止まり木旅館の若女将

山下真響

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止まり木旅館の住人達

楓の敗北

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◇楓

 里千代様は、足取り軽くお座敷に戻ってらっしゃった。相当我慢してらしたのね。ちょっと申し訳ないことをしてしまったかも。

「楓さん」

 彼女は、凛としていて、物静かなお方だ。そして、大変無表情である。でも、よく観察していれば、多少の感情の起伏がお声や口元から読み取れる。今はどうやら、イライラしておいでのようだ。
 私は「はい」と返事すると、里千代様の方を向いて座り直した。

「私、老舗旅館の孫娘なのです」

 えぇ、存じております。それが何か?

「あなたみたいな方が女将だなんて、私、許せません!」

 は? まさか、そんなクレームがくるとは……。というか、なぜ会って間もないのに全否定?! あなたみたいなロボット女よりは人間味があって可愛らしい自信あるわよ?
 彼女は、説教を始めた。

「特に、その髪!! 何て色で染めているのですか?! 女将ならば、もっと上品で大人しい色であるべきです! そもそも日本人なのですから、元々の黒で十分……あ、白髪が目立たないようにするためにそんな色を……ごめんなさいね、私ったら」

 何、勝手に納得してるんですか?! この色は、地毛です! そして、まだ白髪なんて生えてません!!
 彼女の勢いは、まだ収まらない。

「そして! 翔さんをここに縛り付けているのはあなたですね? 彼は『豊福富庵(とよふくふあん)』でこそ、実力を発揮できるお方。あなたのような下賤で下品で……」

 里千代様は、私の胸元を注視した。

「……そんな方が独占して良いものではありません!」

 絶対、小さいって思ったよね? 絶対に私のこと憐れんだよね? なのに、あえて口に出さないなんて、里千代様は優しいのか何なのかは、私には分からない。とりあえず、身体の奥底から言いしれぬ怒りが湧き上がってきていることだけは確か。
 
 翔が、私に目配せして「俺が対応しようか?」と聞いてきた。いえ、これは、私が売られた喧嘩。私が正々堂々買ってあげるわ!

「彼が止まり木旅館に参りましたのは、私が物心つくか、つかないかの頃のことです。その後も、彼がここから出て行こうとするのを止めたこともなければ、そもそも出て行こうなんてしないものですから……。彼は、共に止まり木旅館に身を捧げ、盛り上げてきた仲間であり、私の家族なのです。これだけ長年一緒に居りましたら、大抵の心の内は互いに分かり合っておりますし、お客様のご心配には及びません。」

 私は、『長年』とか、『分かり合って』の部分は特に強調しておいた。
 
 そりゃあ、私が翔のことを男の人としてちゃんと認識して、好きだって自覚したのは最近のことだけれど。でも、それまでだって、とても大切な家族だったし、そういう意味ではずっと彼に対して愛情を抱いてきたことになる。ぽっと出の彼女なんかに、奪われてなるものか! それに翔もあの日、押し入れの中で、小さい頃からずっと私のことが大切だったって言ってくれたもの。
 私は、勝ち誇ったようにほほえんでしまったが、それはすぐに覆されることになる。


「年月が何ですか? 私、翔さんが空大町(そらひろまち)にいらっしゃる時は、常にボディガードとしてお側におりましたのよ? ですから、彼の好みや癖、何でも知っておりますわ! あなたと何が変わるというの?」

「でも、私には、彼とたくさん過ごしてきた思い出があって……」
 
「それは、あなたがそう思っているだけかもしれないでしょう? でしたら、彼について私よりも知っていることなんて、あるのかしら? 例えば、翔さんがどうやってこのお宿にいらっしゃったのかなど」

「……」

「あら、何も知らないのですね。そんな状態で、彼のことを知っているかのように語るだなんて! それならば、彼は私がいただきます」

「ですが、お客様。連れ帰るとおっしゃられましても、簡単にはまいりません。当旅館からお帰りになるための扉は、お客様ご自身が当旅館にご満足いただけない限り、開かない仕様になってございます」

「……どうしてこんな変な旅館なのに、満足度が高いのかしら。とても理解できないわ」


 里千代様はすくっと立ち上がると、正座で座っている私を冷ややかに見下ろした。

「私、翔さんが手に入るまでは、満足できないと思います」

 そうおっしゃっると、犬を追い払うかのように、手で客室から下がるよう促されてしまった。私は、翔と顔を見合わせた。ここには、翔本人もいるのに、こんな態度で翔の心象が悪くなるとは思わないのだろうか。
 その時、廊下の方から物音が近づいてきた。

「失礼します!」

 返事も待たずにずかずかと座敷に上がってきたのは、椿さんだった。

「楓さん、お客様がいらっしゃったって聞いたのですが」

 ん? お客様ならば、椿さんの目の前にいるわよ? 椿さんは、ようやく気づいたのか、里千代様の方に目を向けた。
 
「わぁ! これ、どうしたんですか?! すっごく良くできた日本人形ですね! もしかして、前のお客様の忘れ物ですか? そうですねー、玄関に飾るには大きすぎるし……やっぱり『遺品展』のコレクションに加えるべきでしょうか……」

 実は、『遺品展』はまだ展示したままなのだ。ちなみに、私の寝間着である浴衣は無事に回収して、いかついおっさんマネキンは倉庫に片付けてある。いや、そうじゃなくて! これは一応人間で、人形じゃありませんから!!
 椿さんは、驚いて微動だにしない里千代様に近づくと、「よっこいしょ」と言って彼女を少しだけ持ち上げた。

「楓さん。これ、けっこう重いですね」

 本当に重いのは、あなたが今しがた犯した罪と、馬鹿さ加減です!

 けれど、彼女を持ち上げられるだなんて、やっぱり男の子だったんだな。里千代さんは、白目を剥いて気を失っている。いかにもお嬢さんっていう感じの方だから、こんな扱いを受けたのは初めてだったのでしょうね。
 
 本来ならば、すぐにでもお客様に椿さんの無礼を謝り倒すところなのだけれど、なかなかそんな気にもなれない私だった。

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