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【萬屋の婿殿】2
しおりを挟む日の出の少し前、一豊の腕の中で目覚めた茜が、一豊を起こさぬようにそっと布団を抜け出した。
すずりに隠した着物を身につけ、木箱を懐にしまった。緊張のためか肌寒さを感じたためか、冷える時期ではないにも拘らず羽織も纏って茜が外へ出た。
外気に触れた茜がブルリと大きく体を震わせた。そして茜の世話をする早馬に跨ろうとしたとき、茜の背後から男の声がした。
「茜だな」
振り返ろうとした茜の肩が掴まれ、動きを封じられた茜が振り向くことを許されなかった。茜が正面を向いたまま男と会話をし始めた。
「そうだけど。あなたは誰?」
「俺は萬屋紅の使いだ」
「紅さまの使いが、僕に何の用?
紅さまからは何も聞いていないけど?」
茜の質問に男は無言だった。
「どこへ行く?」
「弟を迎えに」
「こんなに明け方にか?」
「少し離れたところにいるから」
「どこだ?」
「どうせ言ってもわからないと思うけど、堤金次郎という老中の屋敷。囚われていることはわかっているけど証拠がないから正式には動けない」
茜が淡々と男に話した。
「何をするつもりだ?」
「それは弟に会うまでは決めてない。でも、酷いことをされていたら僕がこの手で制裁を加える」
少しの沈黙の後。
「堤金次郎は常田大勇と『よからぬ事』を企んでやがる。いつ決行するかはまだわかっちゃいないが、動きを見る限りそう遠くではないはずだ。そしてその企みに賛同している輩の連判状が堤金次郎の屋敷のどこかにあるはずだ。それを聞き出してもらえないか。
あんたが時間を稼ぐ間に、俺は紫苑を助ける。
だから、あんたには出来るだけ時間を稼いで欲しい。紫苑を助けたら、あんたを助けに必ず戻る。だから、俺が助けに行くまでくれぐれも早まった真似はするなよ」
茜が『弟』と言って紫苑の名前を伏せたにも拘らず、男が紫苑の名を口にした。
「なぜ紫苑を知ってるの?」
「紫苑は俺の嫁の大事な友達だ」
「えっ?」
茜がとっさに振り向こうとしたが、男に肩を掴まれたままだった。
「悪いな、分けあって姿は晒せねえ。だが、俺を信じてくんねえか」
「…………」
いまひとつ信じきれずにいるように、茜が押し黙っていた。
その茜の態度に、男が切り札とも言える一言を放った。
「俺は…【萬屋の婿】だ」
「…………っ」
茜が息を飲んだ。紅の知らせで【萬屋の婿殿】の話は男児にとって周知の事実だった。
萬屋には何人かの婿殿が過去存在したが、【萬屋の婿殿】の称号で呼ばれる存在は過去に存在しないと言われるほど別格で、特別な存在だった。
現当主である紅の伴侶の濡羽が、紅に次ぐ地位についていた。里出身でないにも拘らず、その濡羽と同格だと紅が認めた人物。その人物にのみ与えられる称号。そして、この男がこの萬屋の歴史の中で初めての【萬屋の婿殿】であった。
「もしかして、セツ…さま?」
白百合の文で紅から名を聞いていた茜が、その場に膝まづいた。
「これで俺を信じたくなっただろ?紫苑は助ける。そしてお前もな」
その言葉を最後に、セツの気配が消えた。
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