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第5章 想い出と君の涙を

5章 第15話

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 アメバTVの公開収録生放送が始まった。
 スタジオ上部にあたる2階部分には大きなディスプレイがあって、収録中の番組をそのまま映し出している。
 公開生収録には、多くの人が閲覧客として集まっていた。
 俺もスタッフパスを持っていながら、外で他の観客と同じように見ていた。公開収録スタジオはガラス張りになっていて、そのやり取りを直に見れるのだ。
 控室にもディスプレイがあって見れるが、それでは俺がわざわざ東京まできた意味がない。彼女の視界の中にいて、俺がいる事で安心させてやりたかった。
 もちろん、内側ではなく、外側から彼女を見たいと思ったというのもある。
 ただ、この生放送がどんな結末を迎えるのか、いち観客として興味があったのだ。観客の反応を直に見るには、観客席から見るのが一番だ。
 生放送と言っても、番宣がメインの番組だ。もともとの筋書きはほとんど台本通りで、打ち合わせ通りに番組アナウンサーが話を進める。
 さっき打ち合わせした通りに、映画の見所やトラブル、面白エピソードなどを玲華や陽介さんが話す。凛は、玲華やアナウンサーが話を振った時に話す程度。そんなに前に出て話す役ではないようだ。
 それももっともで、玲華と陽介さんは所属事務所があって、主演の2人だ。無所属でしかも代打の凛にあまり話させるわけにもいかないというのが、所謂大人の事情なのだという。
 全てが台本通り。笑うところも、全て。少し玲華が面白がってアドリブを入れて、陽介さんやアナウンサーを困らせている程度だった。見ている人にはわからない、台本を知っている人だけがわかる遊び。玲華の悪戯好きは相変わらずだった。凛もそれを見て笑いを堪えている。
 しかし、この生放送の中で、唯一台本がないところがある。それは、最後の凛の番宣という名のスピーチ部分だ。玲華、陽介さんが話す内容は決められている。しかし、凛だけ決められておらず、5分以内に好きに話せ、と言われているのだ。
 それを指示したのは、驚いた事に、なんと犬飼監督なのだと言う。これは嫌がらせでも何でもなくて⋯⋯犬飼監督は、番組の宣伝よりも、凛に自分の言葉で釈明する機会を与えたのだ。
 鬼だ何だというが、凛はかなり犬飼監督に気に入られていたのだろう。でなければ、わざわざこんな機会を与えない。あの人は映画の事となると鬼のように怖いが、人情味あふれた人なのだ。それこそが、彼が名監督で居続けられる秘訣なのかもしれない。

 放送は滞りなく進んで、いよいよ最後。玲華と陽介さん、そして凛の番宣コメントだ。
 玲華と陽介さんは、それぞれ決められた内容の宣伝を話す。何の変哲もない、みんながよく言うような番宣コメントだった。
 そして⋯⋯凛に順番が回ってきた。緊張で俺の息が詰まりそうだ。

「それでは、RINさん。最後に、どうぞ」

 司会の女性アナウンサーが、凛ににこやかに回した。
 凛は「はい」と頷き、正面のカメラを見据えて、大きく深呼吸をした。少しの沈黙を経て⋯⋯正面のカメラに向かって、ゆっくりと話し出した。

「今年の夏⋯⋯私は、たくさんの人に迷惑をかけました」

 カメラを見据えるその眼差しは、迷いがなく、真剣なものだった。
 観客達も、そしておそらくスタジオの中もだろう。彼女の緊張感が伝わってきて、聞き手の表情が変わる。

「所属事務所や家族、REIKA、クライアントの皆様⋯⋯それに、応援してくれていたファンの皆様の期待まで裏切ってしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」

 凛が立ち上がって、深々と頭を下げる。
 観客の連中も、何も言葉を発しない。凛の言葉一言一言を聞き逃さないように、耳を澄ませていた。

「全ての原因は、私が弱かったからです」

 顔を上げて、凛は再び話し出す。

「私は⋯⋯自分が嫌いでした。何をしても勝てない人がいて、その人と比べる事でしか自分の価値を見出せないような⋯⋯そんな弱い人間でした。でも、結局私はどれだけ努力をしても、その人に勝てないと気付いてしまって⋯⋯心がぽっきりと折れてしまいました」

 夏の終わりに、俺と出会った頃の凛。当時の彼女は、玲華への敗北感と挫折感で満たされていた。それは奇しくも、俺と同じ敗北感と挫折感だった。

「そんな時に、私は⋯⋯一人の男の子に出会って、恋をしました。好きな人が、できたんです」

 凛は客席にいた俺と彼女の目が合う。それは、言って大丈夫なものなのだろうか。そんな心配をしてしまうが、凛の瞳に迷いはない。

「その人は、背伸びした私でもなく、モデルのRINとしてでもなく、ただ純粋に、一人の人間として、私の事を好きだと言ってくれました。何もかもを無くして、誇りも自信の欠片さえもなくなってしまった私を⋯⋯好きだと言ってくれたんです」

 陽介さんは一瞬驚いた顔を見せたが、玲華は俯いたまま、微笑んでいた。司会のアナウンサーも『これは大丈夫なのか?』という顔を見せているが、この時間は凛に与えられている。誰も凛を止める権限なんて持っていない。

「その瞬間、自分の中で世界が変わった気がしました。すごく嬉しかった。今まで自分の事を好きになれなかったけど⋯⋯その時ほんの少しだけ、何もない弱い自分を好きになれた気がしました」

 凛はカメラだけでなく、観客に目配せしながら、続けた。

「今回"沙織"の代役が決まったのは、ほんとに偶然でした。でも、その偶然ですら、その人がもたらしてくれたものだったんです。その人がいなかったら、私はここにこうしている事もなく、REIKAが私を代役に推す事もなくて⋯⋯一生敗北者として、自分を責めて、自分を呪い続けていたと思います」

 清々しく、晴れ晴れとした表情だった。散々見ている俺でも見惚れてしまうほど、綺麗な表情。こんな凛の横に立っているんだと誇らしく思えるほど、彼女は立派だった。

「撮影が始まってからも、つらい事はたくさんありました。また弱い私が出てきて、心が折れそうになった時もあります。やらなきゃよかったって⋯⋯正直、後悔した時もありました。でも、その人は⋯⋯そんな私を、ずっと応援してくれていました」

 その言葉に、ぶるっと心が震えて、涙腺が緩みそうになる。
 バカ野郎⋯⋯。

「そして今、私はここにいます。好きな人に応援してもらえたから、今この場に立てました。私はやっと⋯⋯強くなれたんだと思います」

 観客も、アナウンサーも、スタッフも⋯⋯玲華や陽介さんでさえ、彼女の言葉を聞き漏らすまいと、耳を澄ませていた。

「その人がいたから、私は嘘偽りのない自分でいられて⋯⋯等身大の私として、撮影にも取り組む事ができました。私は確かに一度引退して、ブランクもあります。引退してからレッスンも受けていませんでした。でも、以前の私にはなかった、本当の強さがあります。そして、その強さを全て"沙織"に注ぎ込んで、演じました」

 凛は、隣の玲華を見る。凛と目が合った玲華はにやりと凛に笑ってみせて、凛もそれに応えるように、玲華に笑みを見せていた。

「この映画『記憶の片隅に』は、原作とは大きく異なるところもあります。でも、原作にはない"優菜"の強さと弱さ、原作にはない"沙織"の強さが、確かにあります。だからこそ、私は⋯⋯原作を知っている人はもちろん、知らなくても、恋に悩んでいる人、苦しんでいる人に見て欲しいと思っています。もし、この映画を通して⋯⋯皆さんの心に何か救いを与えられたら、もう私は芸能界には何の未練もありません」

 一呼吸置いて、凛は正面のカメラを真剣な眼差しで見据えた。

「だからどうか、映画『記憶の片隅に』を⋯⋯宜しくお願い致します」

 凛はそう言い、深々と頭を下げた。
 そして、もう一度顔を上げると、正面のカメラとギャラリーに向かって、優しく微笑んだ。
 その笑顔は、あの時の微笑みだった。
 満月のもとで心が繋がった時に見せた、幸せそうな笑顔。
 迷いや不安もない、心からの笑み。
 誰がどう見ても、この時の凛の笑顔に勝てる人なんて、いやしない。人気高騰中のREIKAよりも、どんな女優やアイドルよりも⋯⋯輝いている笑顔。
 凛のスピーチがスタジオと観客達を飲み込んだ瞬間だった。
 沈黙がスタジオを覆った。アナウンサーも言葉に詰まらせてしまって、場を繋げないでいた。
 そんな中、ひとりの人間が拍手をした。
 拍手していたのは⋯⋯玲華だった。
 玲華は、呆れたような、嬉しそうな、淋しそうな⋯⋯そんな何とも言えないような感情が入り混じったような笑みを浮かべて、心からの拍手を送っていた。
 続いて、陽介さんも『やられたよ』と呆れたような笑みを浮かべて、拍手を送る。
 これはRINがREIKAを喰った瞬間で、そして、それは映画本編の内容を暗示させるかのような光景だった。
 外で公開収録を見ていた観客も、二人に釣られるように、一斉に拍手を送る。「映画絶対に見る!」「RIN帰ってきて!」「応援してる」等と声援が凛に送られていた。

(なんて⋯⋯)

 なんて最高な番宣なんだろう。
 彼女は、自分の引退劇の釈明だけでなく、最後にしっかりと番宣に結びつけたのだ。
 こんな宣伝をされたら、スタッフで参加していて、どんでん返しについて知ってる俺でさえ、見たくなってしまう。
 きっと、この放送を見ていた人も、ここにいる観客の人もそう思ったに違いない。
 凛は俺と目が合うと、ほっとしたような笑みを見せて、肩を竦めていた。そこには、いつもの凛がいて、思わず安心してしまう。

(敵わないな、ほんと)

 俺も肩を竦めて、そんな彼女に向けて、笑みを浮かべるのだった。
 こうして、映画『記憶の片隅に』の番宣生放送は、最高の形で終わった。
 凛は芸能界に未練はないと言って最後を締めくくっていたが、おそらく、もう世間が凛を放っておかないだろう。
 それを感じさせるひと時だった。
 果たして、この番宣を経て、凛はどうなるのだろうか。
 俺は高揚感を隠し切れないまま、アメバタワーの中に戻るのだった。
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