すきま五番地のイブ

深見萩緒

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12月1日 さっしのすきま

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 たくさんの段ボールに囲まれて、さっちゃんは途方に暮れていました。実際には、途方に暮れるというほどは暮れていなかったのですが、要するに、途方に暮れたい気持ちでした。


 段ボールの中には、古い本やら服やら雑貨やらが詰め込まれています。それらは大まかには分類されてはいますが、しかしおおよそ無秩序に、段ボールを満たしています。
 この混沌を何とか処理しようと、さっちゃんは今日のお昼ごろから格闘してはいたのです。けれどなにぶん数が多すぎますし、さっちゃんもさっちゃんで、怠惰やそのほかのあらゆる事情から何度も作業の手を止めましたので、なかなかどうにもならないのでした。


「ああ、もう、やめた」
 さっちゃんは呟いて、手に取っていたノートの束を、床にばさりと投げ出しました。埃がほわっと舞いまして、さっちゃんはくしゃみをひとつ、やりました。
 さっちゃんのお部屋は、いつもならばきちんと片付いていて、埃だって積もっていないのです。けれどこの段ボールたちを受け入れた時から、混沌や埃や黴臭さがさっちゃんの部屋の一角を支配し、それがまた、さっちゃんの気を滅入らせているのです。

 舞い上がった埃を、すきま風がさらっていきます。古いアパートはあちこちガタがきていますが、どうやら今年は窓とさっしの間にすきまが空いてしまったようでした。そのせいで、厳しい冬が容赦なく侵入してきますし、暖房の効きも悪いのです。

 良いことがない。と、さっちゃんは思いました。良いことがない一日を積み重ねていったら、良いことがない一週が出来上がり、良いことがないひと月が完成し、良いことがない一年もどんどん積み上がって、やがて良いことがない人生が完成するんだわ。
 さっちゃんの抱えている問題は、つまり今のところ、古びた段ボール群と窓のさっしのすきまですが、それほど大きな問題ではないのです。少なくともさっちゃんが悲観するほど絶望的ではないのですが、涙ぐんでしまうほどさっちゃんが押し潰されかけているのは、ひとえにさっちゃんの気持ちが、小さく弱くなりすぎているためでしょう。


 もう、今日はやめよう。お風呂に入って、寝てしまおう。さっちゃんはそう思って、時計を見ました。思ったよりも長い時間、進まない片付けと格闘していたようです。ほら、もうすぐ、日付けが変わります。

 お風呂に入る前に、さっき床に放り出したノートの束を拾おうと、さっちゃんは手を伸ばしました。そして、ノートのページの間から、何かが顔を覗かせていることに気が付きました。

 はじめ、それは栞なのだと思いました。それで、わざわざ栞が挟まれているページには、いったい何が書かれているのか、気になったのです。
 ノートごと拾い上げてみますと、それが挟まっていたページは白紙でしたし、そしてそれは、栞にしてはへんな栞でした。

 まず、栞にしては幅が広く、丈が短いのです。さんかけるよん。と、さっちゃんは目測します。それから、栞にしては寂しいデザインをしています。全体が真っ黒で、小さな赤い三角形がひとつだけ、すみっこの方にぽつんと描かれています。それからそれから、栞にしては硬いのです。ガラスか、あるいは鉱石でしょうか。黒くてつやつやしています。光に透かしてみますと、向こう側が薄っすらと透けて見えそうです。
 でもまあ、そういう栞もあるでしょう。そもそも栞というものは、本やノートに挟んで目印にしたあらゆるもののことをいうのです。

 さっちゃんは、その栞を気に入りました。段ボールの片付けをしていて、ようやく良いことがあった、と思いました。
 そこで栞をノートから抜き出して、ローテーブルの上に置きました。その時です。
「わあっ!」
 声と共に、誰かが突然、さっちゃんの目の前に現れたのです。
 あっと驚いて、さっちゃんは床に尻餅をつきました。部屋に入って来た何者かも、同じように、床に引っ繰り返りました。

 しばらく、お互い、転がったままでした。先に起き上がったのはさっちゃんの方で、さっと立ち上がってドアの前へと走りました。泥棒が入ってきたのかと思ったのです。ですけれど、よく考えたら、本当に泥棒でしょうか?
 だって、いったいどこから入って来たというのでしょう。窓もドアも、しっかり閉まっています。それなのにこの侵入者は、本当に突然、姿を現したのです。まるで、電気がぱっとついて、今まで見えなかったものが見えるようになった。そんな突然さでした。それに、泥棒にしては、ちょっと間抜けすぎる声を上げていました。

 さっちゃんは逃げるのをやめて、勇気を出して部屋の中を振り返ります。そして、まだ床に転がったままの、侵入者の姿をはっきりと見ました。
 それは、女の子だったのです。年ごろは、中学生くらいでしょうか。長い髪の毛をふたつ結いにして、くすんだ緑青色の、作業着のようなものを着ています。引っくり返って、まだ目が回っているのか、なかなか起き上がりません。
 さっちゃんが「あのう」と話し掛けますと、女の子は「ううん」と呻きました。

「あのう、大丈夫?」
 恐るおそる近寄って、さっちゃんは女の子の肩に触れました。あまり揺さぶってはいけないかと思い、とんとん、と軽くたたいてみます。そうしますと女の子は、ぱっちりと目を開きました。そしてさっちゃんの方を見て、肩に触れているさっちゃんの手を見て、それから再びさっちゃんを見ました。
 その視線といったら、世界じゅうにたった一匹しかいない珍獣を見付けたとでもいうようです。信じられない。と、その翡翠色の瞳が語っています。

「あの、大丈夫? ここ、私の部屋なんですけど、分かりますか?」
 さっちゃんが言いますと、女の子は「ええ、まあ」と答えました。それがあんまり上の空な様子で、人の部屋に勝手に入ったにしては、とても無責任な物言いでしたので、さっちゃんは少しムッとします。
「ねえあなた、どこから入ったの? 子供とはいえ、人の部屋に勝手に入ったらいけないってことくらい、分かっているでしょう?」
 叱りつけるつもりで言ったのですが、女の子は、きょとんとしています。
「おかしいなあ。ちゃんと、さっしのすきまから入ったはずなのに」
「さっしのすきまから、入ってきたの?」
 信じられない思いで、さっちゃんは窓を調べました。窓はしっかり閉まっているし、鍵もきちんとかかっています。さっしには確かにすきまが空いていますけれど、もちろんすきまはとても狭いので、北風ならまだしも、女の子が通ってこられるわけがありません。

 怒りと困惑とを浮かべているさっちゃんに、「わ、私だって、困ってるんですよ」と、女の子も反論します。どうやら彼女も、混乱しているようです。声に動揺が滲んでいます。
「おかしいなあ。ここがバス停だと思ったのに」
「バス停?」
 思わぬ単語を耳にして、さっちゃんは訊き返します。バス停とは、さっちゃんが知る通りのバス停でしょうか。定刻通りにバスが停まり、お客を乗せたり降ろしたりする、あのバス停でしょうか。

 さっちゃんは、部屋の中を見回します。いつも通りのさっちゃんの部屋は、どこにだって、バスが停まろうはずもありません。
 ベッドがあって、クローゼットがあって、テレビがあって、ローテーブルがあります。廊下の先にはキッチンがあって、お風呂やトイレがあって、玄関があります。この狭いアパートの一室の、いったいどこに、バスが来るというのでしょう。

「私の部屋に、バス停があるということですか?」
「バス停があるというか、ここがバス停なんですよ。あっ」
 唐突に、女の子は小動物のように素早い動きを見せまして、ローテーブルの上のものを手に取りました。さっき見付けた、真っ黒な、奇妙な栞です。
「バスカード! なあんだ、あなたも多次元バスに乗るつもりだったんですね。私はてっきり、物質世界の人間がいるんだと思って、驚きました。そうですよね、すきまの世界に、物質世界の人間がいるわけないですものね」
 女の子は急に饒舌になり、嬉しそうにぺらぺらと喋ります。女の子の言っていることの半分も、さっちゃんは理解することが出来ませんでした。

 いったい彼女は、何を言っているのでしょう? 訊きたいことはたくさんあったのですが、さっちゃんが口を開く前に、女の子は立ち上がって、窓の方を向きました。さっしのすきまを見つめて、「しまった。さっき転んだはずみで、ずれちゃった」と、真剣な顔つきで呟きます。

 さっちゃんには理解しがたいことを言うだけ言って、そして女の子は何を考えてか、さっちゃんの手をがっしと掴みました。
「あなたも一緒に、来てください」
「来てって、どこに?」
「この部屋のすきまがずれちゃったので、修復するのを手伝ってください。バス停がずれていたんじゃ、運転手さんが、困っちゃう」
 女の子は、目を白黒させているさっちゃんの腕をつかんだまま、ずんずんと窓の方へ歩いて行きます。そして、冬の寒さをわずかに通すばかりの、窓のさっしのすきまに、えいっと飛び込んだのです。


 ぐらぐらと、めまいのような感覚がありました。倒れるかと思いましたが、さっちゃんの両足は、しっかり地面に着地します。さっちゃんと女の子は、窓にも壁にもぶつからず、どうやら無事にさっしのすきまをすり抜けたらしいのでした。

 さっちゃんが立っているのは、たしかに窓の外、ベランダです。けれど、なんだかちょっとへん。ベランダの外の風景は、いつもと変わらない夜の風景なのですが、目の荒いスクリーンに投影した、画質の悪い映像のように見えます。
 もっとよく見てみようと、さっちゃんは目をこらしますが、そうしているうちに、風景はどんどん変化していくのです。
 夜の風景が、夕方になり、昼になりました。冬の風景が、秋になり、やがて日差しのまぶしい夏になります。さっきまでは刺すように冷たかった空気は、今は嘘のように暖かく、いいえ、むしろ暑すぎて、さっちゃんは冬用の部屋着の中で汗をかいています。

「いけない、どんどんずれていく」
 女の子が、走り始めました。さっちゃんの家のベランダは、かけっこができるほど広くはないはずなのですが、どういうわけか、女の子はすいすい走ります。
「ほらほら、あなたも走って。はやく、はやく」
 急かされて、さっちゃんも女の子と同じ方向を向いて、走り始めました。そうしますと、どうでしょう。ベランダの外の風景が、くるくる変化するのです。
 たちまち、昼から夜になりました。それを何度か繰り返しますと、ベランダから見える青々としたナンキンハゼの木に、あっという間に白い実がすずなりになりました。それを見てさっちゃんは、季節が夏から秋になったことを悟ります。

「はやく、はやく、もとのすきまに戻らないと。十二月一日と二日のすきまに、戻らないと」
 ナンキンハゼの葉が色づき、耐えられなくなったように落ちた葉を、鋭い北風がぴゅうと巻き上げます。濃い青だった空は灰色がかった水色になり、夜にはオリオン座が輝きはじめます。
 汗をかき、息が切れてきますが、さっちゃんも一生懸命走りました。冬に向かって。あるいは、現在に向かって。


 昼、夜、昼、夜。何度繰り返したころでしょう。ようやく女の子が走るのをやめましたので、さっちゃんも止まりました。
 女の子はベランダの外を見渡しまして、ちょっと考えてから、
「いけない、通り過ぎた」
 と、言いました。そして回れ右をして、軽く駆け足をしましたので、さっちゃんも同じように回れ右をして、女の子と一緒に、ほんのちょっとだけ走りました。

 微調整をしたあとで、はあはあと肩で息をしているさっちゃんを後目に、女の子は作業着のポケットから手帳を取り出して、ちびた鉛筆で何やら書き付けました。
「よし。ちゃんと記録して、ずれたところをぴったり合わせましたから、もう流されることはないでしょう。お疲れ様でした」
 女の子がそう言いましたので、さっちゃんはこれで終わりだと思って、部屋に戻ろうとしました。ところが、窓に手をかけたさっちゃんを、女の子は慌てて制止します。
「ちょっと、ちょっと。ちゃんとすきまを通らなきゃだめですよ。ここは、すきまの世界なんですからね」
 そうして、さっちゃんの手をつかんで、窓のさっしを指差しました。正確には、窓とさっしの間に空いた、わずかなすきまを。

 もう分かりますね、といった顔で、女の子はさっちゃんにウインクをしました。そして二人は、いちにのさんで、さっしのすきまに飛び込んだのです。


 気が付いたときには、さっちゃんはもとのように、部屋の中に立ち尽くしていました。
 窓はぴったり閉じていて、部屋にはさっちゃんのほかに誰もいません。窓の外は、静かで冷たい冬の夜。ナンキンハゼの木も、何事もなかったかのように、ぽつねんと佇んでいます。

「夢?」
 そうかもしれません。でも、そうではないかもしれません。だって、さっちゃんは汗をかいています。まるで、たくさん走って運動したあとのよう。さっしのすきまから吹き込んだ風が、汗をかいた首筋をひどく冷やします。
「夢だったのかなあ」
 深く考えようとしましたが、それよりさっちゃんは、いいかげんお風呂に入らなければならないことを思い出しました。
 夢だったのかもしれないな。そう思って、さっちゃんは、お風呂に向かいます。

 ちょうど、日付が変わりました。
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