい、満たされたような気持ちになったのだ。
それに、必死に謝ってきた梶の態度からしても、気まぐれにアルファをオメガにして遊んでやったというようには見えなかった。
「あの……仰っていただいたことは分かりましたけど……私から匂いがするって言われたんです。それで、オメガに変わってしまったと思い込んで……」
「うーん、測定値はアルファのフェロモンだけだね。オメガのフェロモンはゼロ判定」
検査結果が表示されている画面を見ながら、医師は気のせいじゃないかと言ってきた。
酒を飲んでいたし、気分が高揚してよく分からないことを口走った。
そういう可能性も考えられると。
「ただ、混合型や完璧なアルファについては、まだまだ未知の分野だからね。例外もあることを考えておいて。例えば、運命の番のように奇跡みたいなものだよ。特定の相手にだけは、反応してしまうとか」
その言葉を出されたら、佐倉の心臓は大きく揺れてから、氷のように冷たくなってしまった。
ショックを受けて固まっている佐倉を見た医師は、納得できなくて黙っているのだと考えたらしい。
佐倉と視線を合わせて、諭すように優しく話しかけてきた。
「ある研究で、オメガの作家が出版した本から、フェロモンを感じ取ったアルファがいると聞いたことがある。物にフェロモンが移るのか、これをテーマにしている研究者もいるくらいだ。つまり、惹かれ合った者同士なら、現段階の研究なんて覆すほどの、奇跡みたいなことが起きるかもしれない。……いや、医者の私がこんなことを言ってはいけないんだけどね」
また何かあれば相談してほしいと言われて診察は終わった。
病院から外へ出ると強い風が吹いてきて、佐倉のコートを前を合わせて目をつぶった。
病院前のバスロータリーで、駅に向かうバスを待ちながら、佐倉は下を向いて胸に手を当てていた。
奇跡みたいなこと。
運命の番。
久々に耳にした言葉に、佐倉は自分の状況を忘れて心が凍りついたように冷たくなっているのを感じていた。
その時、近くに止まったタクシーから、慌てた様子で人が降りて病院に飛び込んで行くのが見えた。
過去の自分を思い出した佐倉は、もっと胸が痛くなって手を力を入れた。
自分は何をやっているんだろうと、下を向いたまま頭を振った。
かつて、佐倉もあんな風にタクシーから飛び出して、病院に駆け込んだことがある。
五年経っても、自分の犯した過ちの大きさに、足が震えて倒れそうになりながら走ったのを、ついさっきの出来事のように覚えている。
きっとどこかで彼は今でも自分を恨んでいるだろう。
こんな自分が幸せになってはいけない。
もっと頭を下げたら、履いている靴が目に入った。
何も考えずに、梶が買ってくれたお洒落な革靴を履いてきてしまった。
「夕貴……ごめん」
目を閉じると、今でも五年前の姿の夕貴が振り返って微笑んでくれる。
幻影に向かって、もう何度繰り返したか分からない謝罪の言葉を口にするが、夕貴は微笑んだままだった。
怒った顔をして詰ってほしい。
お前だけ、幸せになるなんて許さないと。
だけど怒った顔なんて見たことがなかった。
笑っている顔、困った顔、泣いている顔しか知らない。
だから想像することもできない。
到着したバスに人が乗り込んで、ドアが閉まる音が聞こえたが、佐倉は下を向いたまま動けなかった。
□□□
今日の担当である老医師に、冗談で言っているわけではないと、佐倉は真剣な顔でそうですと言った。
「抑制剤と言ってもねぇ……、君には必要ないと思うけど。血液検査も問題ないし、数値も全く変化はない。君にとってオメガ性は飾りみたいなものだよ」
「でっ、でも! ヒートを起こしたんです! オメガみたいな……アルファ相手に、理性を失ってて……」
佐倉はバース定期健診の時期を少し早めて、朝一番に予約を取り、病院の診察に訪れていた。
名前を呼ばれた佐倉は、診察室で椅子に座るなり抑制剤をくださいと医師に詰め寄った。
「抑制剤は保険がききますよね? 確か、治験者は二割負担……だったかな。とりあえず、一ヶ月分で様子をみて……」
「佐倉さん、落ち着いて。混乱する気持ちは分かるけど、数値から判断してもやはり君はアルファだよ。オメガ用の抑制剤を飲んでも、効果はない」
佐倉は言われた通り混乱していた。
考えに考え抜いてきたことを、医師にバッサリと否定されてしまった。
訳が分からず頭の中は迷子になってしまい、力が抜けて椅子に座り込んだ。
週末、梶に呼び出された佐倉は、外で待ち合わせた。
準備万端の顔で、梶は服屋から美容室までスマートに連れて行ってくれた。
そこはよかったのだが、問題はその後だった。
梶が予約していた飲み屋は、全室が個室になっていて、食事処と休憩所も兼ね揃えているというお金持ちの遊び場のようなところだった。
最初はのんびり食事をして飲んでいたのだが、そのうちにお互いの性の深い話が始まって、梶に匂うと言われてしまった。
そして梶のアルファのフェロモンを浴びた佐倉は、オメガがヒートを起こしたような状態になって、洗面所に逃げ込んだが、そこに今度は佐倉のフェロモンにあてられたと言って梶が来てしまった。
発情している状態の二人が肌を合わせれば、もう止められなかった。お互い理性を失って貪り合うようにセックスしてしまった。
佐倉は梶を求めることしか頭になくなってしまった。自分のものとは思えないくらい、艶かしい声を上げて、欲しい欲しいと強請って梶を放さなかった。
忘れてしまったならまだ救いがあるが、悲しいことに、その時の記憶もバッチリと佐倉の頭に残っていた。
行為中に気を失い、目が覚めた時、佐倉は続きの部屋に寝ていた。
梶は横に座っていて、佐倉が気がついたら平身低頭で謝ってきた。
佐倉はなんとも言えない気持ちと気まずさに押しつぶされそうだったが、混乱しつつも自分も理性を失って求めてしまったので、梶を責めることはできなかった。
そう、これは事故だ。
お互い複雑なバース性であったために起こった事故である。
誰の責任でもない。
自分も受け入れたし、これは事故みたいなものだから、お互い忘れようと言って佐倉は梶の肩を叩いた。
だから二度とこんなことが起きないようにしなくてはいけない。
体がオメガに変わってしまったなら、薬を飲まなくてはいけないと、週明けに病院の予約を入れて、仕事の休みも取った。
万全の体制で、佐倉さん大変ですよと言われる準備をしていたのに、返ってきたいつもと同じ言葉に、佐倉は愕然としてしまった。
「じゃあ……あれは……」
当てが外れてしまい、頭が真っ白になっている佐倉に老医師は優しく話しかけてきた。
「そのお相手のアルファさんは、もしかしたら、アルファの中でも強い性を持っているんじゃないかな」
「……そうだと思います。本人も、発情をコントロールできるって言っていました」
「おー、そりゃ相当だ。私が診てきた中でも、数えるほどしかいないな。強いアルファ性の中でも階級があって、その最高位のアルファは、ベータやアルファをフェロモンによって、一時的にオメガに変えることができるんだ。オメガのように催淫フェロモンを出すわけじゃないが、それ以外はオメガのヒートと同じになる。つまり、君は擬似ヒートを起こした可能性がある」
「擬似ヒートですか!?」
聞いたこともない言葉に佐倉は驚いて椅子をガタッと鳴らした。
老医師は佐倉に向かって優しく笑って話を続けた。
「あくまでも仮説だよ。バース性ってもんは、例外が多くて困ったもんなんだ。一時的であれば、治れば元に戻るから気にすることはない。検査しても変わらないのはそのためだろう」
老医師の柔らかい笑顔に、混乱していた佐倉の心もようやく落ち着いてきた。
そういう事情なら仕方がないと納得してしまった。
「ということは、梶……あの、相手のアルファは、故意に私を陥れたと……」
「まあ、仮説ならその可能性もある。強いアルファ性の人間は、一般人の思考とは違う、独自の考え方で生きている者が多い。一番いいのは関わらないことだ。嫌な記憶は忘れた方がいい」
医師の言葉に、佐倉は頷きそうになってピタリと止めた。
梶との行為に羞恥心と、気まずさはあるが、嫌悪感や傷ついたような気持ちはなかった。
むしろ我を忘れてしまうくらい、満たされたような気持ちになったのだ。
それに、必死に謝ってきた梶の態度からしても、気まぐれにアルファをオメガにして遊んでやったというようには見えなかった。
「あの……仰っていただいたことは分かりましたけど……私から匂いがするって言われたんです。それで、オメガに変わってしまったと思い込んで……」
「うーん、測定値はアルファのフェロモンだけだね。オメガのフェロモンはゼロ判定」
検査結果が表示されている画面を見ながら、医師は気のせいじゃないかと言ってきた。
酒を飲んでいたし、気分が高揚してよく分からないことを口走った。
そういう可能性も考えられると。
「ただ、混合型や完璧なアルファについては、まだまだ未知の分野だからね。例外もあることを考えておいて。例えば、運命の番のように奇跡みたいなものだよ。特定の相手にだけは、反応してしまうとか」
その言葉を出されたら、佐倉の心臓は大きく揺れてから、氷のように冷たくなってしまった。
ショックを受けて固まっている佐倉を見た医師は、納得できなくて黙っているのだと考えたらしい。
佐倉と視線を合わせて、諭すように優しく話しかけてきた。
「ある研究で、オメガの作家が出版した本から、フェロモンを感じ取ったアルファがいると聞いたことがある。物にフェロモンが移るのか、これをテーマにしている研究者もいるくらいだ。つまり、惹かれ合った者同士なら、現段階の研究なんて覆すほどの、奇跡みたいなことが起きるかもしれない。……いや、医者の私がこんなことを言ってはいけないんだけどね」
また何かあれば相談してほしいと言われて診察は終わった。
病院から外へ出ると強い風が吹いてきて、佐倉のコートを前を合わせて目をつぶった。
病院前のバスロータリーで、駅に向かうバスを待ちながら、佐倉は下を向いて胸に手を当てていた。
奇跡みたいなこと。
運命の番。
久々に耳にした言葉に、佐倉は自分の状況を忘れて心が凍りついたように冷たくなっているのを感じていた。
その時、近くに止まったタクシーから、慌てた様子で人が降りて病院に飛び込んで行くのが見えた。
過去の自分を思い出した佐倉は、もっと胸が痛くなって手を力を入れた。
自分は何をやっているんだろうと、下を向いたまま頭を振った。
かつて、佐倉もあんな風にタクシーから飛び出して、病院に駆け込んだことがある。
五年経っても、自分の犯した過ちの大きさに、足が震えて倒れそうになりながら走ったのを、ついさっきの出来事のように覚えている。
きっとどこかで彼は今でも自分を恨んでいるだろう。
こんな自分が幸せになってはいけない。
もっと頭を下げたら、履いている靴が目に入った。
何も考えずに、梶が買ってくれたお洒落な革靴を履いてきてしまった。
「夕貴……ごめん」
目を閉じると、今でも五年前の姿の夕貴が振り返って微笑んでくれる。
幻影に向かって、もう何度繰り返したか分からない謝罪の言葉を口にするが、夕貴は微笑んだままだった。
怒った顔をして詰ってほしい。
お前だけ、幸せになるなんて許さないと。
だけど怒った顔なんて見たことがなかった。
笑っている顔、困った顔、泣いている顔しか知らない。
だから想像することもできない。
到着したバスに人が乗り込んで、ドアが閉まる音が聞こえたが、佐倉は下を向いたまま動けなかった。
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