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Ⅱ havn―海―
15 「いえ、なんだか、その……貴女らしくて、元気だなあと思いまして」
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ベージュ色の厚手の皮のコートを着て作業をしている、何処の港にも居るような船乗り。
自分の事を知っている存在である訳が無いのに、反射的に身構えてしまった。
「な、なんです?」
足を止め、船乗りに視線を向ける。ウィルはまだ追い付いていない。
鮮やかな金髪を隠す紺色の帽子を目深に被り、豊かな髭の上に紺色のニットマフラーを巻いている。厚着なので良く見えないが、40代だろう。
緑色の双眸が、値踏みするかのように真っ直ぐこちらを見ていた。
「変な方向から来たな。こっちは入り江ばかりで人は住んでねー筈だ。可愛い顔して盗人か? 倉庫を荒らすんじゃねーよ。言っとくが船乗りは意外と回りを見てるからな?」
会った瞬間嫌にトゲトゲと警戒の視線を向けられ、「なっ」と言葉を飲み込む。
割り込みや難癖が嫌いなので無視出来なかった。船乗りに向き直り雪を払うのも兼ねて首を何度も横に振る。
「会っていきなり失礼ですね! 私は買い物客よ、干し魚とかお芋とか、日持ちのする物を買いに来ただけです! こっちから来たのは……たまたまですっ! ノルウェーは広いもの! 何処から来たって良いじゃない!」
「ふーん、お嬢ちゃんみたいに気が強い女こそ怪しいもんだけどな」
「だから違いますっ!」
否定をしていると息を切らしたウィルが追い付いてきた。
無数のランタンの明かりに照らされた自分と船乗りを交互に見て、どこか困ったように眉を下げる。
「クララ……っ! 良いから先に行きましょう。そんなに時間があるわけではありませんよ」
「でも腹が立つじゃないっ! 来た方角だけで難癖をつけられるなんて!」
宥められても怒りが収まるわけではない。むすっと言い返すと、「ぷっ」と表情を緩ませたウィルに小さく笑われた。
何かを思い出したのか子供のようにあどけない笑みが珍しく、一層気に障った。
「なに笑ってんのよ!」
「いえ、なんだか、その……貴女らしくて、元気だなあと思いまして」
「なによそれ、嬉しくないっ!」
のんびりとしたウィルの口調に絆されかけるも、どうして通貨も分かっていなさそうなこの青年に諭されなければならないのだ……と言う気持ちもあり、ふんっと鼻を鳴らして返す。
「あーあんたら盗人じゃねーなー……」
自分達のやり取りを見ていた船乗りが、腑に落ちたとばかりに呟く。こちらを観察していたままの緑色の目が眩しそうに細まった。
先程よりも優しいその表情に「実は良い人?」と思いかけた時。
「駆け落ち中だな? ご苦労さん」
からかうように船乗りに告げられた。
「えっ」
動揺したウィルの動きが止まり、自分の動きまで止まってしまった。どうしてか心臓を直接掴まれたかのようだ。
時間が止まったかのように、一転して周囲が静かになる。聞こえるのは市場から聞こえる客引きの声だけ。
海から吹く風に乗った潮の香りと、市場特有の生臭さ。
それらが不意に濃くなったように感じた。
***
主人がレオンを見てくれている間、リーナ・シュルルフはトロムソの大通りを港に向かって走っていた。
アストリッドは屋敷のどこにも居なかったので、外に出た筈。しかし不思議な事に、直前まで寝台の下に居た令嬢の足跡は降雪しているとは言え玄関にすら無かった。
すぐ近くの森には複数人の足跡があったが裏庭には無かったので、森の中のあれらがアストリッドの物とは考えにくい。
主人はアストリッドの行方――最低でも何らかの情報――を掴まない限り、レオンを医者に診せるお金はくれないだろう。
「きゃっ!」
雪の下に埋もれていた石に気付けず、どさっと勢い良く顔から転んでしまった。
大通りという事もあってか、踏み固められた雪は茶色くてところどころ剥き出しに近い。顔が擦れる痛さと冷たさもあって、すぐに顔を上げ立ち上がった。
「レオン……っ」
死んでしまった夫と同じ名前を付けた、何よりも大切な命。気付けばその名前を呟いていた。
――僕に何かあったらお腹の子を頼んだよ。
ふと脳裏に夫の最後の言葉が蘇る。優しくて勝手で、正義感の強い人だった。
涙が出るのを我慢しようと鼻を啜った時、鼻の奥にツンとした鉄の味を感じた。どうやら転んだ時に鼻血が出てしまったようだ。今自分は毛むくじゃらのトロールよりも酷い顔をしているだろう。
「――」
服が汚れるのも構わず袖で鼻を拭ってから口ずさんだ歌には、ヨイクというサーミ伝統の歌唱法を採った。ヨイクで歌を歌うと夫の事を思い出して、挫けそうな気持ちを鼓舞出来る。
改めて、自分にとってレオンがどれ程大切な存在なのかを痛感した。
それだけに、今まで見た事の無いような高熱を出しているのが怖かった。レオンがもし死んでしまったら、自分が生きている意味なんて無いと言うのに。
何事も無いのが一番ではあるけれど。そうでは無かった場合。
もしも自分が死んでレオンが助かる道があると言うのなら、自分は喜んでこの命を差し出すだろう。
その事実を噛み締めながら大通りを駆けていった。
***
「かかか駆け落ちぃ!? 何馬鹿な事言ってるんですか!」
一瞬だけ訪れた静寂を破ったのは、アストリッド・グローヴェンの何時もより裏返った声だった。
隣に並んだウィルも口を開けて呆然としている。今の自分には腹の立つ表情だ。
「人目を避けて来たし、買う物も買う物だ。それに若い男女……と来りゃ駆け落ちしかねーだろ。違うのか?」
「違います!!」
どこかニヤついた船乗りの言葉を間髪入れず否定するが、信じてくれなかった。「まあ頷けないよな~」と目を細める厚着の男に、「だから違います!」ともう一度声を張る。
ウィルが固まったのもきっと勘違いされている一因だ。この青年は集団生活を送っていないようなので、こういうおちょくられ方に慣れていないのだろう。
「もう、ウィルも何か言いなさいよ……!」
船乗りが依然としてニヤついたままなのも気恥ずかしさを煽って来て、間を作りたくない一心でウィルを小突いた。
おかげでウィルもハッとしたようで、倉庫前にどこかわざとらしい咳払いが響いた、その時。
「ルーベン船長、さっきから何をうるさくしてるんですかい」
自分の事を知っている存在である訳が無いのに、反射的に身構えてしまった。
「な、なんです?」
足を止め、船乗りに視線を向ける。ウィルはまだ追い付いていない。
鮮やかな金髪を隠す紺色の帽子を目深に被り、豊かな髭の上に紺色のニットマフラーを巻いている。厚着なので良く見えないが、40代だろう。
緑色の双眸が、値踏みするかのように真っ直ぐこちらを見ていた。
「変な方向から来たな。こっちは入り江ばかりで人は住んでねー筈だ。可愛い顔して盗人か? 倉庫を荒らすんじゃねーよ。言っとくが船乗りは意外と回りを見てるからな?」
会った瞬間嫌にトゲトゲと警戒の視線を向けられ、「なっ」と言葉を飲み込む。
割り込みや難癖が嫌いなので無視出来なかった。船乗りに向き直り雪を払うのも兼ねて首を何度も横に振る。
「会っていきなり失礼ですね! 私は買い物客よ、干し魚とかお芋とか、日持ちのする物を買いに来ただけです! こっちから来たのは……たまたまですっ! ノルウェーは広いもの! 何処から来たって良いじゃない!」
「ふーん、お嬢ちゃんみたいに気が強い女こそ怪しいもんだけどな」
「だから違いますっ!」
否定をしていると息を切らしたウィルが追い付いてきた。
無数のランタンの明かりに照らされた自分と船乗りを交互に見て、どこか困ったように眉を下げる。
「クララ……っ! 良いから先に行きましょう。そんなに時間があるわけではありませんよ」
「でも腹が立つじゃないっ! 来た方角だけで難癖をつけられるなんて!」
宥められても怒りが収まるわけではない。むすっと言い返すと、「ぷっ」と表情を緩ませたウィルに小さく笑われた。
何かを思い出したのか子供のようにあどけない笑みが珍しく、一層気に障った。
「なに笑ってんのよ!」
「いえ、なんだか、その……貴女らしくて、元気だなあと思いまして」
「なによそれ、嬉しくないっ!」
のんびりとしたウィルの口調に絆されかけるも、どうして通貨も分かっていなさそうなこの青年に諭されなければならないのだ……と言う気持ちもあり、ふんっと鼻を鳴らして返す。
「あーあんたら盗人じゃねーなー……」
自分達のやり取りを見ていた船乗りが、腑に落ちたとばかりに呟く。こちらを観察していたままの緑色の目が眩しそうに細まった。
先程よりも優しいその表情に「実は良い人?」と思いかけた時。
「駆け落ち中だな? ご苦労さん」
からかうように船乗りに告げられた。
「えっ」
動揺したウィルの動きが止まり、自分の動きまで止まってしまった。どうしてか心臓を直接掴まれたかのようだ。
時間が止まったかのように、一転して周囲が静かになる。聞こえるのは市場から聞こえる客引きの声だけ。
海から吹く風に乗った潮の香りと、市場特有の生臭さ。
それらが不意に濃くなったように感じた。
***
主人がレオンを見てくれている間、リーナ・シュルルフはトロムソの大通りを港に向かって走っていた。
アストリッドは屋敷のどこにも居なかったので、外に出た筈。しかし不思議な事に、直前まで寝台の下に居た令嬢の足跡は降雪しているとは言え玄関にすら無かった。
すぐ近くの森には複数人の足跡があったが裏庭には無かったので、森の中のあれらがアストリッドの物とは考えにくい。
主人はアストリッドの行方――最低でも何らかの情報――を掴まない限り、レオンを医者に診せるお金はくれないだろう。
「きゃっ!」
雪の下に埋もれていた石に気付けず、どさっと勢い良く顔から転んでしまった。
大通りという事もあってか、踏み固められた雪は茶色くてところどころ剥き出しに近い。顔が擦れる痛さと冷たさもあって、すぐに顔を上げ立ち上がった。
「レオン……っ」
死んでしまった夫と同じ名前を付けた、何よりも大切な命。気付けばその名前を呟いていた。
――僕に何かあったらお腹の子を頼んだよ。
ふと脳裏に夫の最後の言葉が蘇る。優しくて勝手で、正義感の強い人だった。
涙が出るのを我慢しようと鼻を啜った時、鼻の奥にツンとした鉄の味を感じた。どうやら転んだ時に鼻血が出てしまったようだ。今自分は毛むくじゃらのトロールよりも酷い顔をしているだろう。
「――」
服が汚れるのも構わず袖で鼻を拭ってから口ずさんだ歌には、ヨイクというサーミ伝統の歌唱法を採った。ヨイクで歌を歌うと夫の事を思い出して、挫けそうな気持ちを鼓舞出来る。
改めて、自分にとってレオンがどれ程大切な存在なのかを痛感した。
それだけに、今まで見た事の無いような高熱を出しているのが怖かった。レオンがもし死んでしまったら、自分が生きている意味なんて無いと言うのに。
何事も無いのが一番ではあるけれど。そうでは無かった場合。
もしも自分が死んでレオンが助かる道があると言うのなら、自分は喜んでこの命を差し出すだろう。
その事実を噛み締めながら大通りを駆けていった。
***
「かかか駆け落ちぃ!? 何馬鹿な事言ってるんですか!」
一瞬だけ訪れた静寂を破ったのは、アストリッド・グローヴェンの何時もより裏返った声だった。
隣に並んだウィルも口を開けて呆然としている。今の自分には腹の立つ表情だ。
「人目を避けて来たし、買う物も買う物だ。それに若い男女……と来りゃ駆け落ちしかねーだろ。違うのか?」
「違います!!」
どこかニヤついた船乗りの言葉を間髪入れず否定するが、信じてくれなかった。「まあ頷けないよな~」と目を細める厚着の男に、「だから違います!」ともう一度声を張る。
ウィルが固まったのもきっと勘違いされている一因だ。この青年は集団生活を送っていないようなので、こういうおちょくられ方に慣れていないのだろう。
「もう、ウィルも何か言いなさいよ……!」
船乗りが依然としてニヤついたままなのも気恥ずかしさを煽って来て、間を作りたくない一心でウィルを小突いた。
おかげでウィルもハッとしたようで、倉庫前にどこかわざとらしい咳払いが響いた、その時。
「ルーベン船長、さっきから何をうるさくしてるんですかい」
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