サレ妻と飛んだ人達

上津英

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始まりは赤い唇

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『私と結婚してください』

 同棲中の彼女が毎日作ってくれる弁当。
 白米の上に刻みノリで書かれた文字を見て俺は固まった。まさか彼女から先にプロポーズされるなんて、しかもこんな風に。
 俺は暫く何も考えられなかった。それは隣で弁当を覗いてる同僚も同じだった。

「おおっ!! 今日のメッセージは一段と熱いじゃないかっ! 遂にお前も結婚かあ。嬉しいなあ結婚おめでとう、式には呼んでくれよ~」
「きゃ~おめでとうございます!」

 少しして揶揄うような同僚や女優の声が横から飛んでくる。俺はTV業界で働いているのだ。
 毎日メッセージが違う料理上手な彼女のキャラ弁は周囲に評判だ。今日はどんな弁当なのか俺も同僚も楽しみにしてる。仕事が忙しい俺は、彼女の愛を感じられるこの瞬間が大好きで、ロケ弁は出張中しか食べなかった。

「結婚、かあ……」

 ようやく動きだした頭は、俺にベタ惚れの彼女との新婚生活を思い描き薔薇色だ。にたついていたと思う。
 その日俺は収録を終え家に走って帰った。ガバリと彼女を抱き締めプロポーズの返事をし、赤い唇に何度もキスをした。
 こうして俺の結婚生活はスタートを切った。



『いつでも貴方に会いたい』
『貴方の為ならなんでもするからね』
『捨てないでね』
『ずっと傍にいて』

 嫁と結婚してから3年が経った。
 嫁の愛の重さは「実はヤンデレだったのか?」と聞きたくなるくらい相変わらずだ。弁当のメッセージは毎回熱量が高い。
 今日のお弁当は自信作なの、と今朝弁当を渡してきた時の嫁の笑顔を思い出す。山中ロケだと話してあるから高カロリーの揚げ物なら嬉しいが、ランチボックスを取り出すのは気が重い。

「今日はどんなメッセージかねえ。今日もラブラブなんだろうなー?」

 と休憩時間に同僚が冷やかしてくるが、俺は目を伏せてぼそっと呟いた。

「俺は正直重たくて嫌だけどな……」

 丁度電話が鳴ったので、その声は電話対応をした同僚に届く事は無かった。でもそれで良かったのかもしれない。
 俺は不倫をしているのだ。
 相手は4つ上のAD、慶野けいのさん。海外ロケ中、慶野さんの綺麗なパール付きネイルを褒めた事から関係が始まった。
 仕方無いじゃんか。結婚前はデレデレの嫁が可愛かったけど、今ではその愛が重いんだよ。ランチボックスの蓋を開けるのが憂鬱で、俺は逃げるように仕事熱心な慶野さんにハマっていった。

「うーわー最悪だわー!」

 そんな事を考えていると、電話を終えた同僚が大きく舌打ちをする。こいつと会うと仕事の愚痴合戦になるので、今回も愚痴かと思った。
 ……思った。

「慶野の奴飛びやがった!」
「え?」

 飛ぶ──TV業界用語で、ある日突然スタッフが失踪する事を指す。
 闇が深いTV業界はブラックが過ぎるから辞表は受け取って貰えない事が多く、こうやって退職をする人間がとにかく多い。彼女もそうなったのだ。

「え……?」

 しかし俺にはそれが信じられなかった。俺は彼女が仕事熱心な事を知っている。この前もベッドの中で熱く夢を語っていた。そんな彼女が飛ぶわけない。では、どうして。

「くそっディレクターと緊急会議してくるっ!」

 同僚はそう吐き捨て、みんながテントを張っている方へ走っていく。その背を見送りながら、1人残された俺は慶野さんが飛んだという事をぼんやりと反芻していた。

 ──今日のお弁当は自信作なの。

 その時俺は思い出した。嫁が今朝やけに笑顔だった事を。嫁の愛が重い事を。
 もしかしてあれは俺の不倫に気が付いていたからではないのか? だから慶野さんは。
 慌ててランチボックスの蓋を開け、そこにあった物にヒッと息を呑む。白米が敷き詰められた箱の中、日の丸弁当の梅干しのように鎮座している物。
 それは、人差し指だった。
 青色のグラデーションに、雲みたいなパールが綺麗なネイルが施された指──間違えるわけが無い。切断面から滲んだ血が白米を汚しているそれは、慶野さんの人差し指なのだから。

「ひぃっ!?」

 白米の上に乗るわけのない肌色に慄いたが、すぐ下の海苔で書かれたメッセージにも、俺は目を見開く。

『今貴方の後ろにいるよ』

 !?
 勢い良く振り返ると──ぷに、と頬を人差し指で突付かれた。そこにはいつの間にか嫁が立っていた。

「捨てないで、って言ったじゃん」

 どっと冷や汗が噴き出した俺の耳に、笑顔の嫁が囁きかけてくる。……ロケ地、話さなければ良かった。

「ち、ちが──」
「なにが違うのよっ、裏切り者っ!! 全部知ってるんだからっ!」

 嫁は叫び、どんっと俺を突き飛ばした。傾斜なので為す術無くゴロゴロと一段下まで落ちていく。

「っ!!」

 大木に背中を思い切り打って息が止まる。その一瞬に傾斜を駆け下りて来た嫁に乗りかかられ、ハンカチで口を塞がれてしまった。これでは助けが呼べない。と、不意に一段上から同僚の声が聞こえて来た。

「あれ? 居ない……もしかしてあいつも飛んだのか? クソがっ!」

 一段下に居るとは露ほど思っていない同僚は毒づき、疲れたと伸びをし来た道を戻って行く。
 TV局員は突然飛ぶ。コンビニにパシリに行かされた時とか、ロケ車にガソリン入れた帰りとか、本当に突然に。だから日頃愚痴が多い俺が突然消えても誰も気にしない。それがTV業界なのだ。

「んー! んーっ!!」

 俺はここに居る。なのに、どんどん遠ざかっていく同僚は気付いてくれない。目の前が暗くなる。何か嗅がされたのか体に力が入らなくなっていくのも怖かった。
 嫁はそんな俺を見てふふっと満足そうに笑みを深める。プロポーズの日と同じ、赤い唇を歪ませながら。

「これからはずっと私の傍に居てね」



 その日から、俺の監禁生活がスタートした。
 もうすぐ遺棄すると言う慶野さんだった物の横、笑顔の妻の手料理を詰め込まれる日々。
 俺には、この狂った時間が何時まで続くか少しも分からなかった。
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