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その女神、奇行

女神の器(4)

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 下に着地したあと、アッシュはそこで初めて自分の服を見た。地下牢にいた時には身につけていなかった筈だ。その上、何故か胸の辺りに血がついている。おおかたカーライルが運ぶ際に彼女に被せたのだろう。
 しばらくその血を眺めたあと、不意にその血がついている部分をしゃぶった。

「不味い」

 そうは言いながらもしゃぶり続ける。そしてそのまま歩き出した。
 広い城の敷地とはいえ、誰ともすれ違わないわけではない。彼女は幾人かの女中や戦士、家臣とすれ違った。
 血のついた、大きな戦士の服を着た、綺麗な顔をした金髪の男とも女ともつかない者。それが、その血をしゃぶりながらフラフラしているなど、可笑しいと思わないほうが変だ。ついに彼女は1人の女中長に呼び止められた。

「アナタ!少し止まりなさい」

 そう言われて止まるような人間ではない。そのまま知らん振りで女中長の隣を通り過ぎる。

「お待ちなさいと言っているでしょう!」

 女中長はアッシュの腕をつかもうと手を伸ばした。それを見向きもせずに最小限避ける。伸ばされた手は空を掴み、逆にアッシュに捕まった。後ろ手に掴みあげられる。

「いっ……!」

 痛いと言う間もなく、足を掛けられ泥だらけの地面に押し倒された。そして更に捻り上げられる。

「痛い、痛い!お離しなさい!あぐぅっ」
「おい。誰に向かって口聞いてるの、女」

 耳元で低く囁く。その声は暗く、冷たく、深い水底のようだった。

「アナタこそこのアタクシに向かって何たる口のききかた!早く離しなさい!」
「ふーん」

 そう言うと一瞬にして女中長の肘の関節を外してしまった。あたりに響く女の絶叫と楽しげな笑い声。その声が聞こえたのか慌てた様子で、パウロが行儀も忘れ窓を乗り越えてきた。

「ご、ご主人様!あぁぁぁ、なんてことを!」

 1人でオロオロする少年に屈託のない笑顔で笑いかける。

「やぁ、パウロ。よくここがわかったね」
「じゃないですよ、ご主人様!はわわ、女中長様、申し訳ございません!早くご主人様、その方から降りてください!」

 仕方がないといった様子で女中長を解放する。

「すぐそこに戦士の方がいたので呼んでくるので、ここに居てくださいね!ご主人様、動いちゃだめですよ!」

 そう言いながら走って見回りの戦士を呼びに行った。
 動くなと言われたアッシュは、肘を抑えて苦悶の表情で佇む女中長に近寄った。そして、ニッコリと笑って美しい天鵞絨人形のような顔を耳元に近づけた。

「ねぇ、痛い?生きてるって感じる?」

 純真無垢な声だが、その根本は実に冷たい。それを聞き、女中長の顔がどんどん凍りついていく。
 離れた彼女はもう一度ニッコリと笑った。しかし、彼女の顔の左側は別人になっていた。表情はアッシュの物だが目は彼女ではなかった。瞳は混沌とした色。蛇の目のようだった。
 突然、左の拳で自分の顔を全力で殴った。

「出てくるな、化物が」

 立て続けに二発。彼女の顔は腫れたが目はもとに戻った。

「あ、あなた……。テルミドネ、なの?」
「女は黙ってろ」

 もう1発殴ったところでパウロが戦士を連れて帰ってきた。

「ご主人様!人を連れてきました!」
「ありがとうパウロ。その手に持ってるのは?」

 ハッとしたように、大事そうに抱えていた服を差し出した。

「ご主人様の新しいお召し物です!」
「いい子だ」

 小さなキノコ頭をポンポンと撫でる。その手から服を受け取ると、いきなり着替えはじめた。
 あまりにいきなりで、女中長も戦士も呆気に取られた。パウロはその小さな体で必死にアッシュのあられもない姿を隠そうとするが隠しきれていない。
 我に返った女中長が慌ててアッシュの体を隠しつつ、

「見るんじゃありません!後ろを向いてらっしゃい!」

 と戦士を叱責した。そう言う間に着替え終わったアッシュはパウロの手を引いて地下牢の方へ向かって歩いていった。
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