夜明け前の青の匂い

川本 薫

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海の色と同じぐらい

夜明け前の青の匂い

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「お母さん、バスタオル!! 」
 勝手口から娘の声がして私は洗い物をしていた手を拭いて慌てて脱衣場に行った。バスタオルを持って勝手口に行くとそこにはずぶ濡れになった娘の理沙と同じようにずぶ濡れになった髪をひとつに結わえた男の人が立っていた。『海斗? 』その姿があまりにも若い時の主人に似ていてバスタオルを渡そうとした手がとまる。
「速水さん、先に…… 」
 娘の声に、ああ、1度だけここに来たことがある娘の元カレなんだということがわかった。
 雨など降っていない。ただ主人と同じ匂いがして海に落ちたのだと思った。
 男の人は一旦、どこかへ消えて、娘は私に
「母さん、どうしたらいい? 速水さんだよ。速水さん」
 私にとって懐かしい名前を娘は口にした。
「とりあえず、理沙、シャワー浴びて」
 娘がシャワーを浴びている間、荷物を持ってきた男はずっと勝手口のドアの前に立っていた。
 
 娘が突然、ここに帰ってきたあの日、確か娘もこんなふうに勝手口の前で空を見上げていた事を思い出した。私はそれを2階のベランダから見ていた。

 とりあえず、珈琲を淹れようとお湯を沸かした。娘はドライヤーで髪もちゃんと乾かさないまま、肩にタオルをかけて勝手口から脱衣場まで床にタオルをひいて速水さんをお風呂へ案内したみたいだった。

「母さん」
 私の隣にきてもう1度、さっきと同じことを聞いてきた。
「どうしたらいい? 速水さんだよ。今はひとりみたい」
「私は何も言わない。お父さんにも言わせない。だからそれは理沙で決めなさい。ただひとつだけ言っておくね、きっとこれが最後だと思うよ」
 半乾きの髪の毛から流れているのか頬は濡れていて私は足音が聞こえてマグカップにドリップ珈琲をセットした。
 なるべく心を平坦にした。なぜ今さら、ここにいるのか? 私はカレンダーを見て気づいた。8年前の今日、娘があなたと共に暮らす、その始まりの日だったはず。私は心を壊してここに戻ってきて夜明け前の海を見ていた。娘は時々、置きっぱなしの真っ黒なスマホの画面をじっと見ていた。

「旅行で来られたんですね、なにもないところだけど疲れはとれると思いますよ」
 私は炬燵に並んで腰をおろしたふたりの目の前に珈琲を置いて2階へあがった。

 2階の寝室のドアを開けると主人は起きていた。
「何かあったのか? さっきから騒がしいけど」
「覚えてる? 速水さん、彼が来てたみたい。そして、何があったかわからないけれど、魚を海に戻しに行った理沙と海に落ちたみたいよ」
「速水さん? 」
「そっ、会社の上司に『ちょうど前の彼女にふられて、誰とも付き合ったことがないって噂されてた川野さんなら僕のことを好きになるのかな? って最初は不純な動機だったんです』そんなふうに理沙のことを話してるのを聞いて怒って『もういい!! 』ってメッセージして、その後すぐに速水さんは誰かと付き合ったみたいで理沙はとても後悔してるみたいだった」
「もう随分と昔のことだろ? なんで彼も理沙も今さら? しかも彼は他の誰かと付き合ってたんだろ? ノコ、なんで呑気にしてるんだ? 」
「あなたに似てたから。しかも海に落ちたからあなたと匂いも同じ」
 私の呑気さに呆れたのか、主人はまた布団に横になった。


 その日、理沙はご飯はいらないから、と言って家を出たのに、うちに戻ってきたのはまだ日が暮れる前だった。
「駄目だった。一緒にホテルの食堂でご飯を食べようと思っていたけれど『駄目!! 元カノと友達になれるほど寛容な男じゃありません!! 』って真顔で睨まれた。私に会いたかったんじゃなくてちゃんと話をしたかっただけなのかもしれない。ごめん、ちゃんと泣いてくる」
 理沙は2階へあがって寝室とは逆の部屋のベランダに出たのだろう。

 翌朝、主人はまだ暗い4時、ひとりが漁に出た。いつも思う、真っ暗な海へひとりで船に乗って出てなにがいいのか、と。
『お父さんの仕事は魚を殺すことなの? 』
 小学生の頃、ポニョの映画を見たという友達から理沙のお父さんはいつか罰が当たるって責められたと主人を責めていたことがあった。ただ主人の胸を叩く小さな手を主人はそのままにしていた。それから随分と長い間、早くここから出ていきたいとか、生臭い匂いがするとか、主人に対しても、うちの車に対しても嫌っていた。
 その娘が主人を尊敬するようになったのは、誰でもなく速水さんだった。
「『すごいかっこいいです、憧れます』なんて誰からも言われたことがないようなことをまさか理沙の彼から言われるなんてな」
 あの日の主人の安堵した笑顔は今も覚えていた。

 まだ洗濯するには早い時間、ゆで卵でも作ろうとお湯を沸かしていたら
「お母さん、もう1度だけ会ってくる!! 」
 珍しく娘が早朝から起きてきた。
 
 その日、娘はうちへは帰らなかった。
『ホテルのベランダにスニーカーを忘れていたので届けてきます、泊まるかもしれないし、帰るかもしれない、わからないから今日こそ本当に晩御飯はいらないから』
 そんなメッセージが届いたのは10時だった。
 漁を終えた主人はいつも通り3時に帰宅した。港で待っていた軽トラで魚を売る魚屋にその場で釣った魚を売って売れなかった魚をうちで、あるいは海へと返してゆく。娘がいない今日は私が勝手口に置いてある海水がはいった水色のバケツを持って、まだ息がある小さな魚をそっと手で掴んでバケツにうつした。

「理沙は? 」 
「彼を追っかけたみたい」
「チャレンジャーだな、あの理沙が追っかけるなんて」
「だね、しかも8年だよ? 馬鹿みたいじゃない? ホテルにだって良さそうな子はたくさんいるのにね」
「速水さんじゃなきゃだめと思うところがあるんだろう、だけど、これでまた駄目だったら親はどうしたらいいんだろうな? 」
「何もできないよ。ただ見守るしかね。とりあえず魚、海にかえしてくる」
 私はゆっくりと埋立地から海へと降りる階段をおりてそっと海面にバケツをくぐらせた。
 食べられてしまう命と戻される命、海へ戻っても元の場所へ戻れるのか定かではなかった。私がバケツにまた少しだけ海水を汲んで家に戻ると庭のポトスや金魚草に水をやりながら主人は
「たくさんの魚の命をとって暮らしているんだからいつかこの命を海にのまれても後悔なんてないよ、むしろ迷惑をかけないのならそうやって終えたい」
聞いてもいないのにそんなことを言ってきた。
「あなたにとって漁師が天職なんだろうね」
 私が言うと
「天職なんて神が決めるもの、海の色と同じで本当のことなんてわからないよ。ただ思い込みたいだけだ。ただ理沙が幸せでいてくれたらいいよ」
 雨は降っていなかった。
 日が暮れる前の春の空をふたりで見上げた。
 速水さんと一緒にいるのか、ひとりが街を彷徨ってるのか、それとも泣きながら高速を走っているのか、どちらにせよ、私はここで待つしかない。
 暮らしながら願いながら待つのだ、ずっと、あなたが幸せな顔でここに戻ってくれた時もそうでないときも『おかえり』と言えるように。

 主人が手に持っていたホースから出ていた水も空を見上げそれはまるで透明な虹のように見えた。

 

 

 

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