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第一章
外伝 1.文学少女 その①:私は、ミーシャ
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※この外伝の時系列は二章後~三章前のどこかになります。
―――――――――――――――――――――――――――
「ねぇ、そろそろ冬期休暇だよ。なにか予定ある?」
「私はアルゲニアに観光しに行く! 家族と一緒に!」
「へぇ、いいなぁ~! 私は帰省。アラム地方のド田舎だから、行って帰ってきたら殆ど休暇終わっちゃう!」
楽しそうに笑い合うクラスメイトたちのすぐ側で、私はひっそりと教科書をカバンにしまう。
「明日は期末試験か~、成績悪いと親に怒られちゃうなぁ」
「前日になってから気にしても遅いって。流しときゃ良いのよ、流しときゃ」
「うわ、悪いんだ。私は今日ちょっと勉強しとこ」
「今更やっても意味ないって! 遊びにいっちゃお!」
忘れ物はないことを確認した私は静かに席を立った。そして、誰にも話しかけられることなく、教室を出る。
ここはいい。
誰も、私になんか関心を払わない。私が妾の子であることも、ましてや王党派貴族の血を引くことすら、誰も知らないのだろう。きっと、話したところで興味も持たれない筈だ。
ああ……なんて、居心地が良いのだろう。
私は、ミーシャ。
唯のミーシャ。
以前は母姓アッ=ダーヤを名乗っていたが、特に良い思い出もなく、植民者風の名前とミスマッチに感じたので捨てた。だから、私は唯のミーシャだ。
クレプスクルム魔法女学院に通う、中等部二年生の魔女見習い。呪いと共に生を受け、そして魔法という祝福に救われた。
だから、私は今とても幸せだ。
「ねえ、貴方――」
……いや、訂正する。彼女が現れるまでは、幸せだった。
「わたくしとお友達になってくれませんか?」
「えっ?」
出会いは余りにも唐突だった。私が図書館で本を読んでいる時、彼女がいきなりそんな風に話しかけてきた。
「あら、聞こえませんでしたか? では、もう一度――わたくしとお友達になってくれませんか?」
座る私を見下ろしながら、彼女――ロクサーヌはニコリと太陽のように笑った。
「わたくしたち、きっと良い関係を築けると思いますの」
触手の魔女・外伝 1.文学少女
放課後、私はいつも決まって図書館に向かう。学院の図書館には古今東西から蓄えられた叡智が、文字通り山のように保管されている。その数、数十万冊にも及び、今なお増え続けている。全ての蔵書を読み切るには人生が三回あっても足りないだろう。
しかし、今日の図書館行きはやめだ。また彼女に絡まれたら読書どころではない。
ロクサーヌ――二組の生徒で、私と同じ二年生で、学院で一番煩い奴。
最近、どういう訳か私は彼女とその取り巻きの連中に付き纏われていた。何かした覚えも、何かされた覚えもない。理由はともかく、重要なのは彼女たちの手によって、私の平穏な日々があっけなく崩れ去ってしまったことだ。
変化は嫌いだ。否応なく、心がさざめく。だから、ライフワークである図書館行きを止めるのは私にとって苦痛を伴う決断だった。
しかし、同じ行動を取り続けて別な結果が返ってくると期待するのは狂気だ。ロクサーヌと会いたくないなら、やはり行動を変えるしかない。
そういう訳で、私は図書館とその周辺に近寄ることすら避けて、わざわざ人の来ない校舎裏にまで足を運ぶようになった。今のところ、この場所はロクサーヌたちに見つかっていない。
よく陽のあたるベンチに腰掛け、カバンの中から一冊の小説を手に取る。不幸な出自を持つ町娘が、若い金持ちの美男子と出会ってお互い恋に落ちる話だ。だが、二人の恋路にはいくつもの困難が立ちはだかる。
昨日は、幼い頃に別離した町娘の父親が、美男子の経営する会社を潰そうと画策する悪徳貴族だと判明したところまで読んだ。続きが気になっていたので、栞をたくる手もいつもより心持ち素早い気がする。
「――アンタ、ミーシャよね?」
だが、いざ続きの活字を無心になって追おうとしたところで、意識外から声をかけられ出鼻をくじかれた。
「……そうだけど」
「私はリン。よろしく」
本から顔を上げると、眼の前にはいつの間にかリンが居た。その端正な顔を上下に貫く痛々しい傷跡にはかなりの威圧感があり、息がかかるほど近くに立たれていたこともあって私は思わず悲鳴を上げそうになった。
(うっ、ホントに凄い傷……半年も前の傷なのに、今にも血が吹き出してきそう……)
私は一組なので、三組のリンと面識はない。だが、彼女はなにかと話題になる有名人なので名を知っていた。その絶望的なまでの魔法の腕。そして、使い魔と契約してからの華々しい飛躍。良くも悪くも目立ってしょうがない。
使い魔による恩恵は身体機能の僅かな底上げでしかないというのに、純粋に剣の腕だけであのグィネヴィアに直接対決で二度も土を付けるとは大したものだ。
今じゃ、表立ってリンを謗るものは殆どいない。せいぜいが迂遠な嫌がらせや、「魔女らしくない」と言った陰口をこそこそと内輪で叩き合う程度だ。それぐらいにしておかないと、翌日には学院の時計台に裸で磔にされてしまう。
しかし、集団の中にあって異彩を放たずには居られないリンのことを私が知っているのはともかく、彼女の方が私のような日陰者を知っていたのは少し意外だった。
(眼、怖っ……)
リンは無言のまま私の全身をくまなく観察するようにジロジロと見てくる。
こうして人を舐めるように見るのはリンの癖だ。指先のちょっとした油断すら見咎められているようで、見られている方としてはあまり気分の良いものではない。ご多分に漏れず、私もリンを苦手に思っているものの一人だった。緊張して、全身の動きが固くぎこちなくなる。
(でも良かった、ロクサーヌじゃなくて……)
しかし、すぐにリンがロクサーヌと仲良しだったことを思い出す。まさか、リンはロクサーヌに言われて私を探しに来たのではないか? そう不安に思いながら、私はおそるおそる用件を尋ねる。
「何の用……?」
「単刀直入に言うわ。アンタのお父さんは王党派貴族だそうね。アンタ自身は、王党派ということで良いのかしら?」
ロクサーヌ絡みではなかった。しかし、それで安心するどころか、気分がガクンと沈んでゆくのを感じて、私は眼を閉じた。
遂に来たか、という思いだった。
そろそろ、中等部二年から三年へ進級する頃である。その次となると、もう高等部。これはつまり、両派閥の勢力図がおおよそ固まってくる頃なのである。
高等部の『特進クラス』へ進む生徒は貴族が多い。なぜなら、魔法科目以外の一般教養科目の成績も加味されるので、魔法という玩具に興味を惹かれ、それのみに汲々としてしまいがちな平民より、一斉魔力検査より前の幼少期から家庭教師を雇って教育することが普通な貴族の方が全体的な成績は上になりがちなのである。
そして、数少ない平民の成績優秀者――リンやアナスタシアみたいなの――は、大体どちらかの派閥に取り込まれる。
そういう流れの中で王党派に付いた新入りのリンが使い走りとなって、今まで放置されていた私のもとにも意思確認に来た、といったところだろう。
――答えは決まっている。
齢六つを数えた時、一斉魔力検査で魔法の素質を見いだされ学院にやってきた時から、私の心は少しも変わっていない。
「私に家族はいません。私は、唯のミーシャ。それ以外の何者でもありません」
「そう……アンタがそう言うなら、そう伝えておくわ」
リンは特に食い下がることなく踵を返した。目的は意思確認で、勧誘とかではないようだ。ほっとしたのも束の間、リンは去り際にとんだ爆弾を残してゆく。
「ただ、お父さんの方はそうは思っていないみたいだけどね」
一応留意しときなさいよ、と言い残してリンは去っていった。
結局、今日も校舎裏の場所はロクサーヌに見つかることはなかったが、リンの言葉が気になって読書も手につかず、私はいつもより早く寮の自室に戻る羽目になった。
父のことなんてすっかり忘れていたのに……下らない派閥なんかの所為で思い出させられて、非常に気分が悪かった。思い出したくもない記憶が何度も頭を過りそうになり、私はその度に顔を枕に埋めた。
そうして暫く一人ベッドの上に寝転がっていると、ふと急な寂しさに襲われた。
私は枕元の杖を振って門を開き、授業や折節実習以外では久し振りに使い魔を召喚する。タッと軽やかに着地した幼き霊鹿のエッダが、トーンと軽やかに跳ねて私の胸に飛び込んでくる。
「うあっ……ぷ」
エッダが濡れた鼻先を私の顔に擦りつけてくる。そして、私たちは互いの重みに圧し潰されるようにして、一緒にベッドに寝転がった。
(私が、喚び出した理由が分かってるのかな……?)
エッダは賢くて、優しい子だ……私とは大違い。いや、もしかしたら、単に寂しがり屋なだけかもしれない。
(だとしたら、私と同じ……)
ちょっと湿っぽいエッダの毛皮に顔を埋めながら、私はいつしか眠りについていた。
これが最後の安息の眠りとなった。
翌日から、私は王党派の執拗な呼び出しに悩まされることになる。
「――穢らわしい!」
私とは血の繋がりのないデュノワ家の本妻――つまり私の義母――が、軽蔑の眼で私を睨み付ける。いかにも、怒り心頭といった風情だ。敬虔な国教会の信徒である義母は、私のような庶子という存在自体が許せないのだろう。そして、女のプライド的にも気に入らない。
義母の隣では、デュノワ家の長男、当時十六才のフランクが青い顔をして座っている。私へのイタズラがバレてしまったのだから、それはそれは気まずかろう。既に彼の父親――こちらは私の実父でもある――から、しこたま絞られたあとだ。
遠巻きに長女アデライドと次女モニークが、ことの成り行きを含み笑いで静観している。
そんなに楽しいか、兄の失態が。
そんなに面白いか、私の存在が。
そして、そんな彼らの中心に一斉魔力検査を受ける前の無価値な私がいた。
この時の私は、何を感じ、何を思っていたのだろうか。
「血は争えないわね。その年で既に売女だなんて……!」
あてつけのような義母のセリフは、私じゃなくデュノワ家の現当主、父に向けられていた。いつもは偉そうな父も、この時ばかりはばつの悪そうな顔でしきりに髭をいじるばかりだった。
ああ、そろそろ次女モニークが我慢できなさそうだ。
下品にもガパッと大口を開けて――。
「――キャハハハハハ!」
体がビクッと勝手に反応し、本能的に警戒態勢を取る。
私の側を通り過ぎてゆく名も知らぬ生徒の無邪気な笑い声が、あの時の次女モニークの嘲笑を思い起こさせたのだ。一度想起したフラッシュバックは脳裏に焼き付き、簡単には消えてくれそうにない。
私は突如として襲いかかってきた憂鬱な気分に滅入りながらも、登校の歩みを再開させた。
リンが私のもとへ来た後、一通の手紙が届いた。父からだ。
『我が愛娘、ミーシャへ』
そんな冒頭の文を見た瞬間、私は手紙を握りつぶしそうになったが、どうにかこうにか自制の心を働かせて堪えた。
何が愛だ。
お前からなにか一つでもプラスの良いものを受け取った覚えはない。侮蔑か、拳骨ぐらいのものだろうが。
『――近々、学院の方へお邪魔させてもらうことになったよ。久しぶりに会える日を楽しみにしている――』
なんと書いてあるのか、すぐには理解できなかった。活字には慣れ親しんだ私だ。理解できない筈もないのだが、驚いたことに脳の方が理解を拒絶したのだ。けれども、いくら目を背けたところで現実は揺るがない。やがては、その文面を理解してしまった。
(来るな……!)
来る、アイツが。
(来るな来るな来るな来るな来るな来るな……!)
私の楽園に……来てしまう……!
「う、おぇっ……」
胃から込み上げてくる不快感に抗えず、私は学院校舎の壁に手を付いて朝食を吐き出した。吐瀉物は壁を伝って下にあった花壇に落ち、可憐な花々を穢した。
ごめんなさい。
(神よ、許して下さい。片付ける気も、花に対する慈しみも、全くこれっぽっちも欠片も感じないクズな私を許して下さい。そして、そんなクズな自分を肯定し、全く改める気のない私を許して下さい……)
私は自分が穢した花々を踏みにじった。茎は折れ、花弁は土にまみれ、葉は潰れた。
何を、やっているんだ。私は。
急いでしゃがみ込み、荒らした腐葉土の中をほじくって、めちゃくちゃになった花を探り出すと、いきなり涙が溢れて出てきた。
別にいきなり花に同情した訳じゃない。これは私なのだ。だから泣いている。
……来ないで下さい。
「来ないで、来ないでぇ……」
「――大丈夫ですか? ミーシャさん」
頭上から影が降る。大きな、大きな影が。
小さな私は、その中にすっぽり収まってしまうだけの存在でしかないというのか。そんな訳の分からぬ自嘲が込み上げてくる。だが、ロクサーヌの影を認識した私の精神は瞬く間に均衡を取り戻し、気付けば嗚咽も止まっていた。
「ハンカチ、使いますか?」
「……要らない。自分でどうにかできる」
口元の汚れも、涙も、鼻水も、杖さえ振れば、ほら元通り。私は水を生み出し、全ての穢れ洗い流した。
手に付いた土も流し、花も……流す。
地面の泥水の上を流れてゆく花からさっと視線を切る。こんなところに長居することもない。遅刻する前に、さっさと教室へ向かおう。一組の教室へ……そうしたら、取り敢えずクラスが違う二組のロクサーヌとは別れられる。
だが、一歩踏み出したところで、ロクサーヌにガシッと肩を掴まれた。痛くはない。けれども、抗いがたい力強さだった。
「ミーシャさん、いかがですか? 今夜、わたくしの友人たちと一緒にお食事でも――」
「ねえ……どうして、私なんかに付き纏うの」
鬱陶しいを通り越して、ただ只管に疑問だった。なぜ、こんな私なんかに。
「無愛想で、無口で、無表情で……つまんないでしょ。何を考えているか分かんないでしょ。……気味が、悪いでしょ」
ずっと、そう言われてきた。自分でも、そう思う。鏡を見る度、自分で自分が嫌になる。笑う時も泣く時も、私の表情筋はピクリとも動かない。まるで死人のようだった。
私の部屋には鏡がない。学院に来てすぐに叩き壊した。
『薄気味悪いわ、この呪われた子!』
また義母の声が聞こえた気がした。今日は良くフラッシュバックに襲われる日だ。しかし、それは脳に焼き付くことなくロクサーヌの一言ですぐさま掻き消される。
「ミーシャさん」
ロクサーヌはふわりと笑う。それは何ら後ろ暗さを感じさせない笑みで、きっと私には一生涯をかけてもできないだろうと思わされてしまうほど美しかった。
「気味が悪いだなんて、そんなことはありませんわ。だって――」
伸ばされたロクサーヌの指先が私の前髪に触れ、髪先を滑るように耳元へ抜けてゆく。そして、ロクサーヌのまっすぐな瞳と目が合った瞬間、私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われた。
「貴方はこんなにも可愛らしい」
予想だにせぬ言葉を受けて私は固まってしまう。ようやく動き出せた時には、既に十秒近く経過していた。私は急いで顔を背けたが、それまでの間ずっとロクサーヌと見つめ合っていたことを思うと、言いしれぬ恥ずかしさが込み上げてきた。
「まあ、お顔が真っ赤。まるで、ザクロの実のようですわ」
「うっ……そ、そうやって、取り巻きの人たちも口説いたの?」
「嫌ですわ、取り巻きだなんて。彼女たちはわたくしの人生を豊かなものにしてくれる、大切な友人たちですわ。互いに助け合い、高め合い、孤独な人生を共に歩み退屈な隙間を埋め合う……わたくしは、一人でも多くの人とそういう関係になりたいのですわ。もちろん、貴方とも」
よくも、そんな小っ恥ずかしいセリフを素面で吐けるものだ。私の方が先に我慢できなくなり、その場から駆け出す。
「わ、わるいけど……私は今、幸せなの。一人だから、幸せなの! お願いだから、もう話しかけてこないで!」
今度は、呼び止められなかった。
―――――――――――――――――――――――――――
「ねぇ、そろそろ冬期休暇だよ。なにか予定ある?」
「私はアルゲニアに観光しに行く! 家族と一緒に!」
「へぇ、いいなぁ~! 私は帰省。アラム地方のド田舎だから、行って帰ってきたら殆ど休暇終わっちゃう!」
楽しそうに笑い合うクラスメイトたちのすぐ側で、私はひっそりと教科書をカバンにしまう。
「明日は期末試験か~、成績悪いと親に怒られちゃうなぁ」
「前日になってから気にしても遅いって。流しときゃ良いのよ、流しときゃ」
「うわ、悪いんだ。私は今日ちょっと勉強しとこ」
「今更やっても意味ないって! 遊びにいっちゃお!」
忘れ物はないことを確認した私は静かに席を立った。そして、誰にも話しかけられることなく、教室を出る。
ここはいい。
誰も、私になんか関心を払わない。私が妾の子であることも、ましてや王党派貴族の血を引くことすら、誰も知らないのだろう。きっと、話したところで興味も持たれない筈だ。
ああ……なんて、居心地が良いのだろう。
私は、ミーシャ。
唯のミーシャ。
以前は母姓アッ=ダーヤを名乗っていたが、特に良い思い出もなく、植民者風の名前とミスマッチに感じたので捨てた。だから、私は唯のミーシャだ。
クレプスクルム魔法女学院に通う、中等部二年生の魔女見習い。呪いと共に生を受け、そして魔法という祝福に救われた。
だから、私は今とても幸せだ。
「ねえ、貴方――」
……いや、訂正する。彼女が現れるまでは、幸せだった。
「わたくしとお友達になってくれませんか?」
「えっ?」
出会いは余りにも唐突だった。私が図書館で本を読んでいる時、彼女がいきなりそんな風に話しかけてきた。
「あら、聞こえませんでしたか? では、もう一度――わたくしとお友達になってくれませんか?」
座る私を見下ろしながら、彼女――ロクサーヌはニコリと太陽のように笑った。
「わたくしたち、きっと良い関係を築けると思いますの」
触手の魔女・外伝 1.文学少女
放課後、私はいつも決まって図書館に向かう。学院の図書館には古今東西から蓄えられた叡智が、文字通り山のように保管されている。その数、数十万冊にも及び、今なお増え続けている。全ての蔵書を読み切るには人生が三回あっても足りないだろう。
しかし、今日の図書館行きはやめだ。また彼女に絡まれたら読書どころではない。
ロクサーヌ――二組の生徒で、私と同じ二年生で、学院で一番煩い奴。
最近、どういう訳か私は彼女とその取り巻きの連中に付き纏われていた。何かした覚えも、何かされた覚えもない。理由はともかく、重要なのは彼女たちの手によって、私の平穏な日々があっけなく崩れ去ってしまったことだ。
変化は嫌いだ。否応なく、心がさざめく。だから、ライフワークである図書館行きを止めるのは私にとって苦痛を伴う決断だった。
しかし、同じ行動を取り続けて別な結果が返ってくると期待するのは狂気だ。ロクサーヌと会いたくないなら、やはり行動を変えるしかない。
そういう訳で、私は図書館とその周辺に近寄ることすら避けて、わざわざ人の来ない校舎裏にまで足を運ぶようになった。今のところ、この場所はロクサーヌたちに見つかっていない。
よく陽のあたるベンチに腰掛け、カバンの中から一冊の小説を手に取る。不幸な出自を持つ町娘が、若い金持ちの美男子と出会ってお互い恋に落ちる話だ。だが、二人の恋路にはいくつもの困難が立ちはだかる。
昨日は、幼い頃に別離した町娘の父親が、美男子の経営する会社を潰そうと画策する悪徳貴族だと判明したところまで読んだ。続きが気になっていたので、栞をたくる手もいつもより心持ち素早い気がする。
「――アンタ、ミーシャよね?」
だが、いざ続きの活字を無心になって追おうとしたところで、意識外から声をかけられ出鼻をくじかれた。
「……そうだけど」
「私はリン。よろしく」
本から顔を上げると、眼の前にはいつの間にかリンが居た。その端正な顔を上下に貫く痛々しい傷跡にはかなりの威圧感があり、息がかかるほど近くに立たれていたこともあって私は思わず悲鳴を上げそうになった。
(うっ、ホントに凄い傷……半年も前の傷なのに、今にも血が吹き出してきそう……)
私は一組なので、三組のリンと面識はない。だが、彼女はなにかと話題になる有名人なので名を知っていた。その絶望的なまでの魔法の腕。そして、使い魔と契約してからの華々しい飛躍。良くも悪くも目立ってしょうがない。
使い魔による恩恵は身体機能の僅かな底上げでしかないというのに、純粋に剣の腕だけであのグィネヴィアに直接対決で二度も土を付けるとは大したものだ。
今じゃ、表立ってリンを謗るものは殆どいない。せいぜいが迂遠な嫌がらせや、「魔女らしくない」と言った陰口をこそこそと内輪で叩き合う程度だ。それぐらいにしておかないと、翌日には学院の時計台に裸で磔にされてしまう。
しかし、集団の中にあって異彩を放たずには居られないリンのことを私が知っているのはともかく、彼女の方が私のような日陰者を知っていたのは少し意外だった。
(眼、怖っ……)
リンは無言のまま私の全身をくまなく観察するようにジロジロと見てくる。
こうして人を舐めるように見るのはリンの癖だ。指先のちょっとした油断すら見咎められているようで、見られている方としてはあまり気分の良いものではない。ご多分に漏れず、私もリンを苦手に思っているものの一人だった。緊張して、全身の動きが固くぎこちなくなる。
(でも良かった、ロクサーヌじゃなくて……)
しかし、すぐにリンがロクサーヌと仲良しだったことを思い出す。まさか、リンはロクサーヌに言われて私を探しに来たのではないか? そう不安に思いながら、私はおそるおそる用件を尋ねる。
「何の用……?」
「単刀直入に言うわ。アンタのお父さんは王党派貴族だそうね。アンタ自身は、王党派ということで良いのかしら?」
ロクサーヌ絡みではなかった。しかし、それで安心するどころか、気分がガクンと沈んでゆくのを感じて、私は眼を閉じた。
遂に来たか、という思いだった。
そろそろ、中等部二年から三年へ進級する頃である。その次となると、もう高等部。これはつまり、両派閥の勢力図がおおよそ固まってくる頃なのである。
高等部の『特進クラス』へ進む生徒は貴族が多い。なぜなら、魔法科目以外の一般教養科目の成績も加味されるので、魔法という玩具に興味を惹かれ、それのみに汲々としてしまいがちな平民より、一斉魔力検査より前の幼少期から家庭教師を雇って教育することが普通な貴族の方が全体的な成績は上になりがちなのである。
そして、数少ない平民の成績優秀者――リンやアナスタシアみたいなの――は、大体どちらかの派閥に取り込まれる。
そういう流れの中で王党派に付いた新入りのリンが使い走りとなって、今まで放置されていた私のもとにも意思確認に来た、といったところだろう。
――答えは決まっている。
齢六つを数えた時、一斉魔力検査で魔法の素質を見いだされ学院にやってきた時から、私の心は少しも変わっていない。
「私に家族はいません。私は、唯のミーシャ。それ以外の何者でもありません」
「そう……アンタがそう言うなら、そう伝えておくわ」
リンは特に食い下がることなく踵を返した。目的は意思確認で、勧誘とかではないようだ。ほっとしたのも束の間、リンは去り際にとんだ爆弾を残してゆく。
「ただ、お父さんの方はそうは思っていないみたいだけどね」
一応留意しときなさいよ、と言い残してリンは去っていった。
結局、今日も校舎裏の場所はロクサーヌに見つかることはなかったが、リンの言葉が気になって読書も手につかず、私はいつもより早く寮の自室に戻る羽目になった。
父のことなんてすっかり忘れていたのに……下らない派閥なんかの所為で思い出させられて、非常に気分が悪かった。思い出したくもない記憶が何度も頭を過りそうになり、私はその度に顔を枕に埋めた。
そうして暫く一人ベッドの上に寝転がっていると、ふと急な寂しさに襲われた。
私は枕元の杖を振って門を開き、授業や折節実習以外では久し振りに使い魔を召喚する。タッと軽やかに着地した幼き霊鹿のエッダが、トーンと軽やかに跳ねて私の胸に飛び込んでくる。
「うあっ……ぷ」
エッダが濡れた鼻先を私の顔に擦りつけてくる。そして、私たちは互いの重みに圧し潰されるようにして、一緒にベッドに寝転がった。
(私が、喚び出した理由が分かってるのかな……?)
エッダは賢くて、優しい子だ……私とは大違い。いや、もしかしたら、単に寂しがり屋なだけかもしれない。
(だとしたら、私と同じ……)
ちょっと湿っぽいエッダの毛皮に顔を埋めながら、私はいつしか眠りについていた。
これが最後の安息の眠りとなった。
翌日から、私は王党派の執拗な呼び出しに悩まされることになる。
「――穢らわしい!」
私とは血の繋がりのないデュノワ家の本妻――つまり私の義母――が、軽蔑の眼で私を睨み付ける。いかにも、怒り心頭といった風情だ。敬虔な国教会の信徒である義母は、私のような庶子という存在自体が許せないのだろう。そして、女のプライド的にも気に入らない。
義母の隣では、デュノワ家の長男、当時十六才のフランクが青い顔をして座っている。私へのイタズラがバレてしまったのだから、それはそれは気まずかろう。既に彼の父親――こちらは私の実父でもある――から、しこたま絞られたあとだ。
遠巻きに長女アデライドと次女モニークが、ことの成り行きを含み笑いで静観している。
そんなに楽しいか、兄の失態が。
そんなに面白いか、私の存在が。
そして、そんな彼らの中心に一斉魔力検査を受ける前の無価値な私がいた。
この時の私は、何を感じ、何を思っていたのだろうか。
「血は争えないわね。その年で既に売女だなんて……!」
あてつけのような義母のセリフは、私じゃなくデュノワ家の現当主、父に向けられていた。いつもは偉そうな父も、この時ばかりはばつの悪そうな顔でしきりに髭をいじるばかりだった。
ああ、そろそろ次女モニークが我慢できなさそうだ。
下品にもガパッと大口を開けて――。
「――キャハハハハハ!」
体がビクッと勝手に反応し、本能的に警戒態勢を取る。
私の側を通り過ぎてゆく名も知らぬ生徒の無邪気な笑い声が、あの時の次女モニークの嘲笑を思い起こさせたのだ。一度想起したフラッシュバックは脳裏に焼き付き、簡単には消えてくれそうにない。
私は突如として襲いかかってきた憂鬱な気分に滅入りながらも、登校の歩みを再開させた。
リンが私のもとへ来た後、一通の手紙が届いた。父からだ。
『我が愛娘、ミーシャへ』
そんな冒頭の文を見た瞬間、私は手紙を握りつぶしそうになったが、どうにかこうにか自制の心を働かせて堪えた。
何が愛だ。
お前からなにか一つでもプラスの良いものを受け取った覚えはない。侮蔑か、拳骨ぐらいのものだろうが。
『――近々、学院の方へお邪魔させてもらうことになったよ。久しぶりに会える日を楽しみにしている――』
なんと書いてあるのか、すぐには理解できなかった。活字には慣れ親しんだ私だ。理解できない筈もないのだが、驚いたことに脳の方が理解を拒絶したのだ。けれども、いくら目を背けたところで現実は揺るがない。やがては、その文面を理解してしまった。
(来るな……!)
来る、アイツが。
(来るな来るな来るな来るな来るな来るな……!)
私の楽園に……来てしまう……!
「う、おぇっ……」
胃から込み上げてくる不快感に抗えず、私は学院校舎の壁に手を付いて朝食を吐き出した。吐瀉物は壁を伝って下にあった花壇に落ち、可憐な花々を穢した。
ごめんなさい。
(神よ、許して下さい。片付ける気も、花に対する慈しみも、全くこれっぽっちも欠片も感じないクズな私を許して下さい。そして、そんなクズな自分を肯定し、全く改める気のない私を許して下さい……)
私は自分が穢した花々を踏みにじった。茎は折れ、花弁は土にまみれ、葉は潰れた。
何を、やっているんだ。私は。
急いでしゃがみ込み、荒らした腐葉土の中をほじくって、めちゃくちゃになった花を探り出すと、いきなり涙が溢れて出てきた。
別にいきなり花に同情した訳じゃない。これは私なのだ。だから泣いている。
……来ないで下さい。
「来ないで、来ないでぇ……」
「――大丈夫ですか? ミーシャさん」
頭上から影が降る。大きな、大きな影が。
小さな私は、その中にすっぽり収まってしまうだけの存在でしかないというのか。そんな訳の分からぬ自嘲が込み上げてくる。だが、ロクサーヌの影を認識した私の精神は瞬く間に均衡を取り戻し、気付けば嗚咽も止まっていた。
「ハンカチ、使いますか?」
「……要らない。自分でどうにかできる」
口元の汚れも、涙も、鼻水も、杖さえ振れば、ほら元通り。私は水を生み出し、全ての穢れ洗い流した。
手に付いた土も流し、花も……流す。
地面の泥水の上を流れてゆく花からさっと視線を切る。こんなところに長居することもない。遅刻する前に、さっさと教室へ向かおう。一組の教室へ……そうしたら、取り敢えずクラスが違う二組のロクサーヌとは別れられる。
だが、一歩踏み出したところで、ロクサーヌにガシッと肩を掴まれた。痛くはない。けれども、抗いがたい力強さだった。
「ミーシャさん、いかがですか? 今夜、わたくしの友人たちと一緒にお食事でも――」
「ねえ……どうして、私なんかに付き纏うの」
鬱陶しいを通り越して、ただ只管に疑問だった。なぜ、こんな私なんかに。
「無愛想で、無口で、無表情で……つまんないでしょ。何を考えているか分かんないでしょ。……気味が、悪いでしょ」
ずっと、そう言われてきた。自分でも、そう思う。鏡を見る度、自分で自分が嫌になる。笑う時も泣く時も、私の表情筋はピクリとも動かない。まるで死人のようだった。
私の部屋には鏡がない。学院に来てすぐに叩き壊した。
『薄気味悪いわ、この呪われた子!』
また義母の声が聞こえた気がした。今日は良くフラッシュバックに襲われる日だ。しかし、それは脳に焼き付くことなくロクサーヌの一言ですぐさま掻き消される。
「ミーシャさん」
ロクサーヌはふわりと笑う。それは何ら後ろ暗さを感じさせない笑みで、きっと私には一生涯をかけてもできないだろうと思わされてしまうほど美しかった。
「気味が悪いだなんて、そんなことはありませんわ。だって――」
伸ばされたロクサーヌの指先が私の前髪に触れ、髪先を滑るように耳元へ抜けてゆく。そして、ロクサーヌのまっすぐな瞳と目が合った瞬間、私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われた。
「貴方はこんなにも可愛らしい」
予想だにせぬ言葉を受けて私は固まってしまう。ようやく動き出せた時には、既に十秒近く経過していた。私は急いで顔を背けたが、それまでの間ずっとロクサーヌと見つめ合っていたことを思うと、言いしれぬ恥ずかしさが込み上げてきた。
「まあ、お顔が真っ赤。まるで、ザクロの実のようですわ」
「うっ……そ、そうやって、取り巻きの人たちも口説いたの?」
「嫌ですわ、取り巻きだなんて。彼女たちはわたくしの人生を豊かなものにしてくれる、大切な友人たちですわ。互いに助け合い、高め合い、孤独な人生を共に歩み退屈な隙間を埋め合う……わたくしは、一人でも多くの人とそういう関係になりたいのですわ。もちろん、貴方とも」
よくも、そんな小っ恥ずかしいセリフを素面で吐けるものだ。私の方が先に我慢できなくなり、その場から駆け出す。
「わ、わるいけど……私は今、幸せなの。一人だから、幸せなの! お願いだから、もう話しかけてこないで!」
今度は、呼び止められなかった。
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