蒸気の中のエルキルス

上津英

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第3章 それは湿った蒸気のように

2-27 「え。お父さん異動するんですか? お義兄さんも?」

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「どうぞどうぞ、店に掛けてくれていいよ。親や妹とかが出ても気にしないでね~」

 有り難うーっと笑みを浮かべたイヴェットは、メモ帳が入った紙袋を受け取りスクールバッグにしまう。

「じゃ、ノアさん有り難うねードミニクさんも有り難う! ばいばい、またねー!」

 ひらひらと手を振るイヴェットは明るい声で言い、桃色のチェックスカートの裾を翻して蒸気ゆらめく工業区の方角に消えていく。
 秋風が自分とドミニクの間に吹いた一拍後、こちらを向いた親友の垂れ目がにぃっと細まった。

「あんな可愛いガールフレンド居たなら教えてよー?」
「ガールフレンドじゃねぇってば」

 自分達もルイリーフに向かって歩き出す。カサっと、赤い枯葉を踏んだ音が周囲に響いた。

「そう言って強がって~自分が一番ダメージ受けてたじゃんか」
「ほっとけ。それより日が暮れる前に早く行こうぜ!」

 そうだねー、とどこか残念そうにドミニクが言い、高校前の通りを歩いていく。
 通りには仕事中の人以外にも何時もはいない警察官や生徒の保護者達が居て、賑やかなように感じた。目の前の本屋にも何時もより人が入っている気がする。
 ――そう言えば。

(イヴェット、高校生の男が撮りたいならドミニクも撮れば良かったのに)

 そもそも。
 カメラの動作確認にしても、一回シャッターを押して満足するのは早いだろう。
 まるで自分を撮りたかったのでは、と思う行動だった。そう思うのは自惚れているだろうか。
 気にする事は他にもいっぱいあると分かっているのに、ルイリーフに向かいながらポリポリと頭を掻いてイヴェットの事を気にしている自分が居た。

***

 祖父からからその話を聞かされたのは、イヴェット・オーグレンが中学校を卒業する2週間前の7月だった。
 あの頃は食卓に自分の両親や祖父母も座っていて、賑やかな大好きな時間が流れていた。
 しかしそれは、祖父が口にした『異動』という言葉であっさりと幕が閉まってしまった。

「え……?」
「え。お父さん異動するんですか? お義兄さんも?」

 隣に座っている叔父が目を丸くして聞き返している。

「あの……ではエルキルス教会の牧師はどなたが? それにイヴェットさんの高校はどうするおつもりですか? と言いますか、私達牧師館から退去しなきゃいけません?」
「しなくて良いよ? イヴェットちゃんだってここに残るから問題無い。ユスティン、なんせ隣の教会の新任牧師はお前だからな」

 サーモンソテーを食べながら、イタズラの反応を見る時のようにニヤついているアンリが答えた。
 今日も灰色の作業服を着たこの事務員は、この場で唯一血縁関係がない。しかし、祖父を父と呼ぶ程家族も同然に溶け込んでいる。

「私が!? まだ学生ですよ、私」
「秋からは違うだろ。つまり、そう言う事だ」

 家長である厳格な祖父の低い声がリビングに響くと、一瞬部屋が静まり返った。

「えっ……っと……」

 重苦しい空気に何も言えぬ中、呆然と隣に座っている母親を見つめる。
 父は元々、ルイリーフ教区の教会にここから通っている牧師だ。しかし父が異動となれば、母親も異動についていくに違いない。牧師の妻とはそういう物だ。

「……この事、アンリは知ってたんですか?」
「そりゃ当然。俺事務だし、2週間前から知ってたよ」
「は? 何で言ってくれなかったんですか?」
「なんだよ。良いだろ、別に」

 アンリがツンと返した言葉に、後頭部を殴られたような気持ちになった。
 どうやらこの場で両親達の異動を知らなかったのは、自分と叔父だけだったようだ。
 彼らは2週間もの間、どういう気持ちで自分を見ていたのだろう。卒業を前に浮き立つ自分を、もしかしたら内心笑っていたのだろうか。
 でも。
 大好きなこの時間の幕引きは、自分の知らないところで自分が頷く事が前提で決まってしまったのだ。
 アンリの事は家族も同然だと思っているが、血縁ではない。実子である自分は、両親から全てを一番に話される存在だと思っていた。

「っ……」

 そんなの、聞いていない。
 離れるなんて教えて貰っていない。宝石箱の中身のように大切な事だと思っていたのは、もしかして自分だけだったのか。
 母親の顔が上手く見れなかった。じわりと視界が滲んで焦点が合わない。

「ごめんね、イヴェット。そういう事なの。これからはユスティンと――」

 母親の言葉を最後まで聞く前に、バンッ! と食卓を強く叩いて立ち上がっていた。食卓を囲んでいる全員の視線が自分に集まった。

「そんなの聞いてないっ!!」

 次に口から飛び出たのは、八つ当たりのような大きい声。

「勝手に決めないでよっ!!」
「イヴェッ——」
「勝手、に……っ!」

 怒鳴りながらも頭の片隅では理解している。世の中は大人が回している事を。
 自分が事前に知っていようがどんな受け入れ難い事だろうが、親が決めた事は中学生の自分には覆せぬ事を。
 分かっているのに、何故目頭が熱くなるのだろう。アンリの言い方にもカチリと来ていた。

「もう良い!! アンリさんも知ってたなら教えてよ!! 馬鹿っ! ぜんっぜん良くないしっ!!」

 もっと当り散らしてしまいそうで、この場に居たくなかった。
 最後に大きな声で怒鳴り、教会の鍵置き場に使っている焦げ茶色の編み籠から鍵を掴み、夏の夜のむわっとした廊下に飛び出していた。

「イヴェットさん!!」

 リビングから叔父の声がしたが、構わず玄関の外に飛び出した。
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