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第2章 久瀬玲華

1年と数ヶ月ぶりに触れた彼女は⋯⋯

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『⋯⋯助けて』

 打ちひしがれた玲華を見て、電話越しでの彼女の声が蘇ってくる。
 もしかして⋯⋯本当に玲華は、俺に助けを求めていたんじゃないだろうか。
 この状況から助けてほしくて。この苦しみから解放されたくて。
 俺は役者じゃないからわからないけども、役者にとって自分が作り込んだ役を否定されるというのは、自分が否定されるたも同然なのではないだろうか。
 玲華は今、自分を全否定されて苦しんでいるのではないだろうか。
 凛が自分を全否定されたと感じたように。
 玲華もまた、今そうなっているのではないのか。

「玲華⋯⋯」

 声をかけて、肩に手をかけようとすると。

「⋯⋯ダメ」

 小さく震えた声で拒否された。

「ショーが優しいのはよく知ってるよ⋯⋯でも、今はダメ」

 その姿はあまりにも痛々しくて、抱きしめてあげたくなる。罪悪感も背徳感も全部背負って、ただ目の前で泣き崩れる彼女を救いたかった。

「嘘ついて呼び出して、それでこんな泣き言行って慰めてもらってたら⋯⋯私、リンよりも、もっとズルい女になっちゃう」

 苦しい時に苦しいっていうのはズルいのか。
 凛も、玲華も⋯⋯どうしてそんなに自分に厳しく生きていられるんだ。

「⋯⋯こんなつもりじゃなかったのにな。ちょっと会って、話して、君をからかって⋯⋯それで元気もらいたかっただけだったのに」

 思い出しちゃった、と大きく溜息を吐いた。

「一昨日もそう。他校の学祭であんなことするつもりなかった。あんな大事になんてするつもりなかった。ちょっとショーに会えて、ちょっと話せたら⋯⋯それだけでよかったのに」
「⋯⋯⋯⋯」
「でもさ、君達すごく楽しそうだった。私がこんなに苦労してるのに。腕なんか組んじゃって、私がしたかったこと、できなかったことしてて⋯⋯羨ましかった」

 玲華は、俺が凛と2人で学祭を回っているところを見ていたのだ。
 それでだったのか。
 彼女があんな大胆なことをしたのは。本当に凛が憎かったのか。だから、ああやって大衆の前で凛を挑発して、叩き潰そうとしたっていうのか。
 それに対して怒りを覚えないと言ったら嘘じゃない⋯⋯他にやり方があるだろうと言いたい。
 でも、こんな風に玲華を苦しめている俺が、どの面下げて言えるっていうんだ。
 何も言えない。彼女が苦しんでいるのは、俺のせいなのだから。

「ほんとは今日、無理矢理オフにされたんだ。役作りしてこいって言われて。そんなの、急に作り込めって言われたって⋯⋯無理じゃん。丹精込めて作った〝優菜〟を殺して、別人に変えろって⋯⋯1日で変えれるわけないじゃん」

 玲華はまた顔を伏せて、静かに泣いた。
 ──無理じゃん。
 こんな言葉が玲華の口から出てくるとは、思ってもいなかった。
 どんな大変な事でも、なんでも軽くやってのける。それが久瀬玲華だと思っていたから。
 でも、違ったのだ。俺からしたら超人みたいな玲華でも、無理と感じることがある。俺や凛のように⋯⋯諦める事がある。
 俺は、何にも彼女のことをわかっていなかった。

「あの時さ」
「ん?」
「あの、自販機でコーヒー奢ってくれた時」
「ああ」
「ほんとは私が撮影の足引っ張ってたんだ。正確に言うと、私と準主役の女の子が、だけど」

 俺にはあの時の玲華はすごく輝いていたように見えた。
 それでも、ダメなのだろうか。そんなに厳しい世界なのか。

「私もだけど⋯⋯もう一人の子も結構キツそうでさ。笑うでしょ。主役と準主役がダメだしされすぎて撮影にならなくて、今日は私達抜きで撮影してるの。私達がいなくていいシーンの」

 それでも玲華は逃げない。
 彼女が強いから。
 俺なら絶対に絶えられない屈辱にもこうして耐えている。たった一人、家族もいないこのアパートで。

「きっと、バチが当たったんだよね。リンにもあんなひどい事言って、結局自分もこのザマ。何がズルい、よね⋯⋯私が一番ズルいっつーの⋯⋯」

 何も言ってやれないもどかしさ。
 何もしてやれないもどかしさ。

「ごめん⋯⋯もう帰って。泣き言止まらなくなりそうだから」

 自分よりもはるかに頑張っている子にかける言葉なんて、何もありはしない。
 俺はあまりにも無力だ。無力すぎて、何も言ってやれない。

(だから、せめて⋯⋯)

 黙って立って⋯⋯膝を抱えて座ってる彼女をそっと抱き締めた。
 いつかのように柑橘系の香水の匂いで鼻孔が満たされて、一気に記憶が過去へと戻される。
 1年と数ヶ月ぶりに触れた彼女はとても弱っていて⋯⋯冷たかった。

「ショー⋯⋯君、バカだよ⋯⋯」

 バカだ。本当に。
 どうしていいのかわからなくて、どんな言葉をかければいいのかもわからなくて⋯⋯結局こんなことしかできない。こんなことしたって、誰も救われないのに。
 彼女はそれからも静かに泣き続けていた。
 俺の肩をぎゅっとつかんで、嗚咽を殺すように。
 そのまま何も話さないまま、時間だけが過ぎた。それから数分だろうか、何十分だろうか。時間もよくわからないが、しばらくそうしていた。
 気持ちが落ち着いてきたのか、嗚咽が収まってくると、彼女はぽんぽんと、俺の肩を叩いた。

「⋯⋯ありがとう、もういいよ」

 ゆっくりと彼女から離れる。
 初めて見る、彼女の泣き顔。とても愛おしいけれど、そう感じてはいけないと思う自制心もどこかにあって。
 本当に、俺は何を考えているんだろうな。

「私⋯⋯たくさんズルしちゃったから、ペナルティが必要だね」
「ペナルティ?」
「ううん、こっちの話」

 言って、彼女は立ち上がった。立ち上がって、俺を追い出すように、背中を押してくる。

「わ、なんだよ」
「もういいから。ほら、帰った帰った!」

 いきなり追い出される方の身にもなってほしいのだが、彼女の声はさっきよりも元気そうだ。正気がしっかりと戻っている。
 押し出されるように玄関まで追いやられ、よくわからないまま靴を履かされる。
 玄関に腰掛けて、座って靴を履いていると──そっと、彼女を後ろから俺に覆いかぶさってきた。
 彼女の柑橘系の香りが、俺を包み込む。

「ショー⋯⋯ありがとう」

 耳元でそれだけいうと、名残惜しそうに離れる。
 帰り際に小さく手を振るので、それに応えて⋯⋯彼女の部屋を出た。
 もう空には月が登っていて、暗くなっていた。

(結局、課題出せてないし)

 もう郵便物はポストから収集されてしまっているだろう。
 何やってんだか。
 俺も、何やってんだか。
 でも⋯⋯彼女が少し元気になってくれたかと思うと、なんだか少し心が晴れやかになっていて。
 これでいいはずがない。でも、今だけはきっとこれでよかったんだと、自分に言い聞かせた。
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