蒸気の中のエルキルス

上津英

文字の大きさ
2 / 108
第一章 エルキルスの人々

1-1 「ちょっ、引ったくりー!!」

しおりを挟む

第一章 エルキルスの人々


 目の前で犯罪が起きる。
 夕方、高校を終え家に帰ろうと蒸気時計がある公園脇の通りを歩いていたら、まず起こらない。
 そう思っていたからこそ、ノア・クリストフは今目の前で何が起こったのかを理解することが出来なかった。

「ちょっ、引ったくりー!!」

 青年と歩いていた所を狙われた栗毛の少女が、白い石畳の上にへたり込み叫んだ。

「そこの人、捕まえて!!」

 『少女の物と思しきスクールバッグを手に、全力疾走でこちらへ逃げてくる犯人を捕まえて』
 そう叫ばれている事は他に人が居ない事から理解できた。スクールバッグには色々な物が入っているので、それ目当てで引ったくられる事があると聞く。
 押さえなければ。分かってはいるが、苺オレみたいに鮮やかなピンク髪を乱し、脇目も振らず逃走している体格のいい少年を前に、どうにも足を動かせなかった。
 分かっている、分かっているのに。突然の事に、目の前の光景が現実の物とは思えなかった。犯人の体格がいいのも怖い。

「え、あ」

 目の前で落雷でも落ちたかのように動けずにいると、少女の隣に居た金髪の青年が、ふうと呆れたように息をついた気がした。青年は犯人を追い掛けるべく全力で駆け出してくる。

「動きましょうよ」

 すれ違う瞬間、冷たく囁かれた。

「わ、悪ぃ……」

 言い訳するように返し、青年が走り抜けていった方を振り返る。公園の角を曲がったようで二人の姿はもう見えなかった。
 情けない思いでいっぱいだった。まさか自分が、こんなにも頭が真っ白になって動けなくなるなんて思っていなかった。自分を殴りたい。

「いったぁ~っ……」

 その時、前方から少女の弱った声が聞こえてきてハッとした。ノアの中では数分にも思えた目の前の光景が、今しがた起きた事なのだと思い出す。
 犯人と青年が消えた今、通りに居るのはノアとこの少女だけだ。このまま何事もなかったように少女の隣を通って家に帰る事も出来たが、それはあまりにも目覚めが悪すぎる。
 目の前の犯罪には動く事も出来なかったが、目の前のへたり込む少女には声をかけたい。それが動けなかった事への謝罪になるのではと思った。

「大丈夫……か?」

 呆然と二人が消えた曲がり角を見ていた少女は、ノアの声に思い出したように顔を上げた。

「あ……っ」

 肩に付かない程の栗毛。長い睫毛に縁取られた緑色の瞳。初秋らしい半袖の白いブラウスに桃色の線が入ったチェックスカート。健康的な肌つやを持つ少女の服は、たしか近所の女子高の物だ。現実になったスチームパンクと言えど、服装は前近代の方に近い。
 少女はノアを映しきっと眉を吊り上げた。

「捕まえてよ!」

 桃色の唇から、怒りに満ちた声が飛び出した。

「あたしの声聞こえてたでしょ!」

 立ち上がって自分を責める少女はそう続けた。不甲斐ない男子生徒を責める女子生徒がまさにこういう表情をしている。

「……悪ぃ」

 少女がこんなに怒るのも無理もない。ノアは唇を噛み締め、砂利の目立つ石畳を見下ろした。

「……あっ、ご、ごめん……。別に警察じゃないもんね、君……」

 ハッとした少女が一転して大人しくなる。言い過ぎたと思ったのだろう。

「見たところあたしと同じ高校生? 困る、よね、いきなりそんな事言われても」

 顔を上げ、眉を下げている少女を見て首を横に振る。

「怒って当然だろ。捕まえるのに一番いいタイミングだったんだから。……悪かった、取られたら痛いよな、あれ」

 謝罪をし、犯人と青年が消えた方を見遣る。石造りの雑貨屋の奥に見える角はうんともすんとも言わない。

「ううん。叔父さんならきっと捕まえてくれるよ、足速いから!」

 だから心配しないで、と少女が笑みを浮かべる。励ますような言い方に、どれだけ悲痛な表情を浮かべていたのかと反省する。

「おじ、さん?」

 少女は多分、犯人を追い掛けた青年の事を言っているのだろう。一瞬顔が見えたが、二十代に見えたのでおじさん呼びを不思議に思い首を傾げる。

「あっ、あの人歳の近い叔父さんなんだ。ああ見えてエルキルス教会の牧師なんだよー」

 エルキルス教会と言うのは、川の近くにある街で唯一の教会だ。叔父の事を語る少女は誇らしげだった。きっと自慢なのだろう。

「なるほど……」

 少女は青年の後を追い掛ける事はせず、ここで待つ事にしたようだ。立ち上がったっきり、この場を動こうとしない。
 思っていたより少女は元気だったし、犯人が戻って騒ぎを起こす事も有り得ない。いつまでもここに立っているのも変な話だ。もうこの場を後にしてもいいだろう。

「あ、叔父さん!」

 それじゃあ、とこの場を離れようとした時、ノアの後方を見て嬉しそうに少女が声を上げた。犯人を追っていたあの青年が、おそらく良いニュースを持って戻って来たのだろう。
 振り返ろう、と思ったが躊躇してしまった。すれ違いざまに言われたあの言葉の冷たさを、思い出してしまったから。

「あー……荷物は取り返しましたが、犯人には逃げられてしまいました。申し訳ありません」

 言葉通り申し訳なさそうな口調で話し、青年はノアと少女が居る方に近付いてくる。

「彼はきっと、工業区に巣食っているという不良なのでしょうね。川を挟んで隣ではありますが、危ないですし工業区には極力近寄らない方が良いですよ。はいこれ、イヴェットさんの鞄です」
「有り難う、叔父さん。あーっ、叔父さん手怪我してる!!」

 イヴェットと呼ばれた少女は礼を言った直後慌て出した。何時までも向き直らないのも不自然なので、意を決して振り返る。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

身体交換

廣瀬純七
SF
大富豪の老人の男性と若い女性が身体を交換する話

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件

こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。

処理中です...