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本編
⑰ 言葉の続きを教えて
冷たい水で顔を洗うと、昨夜の酔いものぼせていた気持ちも流れていき、頭がクリアになる。
自室の窓を開け、流れ込んできた新鮮な空気を胸が膨らむくらい吸い込み深呼吸をする。
窓辺に立って朝日を浴びたカガミは、幸せな時間を思い出し、顔を綻ばせた。
夢のような時間だった。いや、夢だったのかもしれない。
だって、アレクサンドルと飲んで、ベッドで添い寝したなんて、夢の中の出来事としか考えられない。
朝、目を覚ましたカガミは、まだ寝ていたアレクサンドルの腕から何とか抜け出し、自分の部屋に戻った。間近で見てしまった彼の顔を思い出し、また頬が熱くなるのを感じる。
お腹に何か入れて落ち着こうと思い、食堂へ向かうことにした。
手でパタパタ顔を扇ぎながら廊下を歩いていると、アレクサンドルが部屋から出てきた。
「あ……」
昨夜の酒で乱れた様子は微塵もなく、いつものシュッとした彼が出来上がっていた。目が合うとお互い顔が赤くなり、ひゅうと息を吸い込んでしまう。
「お、おはようございます」
「おお、おは、おはよう」
「あの……昨夜のことですが……」
「すまない! カガミ、迷惑をかけた!」
覚えているかと聞こうとしたが、アレクサンドルの方が食い気味に謝ってきた。
「そんなっ、迷惑だなんて……。お酒を飲めば酔いますし、むしろ私にはごほ、……ゴホッっ……」
「信じられないかもしれないが、酒に酔ったのは初めてで、全部覚えてはいるが……自分があんな風になるとは……」
かなり飲んでいたとは思う。でも自分の前で初めて酔ってくれたなんて、これは嬉しすぎるサプライズだ。
「私は全然大丈夫です。一緒に寝てしまって、こちらこそ迷惑をおかけしたんじゃないかと……」
「いや、それはない。いつも眠りは浅くて何度も起きるが、初めて朝までぐっすり眠れた。最高の寝心地だった」
「それは良かったです。お疲れが取れるなら、いつでも呼んでください。私でよければ、安眠枕代わりになりますよ」
推しに最高の寝心地とまで言われたら、嬉しくてふわふわした気分になる。いつでも使ってくれと、軽く冗談のつもりで言ってみると、アレクサンドルはムッとした顔をしていた。
「……カガミ。安眠枕だなんて……お前はそんなことを誰にでも言っているのか?」
「まさか、アレクサンドル様だけです」
「俺……だけ……?」
変な冗談で怒らせてしまったかと思ったが、カガミの答えを聞いたアレクサンドルは、頬が赤くなり、全身から嬉しそうなオーラが溢れ出す。
「はい……」
喜んでくれたのは良かったが、どうもそれだけではなく、何だかおかしな雰囲気になった。カガミもつられて顔が熱くなり、視線が合ったまま外らせなくなる。
何か言わなければ、そう思った時、横からあのーという声が聞こえてきた。大きな箒を持ったハンナが、頬を膨らませて二人を見ている。
「お二人とも、そろそろ動いてくれませんか? 廊下の掃除ができませんー」
「っっ、すまない」
「ハンナ、ごめんっ」
二人とも同じ動きで後ろに下がり、真ん中にぽっかりとスペースが空く。そこをハンナが手際よく箒をかけながら通り抜けた。
「そういえば、お二人とも今日は遅いですね」
「休みだ」
「休みだよ」
また声が綺麗に揃ってしまった。
おかしそうに笑ったハンナに仲が良いですねと言われてしまう。
「あ、それなら。天気も良いですし、二人でデートしてきたらいいんじゃないですか?」
「でっ!! デートなんて、ハンナっ、そんなことを!!」
今度もまた声が揃うかと思ったのに、慌てて否定しようとしたのはカガミだけだ。
アレクサンドルの方は、腕を組んで難しそうな顔になっている。
「そういえば、二人で出掛けたことはないな」
「へ? そ、そうですけど……」
「よし、行くか」
アレクサンドルまでハンナに乗せられて、ありえないことを口にする。カガミは目を瞬かせ、期待に膨らむ胸を手で押さえた。
「カガミ、町の外へ出たことは?」
「ない……です」
「晴れているならちょうどいい。行ってみるか?」
長い廊下を暖かい風が吹き抜けていく。
夢みたいだ。
嬉しいことがいっぱい吹いてきて、世界の色を変えていく。
「はい!」
カガミの大きな返事が廊下に響いた。
異世界に転移してから三年。
町の外には勝手に出ないように言われている。
なぜかといえば危険だからだ。魔物が出ることもあれば、盗賊などに襲われる危険もある。
町の人が外へ出る時は、個人で護衛を雇うか、大人数で移動することがほとんどだ。商団には専属の護衛がおり、派遣するかたちで移動が行われる。
王国の兵士や、騎士団に属する者は例外とされ、その同行者もそれに含まれる。カガミはアレクサンドルの同行者として許可をもらい、外へと通じる大門を抜けた。
「この先の山を越え、ずっと進んでいくと砂漠がある。年中砂嵐があってまともに歩けないから、こちらのルートを通る者はいない。港のある町に行き船に乗るのが最短だな」
カガミは馬上から目を細め、遠くの景色を見つめる。広大な大地と、その向こうに山々が広がっている。はるか遠くにどんな町があり、どんな人が住んでいるのか、全く想像できない。
「この近くにオビという小さな町があるが、こいつで飛ばしても三日はかかるな」
「三日も……遠いですね」
カガミのいる場所は、ラブマジック王国の首都だ。お店や学校、病院に教会、ここにいて一生困らないだけの施設があり、たくさんの人が住んでいる。
しかし当たり前だが、ここは大陸の一部で、この先には大きな世界が広がっている。
「どうだ? こちらの世界をちゃんと見ていないと言っていたから、この景色を見せたかった」
頭の上から聞こえる声の主はアレクサンドル。カガミはアレクサンドルと同じ馬に乗り、彼の前に座っている。こちらの世界の馬はかなり大きくて力が強いので、屈強な男二人が乗ってもビクともしない。
馬に乗れないカガミは、アレクサンドルに一緒に乗るぞと言われ、最初は躊躇ったが、相乗りはごく一般的に行われていると聞き、恐る恐るお邪魔することになった。
町を出て少し走り、馬に揺られて連れてこられたのは、周辺が一望できる丘だった。
「……こんなに世界は広いのですね。魔法の王国だけでもびっくりなのに……」
「俺も行ったことはないが、海の向こうには獣人の国がある」
「じゅっ、獣人!?」
「ああ、彼らは獣であり人でもある。独自の文化を築いていて、人との交流が盛んではない。会えたら運がいいと言われている」
まさにファンタジーの世界はどこまでも続くらしい。いつか行ってみたい気もするが、ふと自分はいつまでこの世界にいるのだろうと考える。
カミムラやフジタのように、長く留まることも考えられるが、一方で魔法技術の進歩により、後少しで帰れる可能性があるとも伝えられていた。
「カガミは移動魔法の異世界軸が完成したら、戻るつもりなのか?」
「そ……そう、ですね。自由に選択できると聞きましたが、そのつもりでいました」
馴染んではいるが、この地に根を下ろしたカミムラ以外、長くこちらにいるフジタも、まだ若く、順調に学生として生きていたアズマはもちろん、帰りたいと思っているだろう。
「……自分が生まれ育った国に帰りたいと思うのは当然だな。そうか……帰るのか……」
アレクサンドルは遠くの空を見つめていた。少し寂しげに見えるのはきっと、そうあってほしいと思うからだ。
待ってくれている人などいないが、ただ漠然と帰るのが流れだと思っていた。だが、改めて聞かれるとそれはアレクサンドルとの別れを意味する。
初めてこんなにも仲良くなれた推しで、一緒にいるとドキドキして楽しくて、嬉しい気持ちでいっぱいになる人。
切符が用意されたわけでもないのに、別れを考えただけで苦しくなる。
少しでも、少しでも長く近くにいたい。
だけど、異世界人である自分が、いつまでもアレクサンドルの周りをうろちょろしていたら、彼の華々しい人生の邪魔になってしまう。
この後現れるはずの主人公や、彼が愛し、愛される誰か。人生を変える出会いがあるはずだ。
推しが輝き、幸せになってほしい。
そう願っていた。
唯一の願いだったはずなのに、この胸の痛みはなぜなのか。
アレクサンドルがこの先、悩んだり、苦しんだりした時、隣で励まして支えてあげたい。
じっと見つめていると、遠くを見ていたアレクサンドルと目が合った。
「カガミ……俺は……、俺は君に……」
アレクサンドルの瞳が悲しげに細められる。恐る恐るといった風に動いていた唇が、きゅっと閉じられる。
「……いや、何でもない」
アレクサンドルは何か言おうとして、言葉を飲み込んだように見えた。赤い瞳は思いの先を隠すように閉じられた。
アレクサンドルの手に触れたい。
柔らかな髪に触れ、悲しげな表情を笑顔に変えたい。
言葉が、次々と喉の奥から溢れてくるけれど、その一つも伝えることができない。
自分は仮の婚約者候補だ。
王太子の気まぐれなお遊びを、穏便に回避するための一時的な関係。
そういう約束だったはずだ。
アレクサンドルを困らせたくない。
抱いてはいけない想いは、胸の中に閉まって。
笑うんだ。
いつもみたいに。
大丈夫、大丈夫……。
「あ……あの、もうすぐ、魔法剣術大会ですね! ははっ、楽しみですね」
「……ああ、そうだな」
何とか話題を逸らすことに成功した。この話なら、アレクサンドルの気持ちも上向くはず。そう思って振り返ってみたが、アレクサンドルはもっと暗い顔になっていた。
「え……どうかしましたか? 緊張されているとか……?」
「違うんだ。気が乗らなくてな。特別枠になってしまったから仕方がないが、出場したくはなかった」
「…………………………え?」
今、聞き捨てならない台詞を聞いたのだが、気のせいだろうか。
「あの……? 今まで、出場したくてもできなかったわけでは……?」
「いや、毎年出場選手への打診があったが、断り続けてきた。話しただろう? 家の問題があってこれ以上目立つと後継問題になりかねない。そうすると、本家に残っている母への風当たりが強くなる。父に目をつけられるのも避けたいんだ」
「そ……そ……そう、ですよね。すごくお強いですし、そういった話がないとおかしいですよね。まさか、出世まで断っていたりとかは……?」
「ああ……、トリスタン殿下から話があるが、何度も断っている」
カガミは鼻からヒュゥゥと息を吸い込んだ。
アレクサンドルはシャイな性格くらいに思っていたが、本当に目立つのを嫌っていたようだ。評価されないわけではなく、十分評価されているが、自ら身を引いていたのだ。
みんなが喜ぶから、アレクサンドルも喜ぶだろうと勝手に考え、剣術大会の特別枠に選ばれるように後押ししてきた。しかしそれは彼にとって、避けたかったことで、拒否できない枠に決まり、逆に迷惑だったということだ。
カガミは愕然とする。
推しの幸せを考えてしてきたことが、全て無駄だった。
それどころか、アレクサンドルが時折見せる辛そうな表情。あれは、面倒ごとに巻き込まれ苦しんでいたからだろう。
つまり、元凶は自分だったのだと、カガミは思い知った。
朝からよく晴れていて、雲一つなかったのに、遠くの空からどんよりとした黒い雲が空を這ってくるのが見える。
暗雲が全てを黒く染めていく。
まるで自分の心の中を眺めているようだった。
自室の窓を開け、流れ込んできた新鮮な空気を胸が膨らむくらい吸い込み深呼吸をする。
窓辺に立って朝日を浴びたカガミは、幸せな時間を思い出し、顔を綻ばせた。
夢のような時間だった。いや、夢だったのかもしれない。
だって、アレクサンドルと飲んで、ベッドで添い寝したなんて、夢の中の出来事としか考えられない。
朝、目を覚ましたカガミは、まだ寝ていたアレクサンドルの腕から何とか抜け出し、自分の部屋に戻った。間近で見てしまった彼の顔を思い出し、また頬が熱くなるのを感じる。
お腹に何か入れて落ち着こうと思い、食堂へ向かうことにした。
手でパタパタ顔を扇ぎながら廊下を歩いていると、アレクサンドルが部屋から出てきた。
「あ……」
昨夜の酒で乱れた様子は微塵もなく、いつものシュッとした彼が出来上がっていた。目が合うとお互い顔が赤くなり、ひゅうと息を吸い込んでしまう。
「お、おはようございます」
「おお、おは、おはよう」
「あの……昨夜のことですが……」
「すまない! カガミ、迷惑をかけた!」
覚えているかと聞こうとしたが、アレクサンドルの方が食い気味に謝ってきた。
「そんなっ、迷惑だなんて……。お酒を飲めば酔いますし、むしろ私にはごほ、……ゴホッっ……」
「信じられないかもしれないが、酒に酔ったのは初めてで、全部覚えてはいるが……自分があんな風になるとは……」
かなり飲んでいたとは思う。でも自分の前で初めて酔ってくれたなんて、これは嬉しすぎるサプライズだ。
「私は全然大丈夫です。一緒に寝てしまって、こちらこそ迷惑をおかけしたんじゃないかと……」
「いや、それはない。いつも眠りは浅くて何度も起きるが、初めて朝までぐっすり眠れた。最高の寝心地だった」
「それは良かったです。お疲れが取れるなら、いつでも呼んでください。私でよければ、安眠枕代わりになりますよ」
推しに最高の寝心地とまで言われたら、嬉しくてふわふわした気分になる。いつでも使ってくれと、軽く冗談のつもりで言ってみると、アレクサンドルはムッとした顔をしていた。
「……カガミ。安眠枕だなんて……お前はそんなことを誰にでも言っているのか?」
「まさか、アレクサンドル様だけです」
「俺……だけ……?」
変な冗談で怒らせてしまったかと思ったが、カガミの答えを聞いたアレクサンドルは、頬が赤くなり、全身から嬉しそうなオーラが溢れ出す。
「はい……」
喜んでくれたのは良かったが、どうもそれだけではなく、何だかおかしな雰囲気になった。カガミもつられて顔が熱くなり、視線が合ったまま外らせなくなる。
何か言わなければ、そう思った時、横からあのーという声が聞こえてきた。大きな箒を持ったハンナが、頬を膨らませて二人を見ている。
「お二人とも、そろそろ動いてくれませんか? 廊下の掃除ができませんー」
「っっ、すまない」
「ハンナ、ごめんっ」
二人とも同じ動きで後ろに下がり、真ん中にぽっかりとスペースが空く。そこをハンナが手際よく箒をかけながら通り抜けた。
「そういえば、お二人とも今日は遅いですね」
「休みだ」
「休みだよ」
また声が綺麗に揃ってしまった。
おかしそうに笑ったハンナに仲が良いですねと言われてしまう。
「あ、それなら。天気も良いですし、二人でデートしてきたらいいんじゃないですか?」
「でっ!! デートなんて、ハンナっ、そんなことを!!」
今度もまた声が揃うかと思ったのに、慌てて否定しようとしたのはカガミだけだ。
アレクサンドルの方は、腕を組んで難しそうな顔になっている。
「そういえば、二人で出掛けたことはないな」
「へ? そ、そうですけど……」
「よし、行くか」
アレクサンドルまでハンナに乗せられて、ありえないことを口にする。カガミは目を瞬かせ、期待に膨らむ胸を手で押さえた。
「カガミ、町の外へ出たことは?」
「ない……です」
「晴れているならちょうどいい。行ってみるか?」
長い廊下を暖かい風が吹き抜けていく。
夢みたいだ。
嬉しいことがいっぱい吹いてきて、世界の色を変えていく。
「はい!」
カガミの大きな返事が廊下に響いた。
異世界に転移してから三年。
町の外には勝手に出ないように言われている。
なぜかといえば危険だからだ。魔物が出ることもあれば、盗賊などに襲われる危険もある。
町の人が外へ出る時は、個人で護衛を雇うか、大人数で移動することがほとんどだ。商団には専属の護衛がおり、派遣するかたちで移動が行われる。
王国の兵士や、騎士団に属する者は例外とされ、その同行者もそれに含まれる。カガミはアレクサンドルの同行者として許可をもらい、外へと通じる大門を抜けた。
「この先の山を越え、ずっと進んでいくと砂漠がある。年中砂嵐があってまともに歩けないから、こちらのルートを通る者はいない。港のある町に行き船に乗るのが最短だな」
カガミは馬上から目を細め、遠くの景色を見つめる。広大な大地と、その向こうに山々が広がっている。はるか遠くにどんな町があり、どんな人が住んでいるのか、全く想像できない。
「この近くにオビという小さな町があるが、こいつで飛ばしても三日はかかるな」
「三日も……遠いですね」
カガミのいる場所は、ラブマジック王国の首都だ。お店や学校、病院に教会、ここにいて一生困らないだけの施設があり、たくさんの人が住んでいる。
しかし当たり前だが、ここは大陸の一部で、この先には大きな世界が広がっている。
「どうだ? こちらの世界をちゃんと見ていないと言っていたから、この景色を見せたかった」
頭の上から聞こえる声の主はアレクサンドル。カガミはアレクサンドルと同じ馬に乗り、彼の前に座っている。こちらの世界の馬はかなり大きくて力が強いので、屈強な男二人が乗ってもビクともしない。
馬に乗れないカガミは、アレクサンドルに一緒に乗るぞと言われ、最初は躊躇ったが、相乗りはごく一般的に行われていると聞き、恐る恐るお邪魔することになった。
町を出て少し走り、馬に揺られて連れてこられたのは、周辺が一望できる丘だった。
「……こんなに世界は広いのですね。魔法の王国だけでもびっくりなのに……」
「俺も行ったことはないが、海の向こうには獣人の国がある」
「じゅっ、獣人!?」
「ああ、彼らは獣であり人でもある。独自の文化を築いていて、人との交流が盛んではない。会えたら運がいいと言われている」
まさにファンタジーの世界はどこまでも続くらしい。いつか行ってみたい気もするが、ふと自分はいつまでこの世界にいるのだろうと考える。
カミムラやフジタのように、長く留まることも考えられるが、一方で魔法技術の進歩により、後少しで帰れる可能性があるとも伝えられていた。
「カガミは移動魔法の異世界軸が完成したら、戻るつもりなのか?」
「そ……そう、ですね。自由に選択できると聞きましたが、そのつもりでいました」
馴染んではいるが、この地に根を下ろしたカミムラ以外、長くこちらにいるフジタも、まだ若く、順調に学生として生きていたアズマはもちろん、帰りたいと思っているだろう。
「……自分が生まれ育った国に帰りたいと思うのは当然だな。そうか……帰るのか……」
アレクサンドルは遠くの空を見つめていた。少し寂しげに見えるのはきっと、そうあってほしいと思うからだ。
待ってくれている人などいないが、ただ漠然と帰るのが流れだと思っていた。だが、改めて聞かれるとそれはアレクサンドルとの別れを意味する。
初めてこんなにも仲良くなれた推しで、一緒にいるとドキドキして楽しくて、嬉しい気持ちでいっぱいになる人。
切符が用意されたわけでもないのに、別れを考えただけで苦しくなる。
少しでも、少しでも長く近くにいたい。
だけど、異世界人である自分が、いつまでもアレクサンドルの周りをうろちょろしていたら、彼の華々しい人生の邪魔になってしまう。
この後現れるはずの主人公や、彼が愛し、愛される誰か。人生を変える出会いがあるはずだ。
推しが輝き、幸せになってほしい。
そう願っていた。
唯一の願いだったはずなのに、この胸の痛みはなぜなのか。
アレクサンドルがこの先、悩んだり、苦しんだりした時、隣で励まして支えてあげたい。
じっと見つめていると、遠くを見ていたアレクサンドルと目が合った。
「カガミ……俺は……、俺は君に……」
アレクサンドルの瞳が悲しげに細められる。恐る恐るといった風に動いていた唇が、きゅっと閉じられる。
「……いや、何でもない」
アレクサンドルは何か言おうとして、言葉を飲み込んだように見えた。赤い瞳は思いの先を隠すように閉じられた。
アレクサンドルの手に触れたい。
柔らかな髪に触れ、悲しげな表情を笑顔に変えたい。
言葉が、次々と喉の奥から溢れてくるけれど、その一つも伝えることができない。
自分は仮の婚約者候補だ。
王太子の気まぐれなお遊びを、穏便に回避するための一時的な関係。
そういう約束だったはずだ。
アレクサンドルを困らせたくない。
抱いてはいけない想いは、胸の中に閉まって。
笑うんだ。
いつもみたいに。
大丈夫、大丈夫……。
「あ……あの、もうすぐ、魔法剣術大会ですね! ははっ、楽しみですね」
「……ああ、そうだな」
何とか話題を逸らすことに成功した。この話なら、アレクサンドルの気持ちも上向くはず。そう思って振り返ってみたが、アレクサンドルはもっと暗い顔になっていた。
「え……どうかしましたか? 緊張されているとか……?」
「違うんだ。気が乗らなくてな。特別枠になってしまったから仕方がないが、出場したくはなかった」
「…………………………え?」
今、聞き捨てならない台詞を聞いたのだが、気のせいだろうか。
「あの……? 今まで、出場したくてもできなかったわけでは……?」
「いや、毎年出場選手への打診があったが、断り続けてきた。話しただろう? 家の問題があってこれ以上目立つと後継問題になりかねない。そうすると、本家に残っている母への風当たりが強くなる。父に目をつけられるのも避けたいんだ」
「そ……そ……そう、ですよね。すごくお強いですし、そういった話がないとおかしいですよね。まさか、出世まで断っていたりとかは……?」
「ああ……、トリスタン殿下から話があるが、何度も断っている」
カガミは鼻からヒュゥゥと息を吸い込んだ。
アレクサンドルはシャイな性格くらいに思っていたが、本当に目立つのを嫌っていたようだ。評価されないわけではなく、十分評価されているが、自ら身を引いていたのだ。
みんなが喜ぶから、アレクサンドルも喜ぶだろうと勝手に考え、剣術大会の特別枠に選ばれるように後押ししてきた。しかしそれは彼にとって、避けたかったことで、拒否できない枠に決まり、逆に迷惑だったということだ。
カガミは愕然とする。
推しの幸せを考えてしてきたことが、全て無駄だった。
それどころか、アレクサンドルが時折見せる辛そうな表情。あれは、面倒ごとに巻き込まれ苦しんでいたからだろう。
つまり、元凶は自分だったのだと、カガミは思い知った。
朝からよく晴れていて、雲一つなかったのに、遠くの空からどんよりとした黒い雲が空を這ってくるのが見える。
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