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06 僕らチェンジザワールド/忘れらんねえよ
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もう我慢の限界だ。
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ベンチと灰皿が置かれ喫煙所になっている非常階段の踊り場に、上司と部下が連れ立ってやってくる。
「お、馬並せんせーじゃないですか」
先客を見付けた途端に脂下がった上司が、部下に言いなす体で既に迷惑そうな顔をしている彼を弄り始める。
「お前知ってるか、馬並せんせーの早撃ち伝説。入社1年目で社内一の美人孕ませて嫁にしちゃったんだぜ。な」
パスを回された先客、鉄柵に肘を置き外に視線を向けた姿勢のままで上司のそれを無視する。一気呵成に腰くらいの高さまでせり上がってきた緊張感を取り成すみたいに、部下が相槌を打つ。
「またその話っすか。昨日も一昨日も聞きました、なんなら先週も先々週も聞きましたよ」
「だよな。なにせ俺この話、この10年ずっと擦り続けてっかんな。今後10年もずっと擦り続けていくかんな」
「よっぽど悔しかったんすね、課長」
「血の涙出たよな。ちんちんの先から」
「どんだけおかずにしてんすか」
黙って立ち去ろうとする先客の背中がどれだけの憤りを云っていたか、まるで気付こうともしない上司がへらへらと減らぬ軽口を投げた。
「奥さんによろしくな、馬並せんせー」
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もう我慢の限界だ。
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「お帰りなさい、お疲れさま」
帰宅した旦那を目一杯の明るさと愛嬌で妻が迎える。
「ちょうどご飯が出来たとこだよ。ほら、今日はパエリアに挑戦してみましたー」
昨日はシュクメルリ鍋、一昨日は排骨飯だった。
「へえ。凄いね」
用意されている食器は二人分、同居する親はなく子供はいない。
「あなたが毎日頑張ってくれてるんだから、あたしもこれくらいはしないと」
妊娠を告げられ結婚を即断した、けれどそれは社会人一年目という立場にあった自分にとっては勇気の要る事だった。
「うん、ありがとう」
入籍後、妊娠は嘘だったと発覚した。
歯車としてなにか大きな機構に組み込まれた時点で個は死んだ。嘘を吐いてまで妻が欲した幸せな結婚生活、なにも知らぬ外野にとってはきっと円満に見えるだろう夫婦関係、それを維持する為に旦那は10年間、死に続けた。その涸れ果てた大地で明るさと愛嬌を持ち続ける妻は旦那にとって、得体が知れず或いは気の狂れた怪物だった。
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もう我慢の限界だ。
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食卓に着いたものの食器を手にせずしばらく沈黙していた旦那が、椅子を蹴る勢いで立ち上がって絶叫した。
「ちんちんしゃぶれー」
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もう、我慢の限界だ。
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「なにがパエリアだくそあまー。毎日毎日毎日毎日ジャークチキンだピロシキだ、モモだサモサだダッカルビだってよう、食い終わる頃にゃ疲れてもう頭も回んねえよ、性欲も湧かねえよお前の狙い通りにな。評判妻の完璧手料理かなんか知らんが食わされる方の身にもなってくれ、こっちゃ飯を食ってるってよりなにか宴の為に姿を変えられた食材をただ機械的に腹に詰めてるだけって気分だ。それともなにか、お前の目には俺がジロー・ラモにでも見えてんのか、故郷の味でおもてなしってか。お、も、て、な、しってかざっけんなこっちゃ日本人だ生粋のばーか。うどん食わせろよ納豆食わせろよ、煮物と白米が贅沢極まるご馳走だよ、そこんとこ分かってくださいよ。いいからちんちんしゃぶれー。10年レスはもうレスじゃねえ、なんなら初めからゼロだったの、マイナスでもねえジャストゼロ。無。虚無。死。屍。死に続けた果ても死、悲しみの果てに死、虹の彼方に死。顕微鏡で覗いても太陽にかざしても死、明日を待ちきれずに夜を駆け抜けてもやっぱり死。なんもない荒野、涸れ果てた大地。飛ばない豚はただの豚、ラピュタは本当はありませんでした、お疲れさまでした。分かったらちんちんしゃぶれー。せめて握れー。握って擦って興奮するか訊いてくれー」
言わば逆噴射、しばらく続いた旦那のそれを、自分は危害の及ばぬ安全地帯に居ると知りながらも怯えを感じている、そんな表情で見詰めていた妻が消え入るような声で漏らした。
「ジロー・ラモは」
「あ」
「ジロー・ラモは、イタリア」
肩を上下させてまだ興奮状態にある旦那が、妻が言わんとするところを理解して訊き返す。
「パエリアは」
「スペイン」
間違いを認め納得した、と言う代わりに表情一つ変えず携帯を手に取った旦那、どこかへ発信する。スピーカーを通じ、覆いを剥がされ狂気が露わになった事で逆に緊張の解れた家庭内に拡がった声は、旦那をせんせー呼ばわりし、10年の長きに亘り弄り続けてきた例の上司のもの。
「どうした、今日はもう奥さん抱いたのか」
その上司に対する感情は旦那と同じ、そう云うみたいに妻の表情にも嫌悪感が広がる。旦那が応える。
「うるせえ馬鹿、首縊れ」
「おいなんだ藪から棒に。俺は上司だぞ」
「関係ねえよ、俺もう会社に行かねえから。お前とも金輪際係らねえから」
「ちょ、ま、どういう事だ」
「10年、我慢してやってたけどもう限界だって話だよ」
「辞めるって事か。会社を」
「お前俺の話聞いてたか。頭悪いのか」
「じゃあ、辞めるって事で、辞めるとして、それで辞めてどうするんだよ」
まるで整理が追い付いていない上司の様子に呆れて旦那が大きく溜息。
「お前本当に頭が悪いな。社会性の頸木から逃れた男がする事なんて相場が決まってんだろ昔っから」
「だから、なにする積もりだよ」
そして再び、旦那が逆噴射。
「ロックバンドだー」
('21.4.4)
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ベンチと灰皿が置かれ喫煙所になっている非常階段の踊り場に、上司と部下が連れ立ってやってくる。
「お、馬並せんせーじゃないですか」
先客を見付けた途端に脂下がった上司が、部下に言いなす体で既に迷惑そうな顔をしている彼を弄り始める。
「お前知ってるか、馬並せんせーの早撃ち伝説。入社1年目で社内一の美人孕ませて嫁にしちゃったんだぜ。な」
パスを回された先客、鉄柵に肘を置き外に視線を向けた姿勢のままで上司のそれを無視する。一気呵成に腰くらいの高さまでせり上がってきた緊張感を取り成すみたいに、部下が相槌を打つ。
「またその話っすか。昨日も一昨日も聞きました、なんなら先週も先々週も聞きましたよ」
「だよな。なにせ俺この話、この10年ずっと擦り続けてっかんな。今後10年もずっと擦り続けていくかんな」
「よっぽど悔しかったんすね、課長」
「血の涙出たよな。ちんちんの先から」
「どんだけおかずにしてんすか」
黙って立ち去ろうとする先客の背中がどれだけの憤りを云っていたか、まるで気付こうともしない上司がへらへらと減らぬ軽口を投げた。
「奥さんによろしくな、馬並せんせー」
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もう我慢の限界だ。
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「お帰りなさい、お疲れさま」
帰宅した旦那を目一杯の明るさと愛嬌で妻が迎える。
「ちょうどご飯が出来たとこだよ。ほら、今日はパエリアに挑戦してみましたー」
昨日はシュクメルリ鍋、一昨日は排骨飯だった。
「へえ。凄いね」
用意されている食器は二人分、同居する親はなく子供はいない。
「あなたが毎日頑張ってくれてるんだから、あたしもこれくらいはしないと」
妊娠を告げられ結婚を即断した、けれどそれは社会人一年目という立場にあった自分にとっては勇気の要る事だった。
「うん、ありがとう」
入籍後、妊娠は嘘だったと発覚した。
歯車としてなにか大きな機構に組み込まれた時点で個は死んだ。嘘を吐いてまで妻が欲した幸せな結婚生活、なにも知らぬ外野にとってはきっと円満に見えるだろう夫婦関係、それを維持する為に旦那は10年間、死に続けた。その涸れ果てた大地で明るさと愛嬌を持ち続ける妻は旦那にとって、得体が知れず或いは気の狂れた怪物だった。
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もう我慢の限界だ。
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食卓に着いたものの食器を手にせずしばらく沈黙していた旦那が、椅子を蹴る勢いで立ち上がって絶叫した。
「ちんちんしゃぶれー」
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もう、我慢の限界だ。
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「なにがパエリアだくそあまー。毎日毎日毎日毎日ジャークチキンだピロシキだ、モモだサモサだダッカルビだってよう、食い終わる頃にゃ疲れてもう頭も回んねえよ、性欲も湧かねえよお前の狙い通りにな。評判妻の完璧手料理かなんか知らんが食わされる方の身にもなってくれ、こっちゃ飯を食ってるってよりなにか宴の為に姿を変えられた食材をただ機械的に腹に詰めてるだけって気分だ。それともなにか、お前の目には俺がジロー・ラモにでも見えてんのか、故郷の味でおもてなしってか。お、も、て、な、しってかざっけんなこっちゃ日本人だ生粋のばーか。うどん食わせろよ納豆食わせろよ、煮物と白米が贅沢極まるご馳走だよ、そこんとこ分かってくださいよ。いいからちんちんしゃぶれー。10年レスはもうレスじゃねえ、なんなら初めからゼロだったの、マイナスでもねえジャストゼロ。無。虚無。死。屍。死に続けた果ても死、悲しみの果てに死、虹の彼方に死。顕微鏡で覗いても太陽にかざしても死、明日を待ちきれずに夜を駆け抜けてもやっぱり死。なんもない荒野、涸れ果てた大地。飛ばない豚はただの豚、ラピュタは本当はありませんでした、お疲れさまでした。分かったらちんちんしゃぶれー。せめて握れー。握って擦って興奮するか訊いてくれー」
言わば逆噴射、しばらく続いた旦那のそれを、自分は危害の及ばぬ安全地帯に居ると知りながらも怯えを感じている、そんな表情で見詰めていた妻が消え入るような声で漏らした。
「ジロー・ラモは」
「あ」
「ジロー・ラモは、イタリア」
肩を上下させてまだ興奮状態にある旦那が、妻が言わんとするところを理解して訊き返す。
「パエリアは」
「スペイン」
間違いを認め納得した、と言う代わりに表情一つ変えず携帯を手に取った旦那、どこかへ発信する。スピーカーを通じ、覆いを剥がされ狂気が露わになった事で逆に緊張の解れた家庭内に拡がった声は、旦那をせんせー呼ばわりし、10年の長きに亘り弄り続けてきた例の上司のもの。
「どうした、今日はもう奥さん抱いたのか」
その上司に対する感情は旦那と同じ、そう云うみたいに妻の表情にも嫌悪感が広がる。旦那が応える。
「うるせえ馬鹿、首縊れ」
「おいなんだ藪から棒に。俺は上司だぞ」
「関係ねえよ、俺もう会社に行かねえから。お前とも金輪際係らねえから」
「ちょ、ま、どういう事だ」
「10年、我慢してやってたけどもう限界だって話だよ」
「辞めるって事か。会社を」
「お前俺の話聞いてたか。頭悪いのか」
「じゃあ、辞めるって事で、辞めるとして、それで辞めてどうするんだよ」
まるで整理が追い付いていない上司の様子に呆れて旦那が大きく溜息。
「お前本当に頭が悪いな。社会性の頸木から逃れた男がする事なんて相場が決まってんだろ昔っから」
「だから、なにする積もりだよ」
そして再び、旦那が逆噴射。
「ロックバンドだー」
('21.4.4)
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