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 陽炎かげろうで、遠くの地面が揺らめいている。冬樹はその陽炎かげろうを追い掛けるように歩いていた。

 彼が進むごとに、陽炎かげろうが産み出す幻の水たまり――かがみが、歩調に合わせて逃げていく。
 少しして、車が対向するようにかがみの上を走って、こちら側へと近付いてきた。
 車と一緒に、地鏡の影も走って近付いてくる。

 しかし、間も無く影が消えて、うつつの車だけが冬樹の横を走り去っていく。
 それを立ち止まって見送った冬樹が、携帯端末を取りだし、画面と町並みを交互に見やりながら歩き始めた。

 ようやく警官が言っていた細い道を見つけ、ホッと一息ついた冬樹が、その細道へと入っていった。交番を出て十数分後のことだった。
 両側に塀と家が並んでいるから、道は影で覆われている。影の上を歩くだけでも随分と暑さが違う。
 冬樹の足取りも、先程より軽やかになっていた。

 海側から遠ざかるように進んで行くと、じきに開けた場所に出て、少し道なりに進んだところで、小さいながらも立派な格子こうし付きの門が現れる。
 表札には『』と書いてあった。

「ここやな……」

 そう言って、ハンカチで額やのど元を拭った冬樹は、長い話し合いになるかもしれないと覚悟しつつ、呼び鈴をしっかり鳴らした。

『はい?』と、スピーカーから女性の声がする。
「あ、初めまして。自分は西さい大学のかみやま冬樹と申します。
 さんがお持ちであった人形について、少々、おきしたいことがありまして……」

『え? 人形……?』
「鏡を持った、巫女みこの姿をしている人形なんですが…… ご存じありませんか?」
『どんなご用件です?』

「交番でこちらのお宅のことを教えていただきまして…… ご迷惑と知りながら、お伺いしました。実は少々、お話がございまして…… どうしてもおきしたいことがあるんです」

 冬樹はあえて、教授のことを出さないようにしていた。理由は単純に、教授が伊賀の死去のことを知っているかどうか分からないからだ。
 出張しておらず、連絡が取れていれば良かったのだが……
 冬樹は後々、教授に対しても適当な言い訳が出来るようにと考えながら、話を続けた。

「インターホン越しでも構いませんので、お時間いただけませんか? セールスとか勧誘目的ではありません。どうしても巫女みこ姿の人形のことで、おきしたいことがあるんです。確か、伊賀さんの持ち物でしたよね? あの大きな鏡を持った人形」

 しばらく沈黙が流れたが、『ちょっと待ってて下さい』と聞こえて、インターホンが切れた。
 すぐに、引き戸の玄関から中年の女性が出てくる。彼女は門をあけず、格子こうしの隙間から冬樹をうかがっていた。

 冬樹はと言うと、あらかじめ用意してあった財布から学生証を取りだし、

「改めまして…… 西さい大学の神山冬樹と申します。初めまして」と、また自己紹介した。
「学生さんが、ウチになんの用です?」と、学生証をチラ見しながら言った。
「この人形、見覚えありますかね?」

 冬樹は携帯端末の画像を女性へ見せながら言った。

「ええ……」

 女性が明らかな嫌悪けんおの目で人形を見ている。大して、冬樹の顔は若干ほころんでいた。

「お話によると、この人形の持ち主である伊賀さんが、にお住まいやとお聞きしたんで…… 急に押しかけて申し訳ありませんでした」
「ひょっとして、オークションのことで何か?」
「オークション?」

 冬樹がそれとなく、意外そうに答えた。
 彼女はフリーマーケットをオークションと誤解しているらしかった。しかも困惑したような、疑いを深めているような、微妙な表情となっている。
 だから、冬樹はすぐさま尋ねるように話を続けた。

「初耳ですね。オークションで落札した人形なんですか?」
「いえ…… こちらが出品したものです。
 正確には、淡島神社で処分するようにって条件で出してた人形やったんですけど……」
「ほな、別の出品物があって、それの購入条件に人形処分を入れてあった感じですか?」
「そうです」

「オークションの件は知りませんでした。
 知人の話やと、巫女みこ姿の変わった人形を処分しようとしてた人がおって、譲ってもらったらしいんですよ。
 ただ、供養の受付のあとやったさけ、単に譲って頂くというのも具合悪いやろうと言うことで、宮司ぐうじにも来てもらって、供養の儀式を終わらせてからと言う形で話しつけたらしくって」

「はぁ」
「その話の中で伊賀さんの名前が出てきたんで、忙しい知人に代わって、民俗学の研究をしていらっしゃる方とお話が出来たらなと思いまして」
「研究やなんて…… ただの道楽でしかないですよ」

 まだ怪訝けげんな顔で答える女性。こちらの嫌疑は晴れていないらしい。
 冬樹はさっさと本題へ入ろうと、半ば、強引に話を続けた。

「この人形、どういう経緯で? 関西の人形屋で購入されたんですか? それとも骨董品として?」
「その人形、祖父そふの手作りなんです」

 女性がキッパリ言った。

「えっ? 手作り?」
「せやさけ、その人形自体に歴史的な価値なんて、これっぽっちもあらへんのですよ」
「そうですかね?」

 女性が詰問きつもんに入らぬよう、冬樹が疑問をていした。

「新しく見えますけど、実際はメチャクチャ古い人形でしたよ? 趣味レベルの手作りと言うには、あまりに精巧な作りですけれど」
「作ったのが随分と昔やからとちゃいますか? それに、手先も器用な方でしたし」
「では、神社にまつってありそうなこの鏡も、手作りなんですか?」

 冬樹が急に、画像の中の神鏡を指差しつつ話題を変えた。

「鏡は……」と、画面を見やる女性。「ちょっとウチには分かりかねます」

「そうですか……
 あの、申し訳ないんですけど、人形を作ったと言うお父様とお話しさせて頂けませんか?
 とにかく僕は、オークションのこととかさっぱり知らんのです。純粋に、持ち主本人からお話をおきしたいなぁと思って、ここへ来させて頂きました」

 冬樹は当然、亡くなっていることを知っている。だからこそ、ボロが出ないように努めて話を続けた。

「あの人形は民俗学上、非常に興味のある箇所がありまして…… その辺りのことを知人と調べているんです。
 それに繰り返しになりますけど、あの人形は職人とちゃう人が作るのは無理があると思っていまして。――ひょっとして、何かワケありで出品を?」

「ワケありと言うか…… 遺品を出品したものなんです」
「えっ、遺品? まさか亡くなられたんですか……?」
「ええ、半年ほど前に」

 冬樹が神妙なおも持ちで、「そうでしたか、なるほど……」と言った。「そういう事情でオークションに」

「せやから、ウチに色々とかれても分かりません。第一、あの人形のことなんて、これっぽっちも知らへんのです。
 わざわざおおさかから来てもろてアレですけど…… お答えできるようなモンは何もありません」

「いえ、お気になさらず。
 言い方が悪いんですけど、小学校で吹奏すいそう楽の演奏会したついでに来ただけやったんで……」
「演奏会?」
「ええ。紀州きしゅう大学の人たちと合同でやったんです。また機会があれば聞きに来てください」と、笑顔で会釈えしゃくする冬樹。「あの、ついでにもう一つだけ……」

「なんです?」
さんは紀州大学の雜賀さいか教授とも親交があったみたいですけれど、どんな研究やってたんですか?」
「さっきも言いましたけど、研究家なんかとちゃいますよ……
 まぁ、本人はえらい熱心にやってたみたいですけど。そのせいで、何回か警察の人に職質やら注意やらを受けてたみたいです。そんな人が研究家に思えます?」

 女性が皮肉まじりな表情で言った。
 冬樹はあいづちを打つように苦笑っている。
 ――どうやら彼女と父親の関係は、あまりかんばしく無かったらしい。
 彼女は続けて、

「交番の警官、すぐウチの父やって分かったんとちゃいます?」
「ええ、まぁ…… ぶっちゃけ、あんまり情報なかったんで、こちらとしては大変たすかりましたけど」
「まぁ、そういう経緯もあって処分しておきたかったんです。気持ち悪いでしょ? あんな物……」

「なるほど」と、合いの手を入れるように納得しつつ、「あの」と冬樹が話を変えた。

「ちょっと気になったんですけど、なんで人形供養を誰かに任せたんです? ここからやったら淡島神社、そんなに離れてませんよね?」
「あたし、あそこ苦手なんですよ」
「気味が悪いから?」

「ええ、そうです。あなたは大丈夫そうですね?」
「霊感みたいなのは一切ないんで」
「昔から色々と、いわく付きの場所なんですよ…… 下着も拝殿へ投げ込まれてるくらいなんで」

 普通に初耳の情報だったので、冬樹は純粋に驚いた顔を見せた。

「子供の頃に行って、それっきり近付いてません。神社やったら近所の春日かすが神社で間に合ってますから」

 女性の表情と話し振りから、人形の処分を購入条件にしていた理由がなんとなく分かった冬樹が、

「大変、失礼なことお伺いしますけど……」

 と、話題を変えた。

「遺品整理のとき、例の人形に関する研究資料なんかも捨ててしまいましたか?」
「研究資料……?」

「実はですね、僕の知人もさんと同じように、民俗学に興味がある人間でして…… 何を隠そう、僕も最近、同じ道に入った新米なんです。その知人は仕事で、今日はられへんかったんですけど……
 雜賀教授はその筋では有名でして、さんも一緒に調査をしてたとか聞いたことがありましてね。――それにほら、ブログなんかも熱心に書いておられたやないですか」

「そうなんですか? 知りませんでした」

 冬樹は苦笑いしつつ頭をかいた。それから、

「実は、ここへ来た理由の一つに、伊賀さんの研究成果を見せて頂けたらなぁって、思うてたってのがあるんですよ」と言い、間があかぬように続けた。

「変な感じかもしれませんけど…… 歴史や工芸品に興味がある人間からすれば、ようかいやら幽霊を知ることは、日本の風俗史や歴史を知る、貴重な機会なんです。
 せやから、僕らは気味が悪いとは思ってないんですよ。そうでないと学部におる知人みたいに、人形アレを引き取ることもないんで。――ひょっとして、雜賀さいか教授に差しあげてしまったあととかですか?」

 中年女性が何やら、考えこんでいた。
 冬樹は彼女の微細な変化も逃さないと言わんばかりに、ジッと見つめている。

「実は」と、女性が口を開いた。「処分しようと思ってたノート類をおしいれいっぱなしにしてたみたいで…… ちょっと困ってたんです」

「そうなんですか?」と、食いついた。
「ええ。せやから引き取ってもらえるんなら、その方がありがたいんですけど……」
「それやったら、ぜひ引き取らせてください。大学で保管しておくんで、いつでもお返しできますし」

「いえ、不必要になったら処分してください。それが条件と言うことで……」
「分かりました。──あっ、量は多いんですか?」
「そうですね…… このくらいの段ボールのサイズ、二つ分はあります」

 そう言って、女性が肘を曲げた『前にならえ』の形で、大きさを示してくれた。三〇cmくらいの幅がある。

「厚さはどれくらいですか?」
「これくらい、やったかな?」と示す女性。
「それくらいやったら袋に入れて、持って帰れそうですね。──ああ、袋は演奏会のときのモンがリュックに入ってますさけ、大丈夫です。ありがとうございます」

「ただ、内容が間違ってるとか、そういうことがあっても責任は負いませんから。あと、処分はそちらでお願いしておきます」
「ええ、もちろん」と何度もうなずく冬樹。「処分もこちらでやっておきますし、そちらに何かありましたら、大学の方へ連絡いれて下さい。人形共々、こちらで管理と供養をさせて頂きますので。
 あと、学部番号と教務課への連絡先、メモに書いて渡しておきます。何かあれば連絡してくだされば……」

「それじゃあ、持ってきますね」
「ええ、お手数ですがよろしくお願いします」

 冬樹が深々と頭を下げて言った。
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