蒸気の中のエルキルス

上津英

文字の大きさ
85 / 108
第4章 それは止まれぬ蒸気のように

2-36 「下水……」

しおりを挟む
「前匿名でエルキルス署に告発書送ったんですけど、これじゃ回りくどすぎるよな~やっぱ直接じゃないと駄目だよなって思って。伯母さんに相談したら、自分のアパートに警察官が居るとの事で甘えてしまいました」

 告発書。
 その単語に、いつか警察署に届いたスコットランドヤードからの手紙を思い出し目を見張る。
 あれの送り主はこの人だったのだ。確かに水道局員ならスコットランドヤードも知っているだろうし、この若さなら言いにくい事情もあったろう。と言う事は、この人は切り裂きジャックについて何か知っているのだ。

「匿名でお話したいのは……先月、上司が下水を売ったところを目撃したからで」

 身構えた自分の耳に飛び込んできたのは「下水」という意外な単語だった。

「下水……」

 念密に下水を調べれば、性別や髪色と言った遺伝子レベルの個人情報を割り出せる。
 時間と費用はかかるがマンション単位で割り出せるので、指名手配犯の居場所は下水から絞り込む事が多い。
 一般市民が、違法ルートで下水を悪用する事もある。大切な人を殺された遺族が、探し出した指名手配犯に復讐する事例は多くはないが少なくもない。
 なので、下水を売る事は殺人幇助と見倣され固く禁じられている。が、エルキルスにはそれを破った人間が居るようだ。

「しかもその売った下水ってのが、ミトズロッド公立高校の物だったんです。何で高校の? とは思ったけど、先月は問題を起こしたくなくて黙ってたんです……その人一応上司だし。そしたらあの高校、最近良く名前を聞くじゃない? あーこれは絶対関係があるっ! って思って密告したくて。でも匿名が良くて、こういう形にさせて貰ったんです」
「え?」

 ミトズロッドの下水が売られていた。
 それは確かにこの連続殺人事件と関わりがあってもおかしくない。
 寧ろ下水が関係しているのなら、赤毛の男子生徒ばかり狙われていた事にも、それなりの説明がつくのではないか。
 告発書の言い回しもあえて大人にしたのも納得だ。これは教師だけを疑えない。

「……」

 ノアの読みは当たっていたのだ。
 切り裂きジャックはミトズロッドの赤毛の男子生徒に、何かを見出した。
 空白の1日だって、この間に何らかの検査や照合をしていたのなら辻褄が合う。検査は時間が掛かる事の代名詞なのだし、お菓子を貰っていたのも検査に影響が出ないようにかもしれない。
 香水の匂いが充満した自室も、苦手な女性と向き合ってるのも嫌だったが、これは欠けたピースを埋める大きな情報だ。ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

「あの…………あっと、それ、は、凄い有益な情報だと、思います……有り難う、ございます。俺、担当で。切り裂きジャック事件の。だから、嬉しいです……! そっか……!」
「あっへえそうなの?」

 釣り目の女性が微かに驚いていたのは、自分の雰囲気が変わったからだろう。

「あの、匿名性は遵守しますので……。ご協力、有り難うございました。俺、ちょっと電話……」

 慌てて椅子から立ち上がり、部屋の隅で佇んでいる滅多に仕事をさせてあげられない電話機の元へ向かった。
 刑事課にこの事を知らせねば。

「じゃあ私は失礼します、時間を作ってくれて有り難う」

 フルメイクの女性は相変わらずキョトンとしたまま、礼儀正しく部屋を後にした。ちらっと見たその後ろ姿は、荷物が減ったかのように足取りが軽くなっていてほっとする。

「……あっ課長……! ダンフィードです、ちょっとお話したい事が……!」

 香水の華やかな残り香が漂う自室。
 クルトは受話器の向こうに、今しがた聞いた情報を伝えていた。

***

 雨だ。
 それも結構な。

「ひゃ~、も~こんなに降るなんて言ってたっけ!」

 今朝の天気予報に騙された小さな憤りをぶつける。
 牧師館の狭い庭に出て、イヴェット・オーグレンはシャツやスカートを取り込んでいく。スケアリーの事が気になって気付くのが遅れたので、洗濯物は着衣水泳でもしたかのようにびちょびちょだ。
 叔父は散髪に、隣人は昼寝中なので、今動けるのは自分しか居なかった。

「叔父さん大丈夫かなー…?」

 自分の下着を見られたくないのでその点では感謝しながら、外出中の叔父の心配をする。雨でも平気で濡れる文化が残る国だが、このようにシャワーのような雨だと流石に心配になる。
 その時、牧師館からふと青年の弱々しい声が聞こえてきた。

「ただいま帰りましたー……」

 叔父の声だ。
 雨音が邪魔をして玄関扉を開ける音が聞こえなかったらしい。

「おかえりなさ~い! 廊下上がらないで、ちょっとそこ居てね~!」

 牧師館の中に向かって声を張り、救出した洗濯物を脱衣所に放りながら白いバスタオルを代わりに持って玄関で一息吐いている叔父に駆け寄る。こうびしょ濡れだとどう髪を切ったのか分からない。

「雨大丈夫だった? はい、タオル」
「はー……、有り難うございます。大丈夫ではないので一度お風呂に入って来るとします」

 バスタオルを受け取り頬を持ち上げた叔父は、顔や髪を拭きながら疲れきった声を漏らした。

「あっじゃあ、あたしお湯入れてくるよー」
「ああいえそれには及びません。有り難う御座います」

 ある程度の水分を拭った叔父は遠慮がちに廊下を歩いていくが、どうしてもフローリングに水溜まりを作る。脱衣所に入っていった叔父を見送りながら、しゃがんで叔父から奪ったタオルで床を拭う。

「……イヴェットさん、なんか立派になりましたよねえ。少し前のイヴェットさんなら廊下拭かなかったでしょうに」
「あたしも色々ありましたからね~」
「そうですね、経験を糧にされていて素晴らしいです」

 浴槽に湯を張っている音が聞こえる中、リビングに戻った自分と脱衣所の叔父との会話は続いた。褒められたのが嬉しくて唇が持ち上がる。

「友達……って、ノアさんの事だったんですね」
「えっ!? 言わなかった?」

 会話が途切れた後、不意に切り出された話題に心臓が口から飛び出しそうになったし、叔父がその名前を出した事に驚いた。

「言われてはいましたが、ノアさんがその床屋で髪の毛を掃いている事までは。今ドミニクさんの家にお世話になっているそうですよ。切り裂きジャック対策だとかで」
「え、あ~今一人暮らしらしいしね、ノアさん。うん、そっちのが絶対良いよ! 喧嘩しなかった?」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

身体交換

廣瀬純七
SF
大富豪の老人の男性と若い女性が身体を交換する話

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件

こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。

処理中です...