触手の魔女 ‐Tentacle witch‐

塩麹絢乃

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第三章

4.勝利 その⑤:戦利品

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 情け容赦のない現実は、私に勝利の余韻に浸る間も与えてくれない。

 次から次に問題ばかり突きつけてくる。

「あ、あ、あぁ……あぁぁぁ……」

 さっきから喘ぎ声のような悲鳴を上げているのは美女の異形だ。その声は、溢れんばかりの悲嘆に暮れ、後半になると脱力したように急激に小さくなっていった。まるで自らの無力さを悟り、気力という気力を根こそぎ奪われてしまったかのように。

 嫌な、予感がした。

 いや、これは予感なんて曖昧なものじゃない。既にだった。身悶えするような嫌な実感が私の全身を駆け巡る。

「あぁ、ヘルガさん……!」

 続いて聞こえたルゥの声で、私は覚悟を決める。僅かな逡巡を経て、ルゥの視線の方を振り向いた時、そこにはどうしようもなく悲惨な現実が私の人生に横たわっていた。

(どうして、こうなるのよ……!)

 植物の『渡り廊下』を行くヘルガさんの背中には、醜男の異形が弾いた大鎌が深々と突き刺さっていた。故意か、偶然か。醜男の異形がアニマを斬られて気絶している今、それは確かめようもないことだ。

 しかし、一目見ただけで分かることもある。

 彼女は――ヘルガさんは、もう助からない。

(私は勝った……勝ったでしょうが! どうして、そこで気持ちよく終わらせてくれないのよ……!)

 後悔が頭を駆け巡る。囮であることを自覚した私が下手に出しゃばらなければ良かったのか。民宗派がヤケを起こさなければ良かったのか。ルゥじゃなく別の人物に協力を頼んでいれば、もっと早くに私が駆けつけていれば、美女の異形を信頼することなく自力だけで醜男の異形を倒していれば……。

 足が震え出し、上手く力が入らなかった。私も、そこの美女の異形のようにへたりこみ、地面に蹲ってしまいたかった。

 それを堪えられたのは、私のいる角度からはヘルガさんの抱えている赤ん坊、ターシャの姿が見えていたからだ。

 落ちる。このままでは落ちる。

 あの赤ん坊が、三階の高さから地面に落ちてしまう。

 ヘルガさんの少し先を走っていたヨセフさんが慌てたように戻ってきて、二人に手を伸ばすも間に合わない。私は思うよりも早く、地面を駆け出していた。

 死にゆくヘルガさんの腕からターシャが零れ落ちてゆく。

「マネエエエエエェェェェ!」
「くっ――間に合わねぇ!」
「間に合わせろ!」

 ヘルガさんは助からなかった。

(けど、せめて……せめて、ターシャだけでも……!)

 マネの体組織は残りわずか。この全力疾走は予測される落下地点まで保たないだろう。そう考えている間にも、マネはその体積をみるみると減らしてゆき、やがて全身から補助サポートされる感覚が消えた。

 ――後は自分の脚で走れ。

 返事もできない。ただ無心でひた走る。走る。走る。

 だが、やはり誰がどう見ても落下地点には間に合いそうになかった。それでも、私は足を緩めず走った。そうするしか、なかった。私の背後より迫り来る後悔から逃げ切るためには。

「沈め大地よ――」

 その時だった。横合いから、思わぬ救いの手が差し伸べられる。

「【沈下サブサイデンス】!」

 いきなり、落下地点周辺の地面がごっそりと沈下した。私は横目に、その現象を引き起こした魔女ウィッチの姿を捉えていた。

(カルバ! ――遅いのよッ!)

 地面に杖を突き立てるカルバとアイコンタクトを交わし、私は更に加速する。これで距離的に余裕が生まれた。私は今さっき出来たばかりの下り坂を駆け降り、祈りを込めて両手を伸ばし飛び込んだ。

「――と、届いた!」

 絶望しか存在しなかった胸中に喜びが生まれる。ルゥとカルバも、それを見てほっとため息をつく。

 間に合った、私は間に合ったんだ! ヘルガさんは助けられなかったけど、ターシャだけは……! ターシャちゃんだけは……!

 だが、喜びも束の間、じんわりと腕に伝わってくる生暖かい感触に震えが起こる。

「……嘘、でしょ……」

 これは――血だ。

 誰の? 決まっている。今、抱きしめているターシャの血だ。

 恐る恐る覗いたターシャの脇腹には深い刺傷があった。現在進行系で流血は続いており、見る間に赤いシミが彼女と私の服に広がってゆく。ヘルガさんの背中に刺さった大鎌は、胸中に抱かれていたターシャにも届いていたのだ。

 抑えても抑えても血は止まらず、ターシャは泣き声一つ上げることなく私の腕の中で静かに息絶えていった。

 カルバは、黙って眼を伏せた。

 ルゥは泣いていた。

 私は……呆然とするばかりだった。ただただ、受け止めた時はまだ暖かったターシャが、刻一刻と熱を失って冷たくなってゆくのを感じていることしかできなかった。

「ヘルガ……ターシャ……ふたりとも返事をしてくれ! 泣き声でも呻き声でも良い……声を……お前たちの声を聴かせてくれ!」

 頭上の『渡り廊下』でヨセフさんが叫んでいる。すぐ近くにいる筈だが、私には遥か遠くの声に聞こえてしかたなかった。

 そのうち静かになったかと思うと、上からドサリと何かが落ちてきた。それは、首元を何らかの刃物で掻き切ったヨセフさんの死体だった。一瞬にして妻と子を失い、生きる気力を失ったか。

「ヨセフさん……! そんな……!」

 ルゥが顔を覆う。

 だが、私はもはや悲しむとかそういう次元は通り越しており、無手のヨセフさんの死体を見て、ヘルガさんに突き刺さったままの大鎌の先で首を切ったのだろうかなどと意味のないことを考えていた。

「ああ……」

 不意に美女の異形が嗚咽を漏らした。

「どうして……私の人生、は……こんなにも上手くいかない、報われない……どうして、どうして……こんな災難ばかりが、苦難ばかりが、降りかかる……幸せに……なりたかった……正しく、ありたかった……それだけ、なのに……こんなもの、望んでいないぞ……」

 暫く俯いたまま地面にぽたぽたとシミを作っていた美女の異形だったが、俄にハッと何かに気付いたように顔を上げた。

「そうだ、『指輪』……『指輪』はどこだ……!?」
「だから、持ってないって……言ってるじゃないですか!」

 立ち上がったルゥが右足を引き摺るようにしてこちらに歩いてくる。よく見ると、足首があらぬ方向へ曲がっている。逃走中に骨折していたのだろう。

「投げ渡したじゃないですか。逃げながら、これが指輪ですと」
「いや、だからアレは、偽物で……」
「だから、そうだって! 最初から偽物なんだとも言ったじゃないですか!」

 ルゥは涙を流しつつ怒鳴りつけた。彼女が声を荒げるなんて珍しい。付き合いの長いカルバも驚いたようにルゥを見つめていた。

 ルゥの剣幕に気圧され、美女の異形は再び顔を伏せた。

「そう、だよなぁ……最初から、分かっていたさ……それでも、私たちは……最期に……やるしかなかったんだ……!」
「……ふざ、けるな」

 傍目にもルゥの怒りのボルテージが一気に高まるのが分かった。

「ふざけるな! この――」

 人殺し、そんなありきたりな罵倒をぶつけるつもりだったのだろう。しかし、それは言葉にならなかった。私が、途中で横から割り入って止めたからだ。

「――リ、リンさん?」

 美女の異形を気遣った訳でも、ルゥを気遣った訳でもない。ただ、合理的な閃きが私をそうさせた。

 ここで美女を追い込み過ぎて精神に異常を来されても困る。私は片腕でターシャの亡骸を抱きかかえつつ、もう一方の腕で美女の顔を引き上げさせた。

 彼女の名前は――そうだ、ヘノベバだ。醜男の異形がそう言っていた筈だ。

「ヘノベバ……で良かったかしら?」

 彼女は答えない。しかし、発している雰囲気から合っていることを読み取り、話を続ける。

「ねえ、アンタらに情報を流したのは誰?」
「は、はぁあ……? どういう、意味だ……」

 涙声ながらも、美女の異形は応える。いいぞ、いい調子だ。

「まだ分かんない? アンタら騙されたのよ、まんまと利用されたのよ。悔しくないの? ムカつかないの?」

 国教会主導で行われている民宗派への尋問は、今のところ目立った成果を挙げられていないらしいが、私が思うにそれは過酷な尋問が却って民宗派側に殉死する覚悟を決めさせてしまっていることに原因がある。もっと、硬軟を織り交ぜるべきなのだ。そして今、眼前のヘノベバには「軟」が有効だと私は見ていた。

 間違いなく内通者は存在する。

 そいつは、逃亡ルートまでは用意しなかったが、『指輪』の受け渡し方法ぐらいは融通した筈だ。そこへ先回りすれば、内通者の尻尾を掴むことができるかもしれない。

「『指輪』を奪取してどうするつもりだったの? アンタらの能力では包囲網を突破できる訳もないし、何らかの受け渡し方法が提示されていた筈よね?」

 ヘノベバは息を呑んだ。よし、私の考えは正しい。

「お願い、受け渡し方法について私に教えて!」

 勝負に勝ったのは私だ。しかし、今はそのことを勝ち誇っても意味がない。だが、かと言って下手に出過ぎるというのも逆に良くない。

 私は言葉に気を使いつつ情に訴え、その感情の向かう矛先として共通の目的をそれとなく掲げる。そして、それが正しいことであると暗に説く。

「私たちの想いは一緒よ。この子の死を、無駄にしたくはないでしょう?」

 一度、剣を交えた経験がこのように話すべきだと言っていた。彼女のパーソナリティなら、こう言うのが一番心に響くと。

 手前味噌だが、それはかなり正確なところまで行っていたと思う。ヘノベバの反応を見れば、私の言葉に興味を示していることが一目瞭然だった。

 けれど、一つだけ誤算があった。

「そうだ……善良なる者の死を、無駄にする訳にはいかない……!」

 それは彼女もまた、こと。

 彼女の瞳の奥に潜む濁ったものの存在に気付いた時には全てが遅かった。ヘノベバは何処からか取り出した符のようなものを振り上げ、私の足元に叩きつける。その瞬間、地面に張り付いた符のようなものから光が溢れ出し、召喚魔法陣に酷似した陣をその場に形成する。

「すまない……これでも私は『神々エロヒム』の復権に身を捧げた女なのだ、本当にすまない……」

 眼の前に居た筈のヘノベバの声が、まるで壁越しの声のようにくぐもって聞こえる。

 急いで身を引こうにも、マネの補助サポートがない私では絶対に間に合わないと、戦闘に特化した私の才能が告げてくる。

 これは――〘人魔合一アハド・タルマ〙だ。

 むしろ、変に抵抗する方が術が未完成に終わる危険性がある。だから、私は無駄な足掻きを試みようともせず、ただその場に立ち尽くしていた。そして、なおも強まる光が視界を掻き消してゆくのをぼんやりと眺める。

 私は、これからどうなるのだろう……下手を打ったなと、他人事のように考えながら。

「――リンさん!」

 その時、突然ドンッと体の横側に衝撃が走り、私は大きく蹌踉めいた。

(ルゥ……!?)

 自分が光から弾き出されたことを理解し、私は現実逃避的な思考からも脱する。だが、自力で抜け出すことも出来なかった私に今更何ができるというのだろう。

 私は、自分の身代わりとなって光の中に消えてゆくルゥの横顔を、一番近くでただただ見詰めていることしかできなかった。
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