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1巻
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しおりを挟む『なによ? ……なんかあったの?』
つきあいの長い里沙に、隠し事はできない。
「実はね……」
駅に向かって歩きながら、昨日の出来事を話した。森さんが二股した挙句、浮気相手に子どもができて結婚することになったからわたしと別れた、という、まとめてみれば身も蓋もない内容だ。
『あの男っ。やっぱりどこか胡散臭いと思ってたのよ』
そう言われ、改めて自分の見る目のなさに愕然とした。それと同時に、やはりわたしにもなにか問題があるのではないかと思う。
つまり、考えたくないけれど、森さんを浮気に走らせてしまったなにかが、わたしに――
それを里沙に言ったら、鼻で笑われた。
『史香は悪くないわよ。ただ、運が本当にないだけ。ああ、逆に変な男ばっかり引き寄せる運があるのかも』
なるほど、変な男を引き寄せる運か……里沙の的を射た答えに妙に感心しつつも、今度こそ完璧に落ち込んだ。
神様、そんなのいらないから、普通の恋愛をさせてくださいっ。
「もう男はこりごりよ」
『……知ってる? あんた毎回そう言ってるわよ』
「知ってるわよ。でも言いたいの」
はーっと白い息を吐く。それが冷たい空気にまじって消えていく様子をジッと見つめた。少しだけ、目の奥がチクチクする。知らぬ間に涙がにじんで、目にしみる。いつまでも慣れないコンタクトのせいだけじゃない。忘れていた胸の痛みがまた戻ってきたようだ。今夜もわたしは泣くんだろうか。泣く価値もない男だとわかっているのに、その男のことを想って。
『ちょうどゴハンに誘おうと思って電話したのよ。飲んで憂さ晴らししようよ』
「今日はまだ平日よ?」
『関係ないわよ。こんなときは飲まないと』
一人で泣かなくてもいいんだ。そう思ったら心が軽くなった。さすがは親友。わたしのことをよくわかっている。そういえば、これまでの三度の失恋も、こんな風に里沙に頼って乗り越えてきた。四度目になる今夜も、同じように過ごせるだろう。
「おごってくれる?」
『……二杯までなら』
「もう駅だから、すぐに行けるわ」
待ち合わせ場所を確認して電話を切った。駅の階段を下りながら、足取りが少し軽くなっていることに気づく。
待ち合わせの場所に行くと、すでに里沙がいた。里沙は背が高くボーイッシュなタイプで、人目を惹く美人だ。昔からスポーツ少女だった里沙は、今でも趣味でバスケをしている。活動的な彼女は、ずっと勉強ばっかりしてたわたしとはまったくの正反対なキャラクターだ。けれどなぜか気が合い、何年も親友を続けている。
「おまたせ」
手を上げると、里沙がわたしの顔をまじまじと見た。
「なによ?」
「いや。思ったより憔悴してないなと思って」
「落ち込み続けるには、いろいろあり過ぎて……」
「なによそれ?」
「飲みながら話す」
ふーんと頷いた里沙と一緒に、なじみの居酒屋に入った。平日だけど、結構混んでいる。テーブル席に向かい合って座り、一杯目のお酒と料理を頼んだ。
おしぼりで手を拭きながら、わたしはこちらを見つめている里沙を見返す。
「おもしろがってる?」
「まさか。それより早く話しなさいよ」
絶対におもしろがってるなと思いつつ、森さんの話をした。
「はー……知らぬはあんただけ、ってことだったのねぇ」
呆れたような、今にも笑いだしそうな顔をする里沙。
「笑わないでよ。こっちは傷ついてるんだから」
「笑ってないわよ。どっちかというと怒ってるわよ、もちろん」
「なんでわたしも気がつかなかったのかなあ」
運ばれてきたお酒を呷り、大きくため息をついた。口にだせば、後悔のような怒りのような、複雑な感情がわいてくる。
「あいつがうまくやってたんでしょ。史香はお人好しだから、ちょろいと思われたのよ」
「それ、わたしの悪口?」
「なわけないでしょ」
呆れ顔の里沙が、お酒を飲みながら手をひらひらと振った。
「そんな二股をかけるような男なんて、いらないでしょ。この先も絶対うまくはいかないし。早く忘れるのが一番よ」
「それはわかってるわよー。でもさー、昨日まで普通につきあってると思ってたのよ。普通に好きだったんだもん」
目の奥からわいてきた涙が、鼻をつまらせる。ずびずびと鼻をすすり、目にたまった涙をおしぼりで押さえた。
「まあねー。いきなりは無理だと思うけどさー」
ほれ、と里沙に渡されたティッシュで鼻をかむ。
「だいだい森なんて、なんの特徴もない男じゃん」
「そうかな?」
「そうよ。見かけだってまあ普通と言えば普通だし、いまいち空気も読めなさそうだし。仕事ができるとか言ってたけど、だいたいあいつの仕事、ほとんど史香が手伝ってたじゃない」
「……まあ」
「女に手伝わせるなんて、ろくなヤツじゃないわよ。別れて正解よ、あんな男」
どん、とビールジョッキをテーブルに置いた里沙が、断言した。
「そうよね、二股かけちゃうような男だし」
鼻をすすりながらぽつっと言うと、里沙が頷く。
「そうよ、そんなにイケメンでもないくせに」
「なんか偉そうだし」
「自意識過剰なのよ」
「謝りもしなかったし」
「自分が世界で一番正しいと思ってるイタイ男よ」
次々と森さんの悪口がでてくる。はたから見ればかなりみっともない光景かも知れない。けれどわたしは、少しずつ気持ちが昇華されていくのを感じていた。
終電間際まで森さんの悪口を言い、二人ともふらふらになって帰宅した。
翌朝は少し二日酔い気味だったけれど、気持ちはすっきりしている。
ただ、なんでそんな男とつきあっていたのかと、違う意味で自己嫌悪に陥るはめにはなったけれど。
その後、森さんの悪行が続々と明らかになっていった。それにつれて、わたしのなかで怒りの配分の方が多くなる。
「やっぱり毎日話しかけてアピールしなきゃ」
「クリスマスデートは、クルージングディナーさ」
「正月の初詣も、夜中から一緒に行ったんだ。年越しは一緒に過ごさないと」
連日続く、森さんののろけ話。普段は他人の色恋に興味なさそうな研究員たちが、まるで勇者を称える村人のごとく、森さんの話に耳を傾けていた。
……ほほう。二人で初詣に行ったんだ。わたしには実家に帰省するって言ってたくせに。よくもまあ、そんなことをわたしの前で楽しそうに語れるものだ。もしかしてあの人のなかで、わたしの記憶が削除されたんだろうか。なかったことにされるのはかなりショックだ。けれど、これはわざと聞かせている印象もある。
自分から振った女をさらに傷つけようとすることになんの意味があるのか、さっぱりわからない。
唯一の救いと言えるのは、お相手の由奈ちゃんに全然会わないことだ。タイミングがいいのか悪いのか、彼女は体調不良が続いているらしい。そのため、ほとんど出社していないようだ。
「由奈はすごく俺に気を使ってくれるんだ。料理も上手だし、俺の部屋もきれいに掃除してくれて。ものすごく女の子らしいんだ。やっぱり女の子はかわいくなくっちゃ」
ふいに聞こえてきた森さんのやけに大きな声に、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
わたしは女の子らしいところなんてほとんどない。料理だって自分の分しか作らない。森さんの部屋を掃除したこともないし、それどころか、自分の部屋だって適当だ。昔から勉強ばっかりで、おしゃれにも興味がなかった。ファッション誌を読むくらいなら、元素辞典を読んだ方が楽しい。森さんとつきあっていても、女らしい気遣いもしたことがない。
ないない尽くしの女だから、森さんは浮気したんだろうか。そんなだから、ただでさえない男運が、さらに悪くなるんだろうか。
今のセリフを、森さんはあえてわたしに向かって言った気がする。
「ああ凹む。本当に凹むわー」
思わず声にでてしまった。油断すると泣きそうになるのをこらえながら、ひたすら試験管を見つめる。何度も瞬きをしたら、またコンタクトがずれたような気がした。
森さんに勧められたコンタクト。自分の目に合わないのを、ずっと我慢して使い続けてきた。それは、森さんによく思われたかったからだ。つまり、わたしだって、それなりに気を使ってきたってことになる。
でもそれだけじゃ足りなかった。
どうすればこんな結果にならずにすんだのか――。いまさら考えても仕方がないとわかってはいるけれど、考えてしまう。
瞬きをして涙を払い、ひたすら実験を続けた。実験は白か黒かどちらかにしかならないから、迷うことがない。どんなに感情に振り回されても、結果は明白だ。
――日々そんなことを考えながら仕事をしていたら、作業スピードが格段に上がった。毎日終業のころにはぐったり疲れるけれど、実験中は余計なことを考えずにすむし、森さんののろけ話も聞こえなくなるからちょうどいい。
そんな風に日々を過ごし、季節は春を迎えた。森さんの話もとっくに沈静化したころ、わたしは急遽所長に呼ばれた。
「開発チームが専属の研究員をほしがっていてね。最近頑張ってるし、池澤さんやってみない?」
「は、はい!」
「作業は一番奥の部屋を使って。専用にするから。当然ながら開発中のデータは門外不出だから、その点は気をつけてね」
「はい」
こういうのを怪我の功名とでもいうのだろうか。
うちの会社内で、商品開発部門は花形だ。新商品の開発に携われるその部署は、みんなの憧れになっている。お菓子が好きでこの会社に入った人が多いのだから、当然かもしれない。自分の作ったお菓子がコンビニやスーパーに並ぶ日を夢みている社員は、結構いるのだ。ただ、仕事は大変で、いつも他社と競争している。いかに早く魅力的な新商品を開発するか、それがメーカーとして大切だからだ。わたしはというと、今まで特に強く、商品開発に関わりたいと思ったことはなかった。けれど、仕事を認めてもらえたと思うと素直にうれしい。そのうえで参加できるのなら、こんなに喜ばしいことはない。
恋愛はダメだったけれど、仕事の運は悪くない。そう考えれば、気持ちが向上する。
そうだ。もう恋愛に現を抜かすことなんてやめて、仕事一筋に生きよう。幸いなことに、チャンスは目の前にある。
突然の打診に、小躍りしたい気分になった。上機嫌で自分のデスクに戻ると、なぜかそこに冷たい目をした森さんがいた。
「ずいぶん楽しそうだな」
声もやけにそっけない。ほんの数か月前まで普通につきあっていた人のはずなのに、なんだか変な感じだ。
「意外と平気なんだな」
森さんがぽつりとつぶやいた。
「へ?」
「もっとショックを受けてるかと思ってたよ。その程度なんだ、俺への気持ちなんて」
「は?」
「所長もなにを考えて開発の仕事を回したんだか」
森さんはそう言うと、ふいと顔を背けて歩み去った。
なにそれ。わたしにもっと傷つけってこと? 泣き叫んで縋りつけとでも?
なんだかものすごく腹が立ってきた。
自分で勝手に浮気して去って行ったくせに、なんて勝手な男なんだろう。でもって、わたしがどんな仕事をしようが関係ないじゃない。
こんなろくでもない男に振られて、散々泣いた自分が馬鹿みたいに思えた。どう考えても、別れて正解だ。
突然の失恋にずっとうじうじしていたけれど、今ようやく吹っ切れた気がした。
3
最悪の別れから早三か月、森さんは相変わらず嫌な態度をとったり、彼女とののろけ話を聞こえよがしに大声で言ったりするけれど、吹っ切れたわたしにとっては、もうなんの影響もなかった。
機密性の高い開発部門の仕事について以来、わたしは一人で、終日専用の研究室にこもっている。もう恋愛に現を抜かすこともやめて、仕事一筋と決めていた。そんなわたしにとって、今回の仕事は忙しいけれどかなりやりがいがある。
「池澤さん、今度セミナーがあるんだけど参加してみない?」
わたしがこもっている研究室まで来て、わざわざ声をかけてくれたのは、今回の開発チームのチーフ、中島さんだった。中島さんは三十代後半で、サバサバした性格の快活な女性だ。
「セミナーですか?」
「うん。食品衛生に関するやつ。興味あるでしょ? 同業者がたくさん集まるのよ。ホテルでやるんだけど、料理がおいしいからそれ目当てで来る人も多いの。それに、今回は西城の頭脳も参加するらしいし」
「西城の頭脳?」
聞き慣れない言葉に首を傾げると、中島さんが「知らない?」と笑った。
「西城食品の天才開発者よ。ほら、あの空気みたいに軽いのに味が濃厚なチョコレートとか、食感がパリッモチッてなってて業界に革命をおこしたポテトチップスとか、あるでしょ? それは全部、彼が開発したのよ。ほかにも今までに相当な数のヒット商品を生みだしていて、製法技術の特許も取ってるの。だから別名、西城の頭脳」
「へえー」
西城食品は、業界最大手の企業だ。これまで数々の人気商品を発売している。
頭脳だなんて、変なあだ名。もしかして漫画にでてきそうな、ビン底メガネのマッドサイエンティストみたいな人なのかもしれない。そんな姿を想像して、思わず笑ってしまった。
「そういうの初めてなので、ぜひ行ってみたいです」
「じゃあ名簿に載せとくね。次の金曜日の夕方にみんな揃って行くから」
「はい、よろしくお願いします」
研究室の出口まで中島さんを見送る。視線の先に、森さんが映った。わたしを睨むように見ている。目が合うと、ふいと視線をそらされた。
なによ、その態度。
もう吹っ切れたとはいえ、気分がいいものではない。
どうやら彼は、わたしが開発の仕事をしているのが相当気に入らないらしい。けれど、そんなの知ったことじゃない。
「まったく。可愛くて若い女の子と結婚して、子どもも生まれるって状況のくせに。もうわたしのことなんてほっといてくれたらいいのに」
ムカムカした気分で研究室に戻り、読みかけの資料に目を向けた。仕事よ仕事。もう二度と男に振り回されたりするもんか。
セミナー当日までは、ひたすら研究に没頭した。所長からはえらく感心されて褒められたけれど、森さんは相変わらず不愉快な態度のままだ。
そして迎えたセミナーの日。約束の時間に間に合うよう仕事を終わらせ、ビジネス用のスーツ姿になった。仕事中は普段着に白衣をはおることがほとんどなので、スーツは久しぶりだ。
トイレでお化粧を整え、瞬きをしてコンタクトレンズがちゃんとはまっているか確認する。最近仕事が忙しいせいか、目の疲れが半端ない。夕方近くにはいつも目がしばしばするのだ。
もうコンタクトを続ける必要はないからメガネに戻してもいいのだけれど、それはなんだか負けた気がする。
「だってメガネ姿を見られたくないもん。森さんにも、あの彼女にも」
そんなことを口にだしてしまうなんて、もしかしてまだちゃんと吹っ切れていないということなんだろうか。
気を取り直して鏡に向き直り、肩まで伸びた髪をぎゅっと結び直す。小さな鏡になんとか全身を映して、おかしなところがないかチェックした。
セミナーなんてものに行くのも初めてだし、同業他社が集まる場所も初めてだ。中島さんに普通のスーツでいいと聞いていたので、わたしも着慣れないスーツを頑張って着ているのだ。この格好がおかしくないか、何度も鏡を見てしまう。
「大丈夫だよね」
研究室に戻り、迎えに来てくれた中島さんとともにロビーに向かう。そこにはすでに十名程が集まっていた。
「みんな行かれるんですか?」
「そうよ。あとは部長クラスも何人か行くみたいだけど、あっちは車よ」
中島さんがふんと鼻を鳴らし、わたしたちは電車だからね、とつけ加えた。
全員で駅に向かい、電車に乗って移動した。目的地は、湾岸近くの有名ホテルにある広いホール。
椅子がずらりと並んだ会場には、すでに大勢の人が集まっていた。割り当てられた席に座ってしばらくすると、壇上に有名大学の有名教授という人が現れた。セミナー開始だ。
教授の話は、一時間ほどで終わった。難しい内容も多かったけれど、おもしろくとてもためになった。こんな風に業界全体が日々勉強をしているのだと思うと、なかなか興味深い。
「さあ、次は食事の時間よ」
中島さんに促されまわりを見ると、みんなが移動を始めている。食事会場はホール隣の、同じくらいの広さの部屋だ。ビュッフェ形式のようで、壁際と部屋の真ん中辺りにずらりと料理が並んでいる。
先に乾杯があるらしく、色んな種類の飲み物のグラスを持ったウェイターさんがたくさんいた。
「池澤さんは飲めるの?」
いち早くワイングラスを取った中島さんが言った。
「とりあえず、今日はお茶にしときます」
そう答え、ウーロン茶の入ったグラスをもらった。初めての場所で、酔って失敗はしたくない。
ほどなくして、マイクの音とともに、壇上に司会者が現れた。
「みなさまお待たせいたしました。それでは乾杯の挨拶を西城食品の……」
そこで言葉が途切れた。ざわめきと少しの笑い声が前の方から聞こえる。どうしたんだろうとつま先立ちになると、苦笑いを浮かべた司会の人が見えた。
「ええと、では教授、お願いします」
促されて、先ほど講演をした教授が乾杯の音頭を取った。大きな声が響き、拍手が起こる。
「混む前に行きましょ」
慣れた様子の中島さんに誘われ、みんなで早速料理を取りに行った。とても豪華でおいしそうだ。
「すごいですね」
「これで無料だなんて、さすが西城は太っ腹ね」
「主催は西城食品なんですか?」
「そうよ。共有できることはみんなで共有しましょって。最大手ならではの余裕よね」
中島さんの言葉に頷きながらお皿一杯に料理を盛って、元の場所へ戻った。
わいわいと食べたり話したりしていると、みんなの顔見知りらしい他社の開発や営業の人らが代わる代わる加わってくる。わたしは人見知りが激しいわけではないけれど、普段ほぼ一人でいるので、こんな風に大勢と会話をしながら食事をするのはなかなか難しかった。共通の話題には相槌を打つものの、なんとなく時間を持て余してしまう。
「お料理見てきますね」
中島さんに告げ、その場を離れた。ホッと息を吐き、デザートでも探そうかと会場をきょろきょろ見渡す。少し離れた場所に、人だかりができているのが見えた。そこに料理はないので、有名な人でもいるのかもしれない。
そう言えば、西城の頭脳が来ているんだっけ。だったらその人かもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、ポンと肩を叩かれた。
「よお、奇遇だな」
「俊くん?」
振り返って驚いたわたしのそばに、ニヤニヤと笑う男性がいた。彼は山本俊くん。里沙の彼氏で、わたしとも長年の友人だ。わたしたちより三つ年上だけど、気さくで楽しい人である。
「なんでいるの?」
「そりゃこっちのセリフだ」
「あ、そうか」
俊くんは、大手外食チェーンで営業マンをしている。普段引きこもって仕事をしているわたしよりも、断然業界に顔が広い。この場にいるのも当然だ。
「今わたし、開発の仕事を手伝ってて、その関係で来たのよ」
俊くんが納得したように頷いた。そして――
「思ったより元気そうじゃん」
続いた言葉に、思わず苦笑する。彼はわたしの失恋ネタのほぼすべてを知っているのだ。
「まあ、ね。仕事も忙しくなってきたし、いつまでも落ち込んでいられないわ」
森さんの最低ぶりをここで改めて語ろうかと一瞬思ったけれど、自分へのダメージが大きそうなのでやめておいた。
「里沙はまだ心配してるから、また連絡してやってくれよ」
「そうね。最近ずっと残業で時間とれなかったから、今日帰ったら連絡するよ」
「ぜひそうしてくれ」
じゃあねと言って俊くんと別れ、改めてデザートを取りに向かった。お皿にケーキやフルーツ、生クリームをたっぷりと盛る。
「おい、藤尾!」
みんなの所に戻ろうと振り返った瞬間、声とともに目の前に急に人が現れた。
「きゃっ」
ぶつかりそうになり、とっさにお皿をひっこめる。そのお皿が胸元に当たり、中身が全部飛び散った。大半はわたしの顔と服に、そして、一部が目の前の人の靴に。
「うわ、なにやってんだ!」
怒りを含んだ男性の声に、慌てて顔を上げる。
「す、すみません」
目の前には、仕立てのよさそうなスーツを着た男性がいた。その男性は明らかに怒っている。
あなたが急にでてきたからじゃない……という言葉を呑み込み、とりあえず顔に飛び散ったクリームを取ろうとした。目の近くを指で擦る。
「あっ」
――なんてこと。擦った拍子に、コンタクトがぽろりと落ちてしまった。視界が突如ぼやける。わたわたしているうちに、飛び散ったクリームがもう片方の目に垂れてきた。その目はもう開くこともできない。
とっさに床に手をつき、裸眼でぼやける視界のなかコンタクトレンズを探す。
「おいおい、なんだよ」
目の前の男から呆れた声が聞こえたけれど、それどころではない。パニック状態とはこのことを言うのだろうか。まわりからざわめきが聞こえる。みんなが見ているのだろう。そんななかでのこの状況に、恥ずかしさと動揺で頭が真っ白になった。
「大丈夫ですか?」
そのとき突然、声が聞こえた。低く掠れてはいるけれど、さっきの男とは違う優しい声だ。
「コ、コンタクトを落としてしまって」
手探りで床を触るわたしの手に、大きな手が重なった。その手がとても熱くて、ドキッとして動きが止まる。
「落ち着いて。レンズはこれかな」
掠れ声の男性はそう言って、わたしの掌に小さなレンズを載せてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「早く顔を洗って着替えた方がいいよ」
その男性に手を取られ、立ちあがる。小さな咳がわたしの頭の上から聞こえた。彼はとても背が高いようだ。
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