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残り香

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 アパートに帰ってきた俺は、そのまま自室のベッドに倒れこんだ。とても眠くて欠伸を何度もしながら、ぼんやりと見慣れた自室を眺めていたことまでは覚えている。気がつくと、平仁のスーツの上着を頭からかぶり黒のシャツを抱きしめたまま、ベッドの上で体を丸め寝ていた。
 目をこすりながら嗅ぎ慣れた煙草の匂いを吸いこんで、ベッドの隣を無意識に手で探る。人肌がないシーツは冷たく、俺は上着から顔を出して眠い目を瞬かせごろんと後ろを振り返った。
 誰もいない。
 狭いシングルのベッドは硬くて、柔らかく沈む大きなベッドとは違う。
 平仁がいないのだと改めて実感した。
 時計を見れば、もう少しで夕方の四時になろうとしている。長い時間眠っていたらしい。朝方、平仁と一緒にマンションを出たが、一人別の車でアパートに送られ帰ってきた。
 まどろみながらシャツの匂いを嗅いでいると、前が鈍く反応する。出し尽くしたと思っていたそこも、もう回復しつつある。後ろは発情期のせいでずっと濡れていた。
 もう平仁が恋しい。疼く場所はいくら指で慰めても虚しさだけが募る。
 わかっているが、それでもせずにはいられないのだから、どうしようもない。
 下半身だけ脱ぐと指で後ろを探る。朝方まで平仁を飲みこんでいたそこは、簡単に指を体内に迎え入れた。
 何本指を増やしても物足りない。体は反応しているのに、もっと違うものが欲しいと疼いている。
 シャツの匂いを嗅いで、平仁の触れる手の感触や貫かれる熱さを思い出そうとした。でも想像だけでは達することはできない。
 後ろを弄りながら前を扱いた。断続的に前から白濁が飛んだが、頭が真っ白になって絶頂を迎えるような激しさも迸る勢いもなく、だらだらと続く梅雨のような湿り気が残る。いくら出してもすっきりしない。
 生理的に吐き出しはしたが、体に燻るムラムラはかえって強まった。
 夜には会える。そのことだけが今の俺を繋ぎとめている。でなければ、発情期に離れるなんてできない。
 ティッシュで下肢をふき取り、けだるさを覚えながらベッドから起き上がる。
 皺になっていた平仁のシャツと上着はハンガーにかけた。その際シャツの裾に涎のあとがついているのを見つけて、慌ててティッシュでふき取る。発情期が終わるまで返さないし、洗濯もしないから、できるだけ汚さずにいたい。
 手触りのいいシャツに手を触れ、襟元の匂いを嗅いでから離れる。こんなことをしていたら一日中、シャツの匂いを嗅いで離れられなくなる。
 大きく背伸びをして、新しい服を身につけると、自室を出た。
「叶人! いたの!?」
 居間にいた母さんが驚いたように声をあげた。
 そういえば、今朝帰って来たとき、母さんは寝てると思って何も言わずに自室へ行った。そのままずっと眠っていたから俺の気配もしなかったはずだ。
「朝早く帰ってきた」
 キッチンで手を洗い、口を漱いで水をごくごくと飲む。ぐーと腹が鳴り、ここにきて今日何も食べていないことを思い出した。
「体、大丈夫なの?」
 母さんは気遣うように俺の顔を覗きこんだ。
 発情期が終わるまで平仁の元にいると思っていただろうから、さぞ驚いたことだろう。
「うん、なんとか。……今日仕事?」
「もうちょっとしたら行こうと思ってたけど……。なんとかって……大丈夫なの? 辛いなら仕事休むけど」
「いや、それはいい。あいつが……夜、来るって言ってたし」
 途端に母さんの顔から表情が抜けた。まずいと思ったが、口から出てしまったものは元に戻らない。俺と母さんの間には平仁のことを話さない暗黙のルールのようなものがある。
「ここには……来てほしくないわ」
 母さんは小さな声で呟くように言ったが、俺には聞こえてしまった。
「ごめん」
 咄嗟に謝ると、母さんは辛そうな顔で俺を見上げる。
 母さんに嫌な思いをさせていることは知っている。平仁が嫌いなことも、関わってほしくないことも理解している。ただ俺には平仁が必要だった。それをどうやって伝えればいいだろう。
「……叶人、ごめんね」
 母さんがいきなりそう言って両手で顔を覆った。
「叶人を産んだことは後悔してない。私の大事な宝物だもの。けど……オメガだったのは本当に申し訳なくて……これだけは辛いものを負わせたって責任を感じてる」
「母さん……」
「きっとこの子は大変な人生を歩くことになる。私と同じベータならよかったのにって何度思ったことか」
 いつも見る母さんの姿が急に弱々しく見えた。料理ができないとかズボラとか思っていても、母さんの存在は俺にとって唯一の肉親であり、最も愛し頼れる大人だった。いない父親の存在を補うように頑張っていることも知っている。
「俺はさ、母さん。オメガで生まれてきたことを恨んでないよ。だって、誰のせいでもないじゃん。みんながアルファに生まれたいと思っても産めないように、オメガだって選べないんだ。母さんのせいじゃない」
 涙が滲んだ母さんの顔を見つめ、俺は笑って続けた。
「オメガは確かに大変だしハンデが多いけど……俺には苦しみを分かち合う相手がいる。一人じゃないんだ。あいつが俺と番になったことをさ、全然嫌がってないんだよ。やっかいでしかない俺を無条件で受け入れてくれる。そんな相手、この世のどこを探してもいない」
「叶人……」
「俺のたった一人の大事な番なんだ」
 母さんはぎゅっと唇を噛みしめて、涙を流した。
 俺は母さんに手を伸ばしたが……その手を握り締めてさげた。母さんのことは誰よりも大切に思っている。どんなことがあっても裏切れないし、裏切るつもりはない。ただ正直でいたかった。
 握り締めた拳を母さんが両手で包み込む。母さんは何も言わなかった。
 祝福してほしいとは言わないが、せめて平仁の側にいる俺を否定しないでほしい。そんな思いで、俺は声もたてずに涙を流す母さんを見つめ、平仁に思いを馳せた。


 深夜零時を回った頃、性欲を持て余しながらベッドでゴロゴロしている俺の元に平仁から連絡が入った。
 あと五分でバイクに乗った男が迎えに行くという。
 平仁が直接迎えに来ないことにがっかりしたが、無事連絡があったのでほっとする。
 母さんは仕事でいないので、メールをしてアパートを出る。アパートの前で佇んでいると一台のバイクが近づいてきた。
 フルフェイスのヘルメットを被っているため、顔は見えないがライダージャケットを着た男だ。
 俺の目の前で、バイクが停まった。
 バイクに跨りエンジンをかけたまま、男は俺にヘルメットを渡した。街灯の明かりでも暗すぎて男の容貌は全く見えない。
 ヘルメットを受け取り、この男は信用できる男なのかと今更ながら不安が擡げた。だが、平仁の言葉を信じるしかない。
 ヘルメットを被り、男の後部座席におずおずと乗る。座席が高く、背伸びをして跨ったがタンデムどころかバイクに乗ったことがない俺はどこに掴まればいいのかわからない。不意に男が振り返り俺の手を掴んで自らの腰に回した。
 男の背中にしがみつく格好になったが、バイクが走り出すと恥ずかしいとかそんな考えは綺麗さっぱりなくなった。カーブで車体が傾くたびに怖くて余計男に抱きついてしまう。
 どのくらい走っただろうか。バイクはゆっくりと減速して駐車場と書かれた空き地のような場所へ入った。
 バイクが停まったので、後部座席からおりるとヘルメットを脱いで辺りを見回した。
 ここは平仁のマンションがある場所ではない。
 男がヘルメットを脱いで、隣接してあるアパートの階段を上った。俺は警戒しつつも男の後を追う。
 二階の一番奥の部屋の前まで来ると、男は鍵をさしてドアを開けた。俺を見て、先に入るようにと顎で促した。
 恐る恐る足を踏み入れ、電気がついたままの室内と玄関にあった洒落た大きな革靴を見て、まさかこんなところにあいつがいるわけがないと思い、後ろを振り返った。
 男はドアを閉め、鍵をかけてドアチェーンをかけた。こんな男にのこのこついてきた自分の間抜けさに後悔する。今すぐ出て行ったほうがいいかもしれない。そんなことを考えていると、男は静かに口を開いた。
「中で東屋さんが待ってる」
 俺は驚いて室内に目をやる。ここからは見えないので靴を脱いで中に入った。テレビやテーブルが置かれてある生活臭漂う狭い室内に平仁はいなかったが、左側にあるドアが僅かに開いている。
 俺は躊躇いがちにドアを開けた。室内は暗かったが、馴染みのある煙草の匂いを嗅いだ瞬間、肩から力が抜けた。
 室内から漏れる明かりに照らされて、平仁がベッドに腰をかけて煙草を吸っていた。
 まさか本当にいるとは思わなかった。どうして平仁のマンションではないのか、ここがどこなのかとか色々知りたかったが、疼く体に急かされるようにドアを閉めて平仁の前に立つ。
 煙草を口に咥えた平仁が手を伸ばしたので、俺はしがみつくように抱きついた。言葉もなくキスを交わしベッドにもつれこんだ。
 狭くて硬いベッドは他人の匂いがしたが、体が混じり合うと、ここがどこなのかさえよくなって頭も体もすべて平仁で埋め尽くされた。
 この男さえいれば、もうどうでもよかった。
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