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第三章
5.敗北 その④:救済
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「昨日さ、ウチのが財布買うてきたのよ」
「イイじゃん。なぜに、お前さんはそんな辛気臭い顔しとると?」
外の厳重ぶりゆえにか中の者たちは気を抜き切っており、武器ではなく珈琲を片手に駄弁を重ねていた。まあ、彼らは警備でなく事務方だそうだから、それもある程度は致し方ないのかもしれない。
「なぜにて、そりゃバカ高ぇ財布だったからよ! ワニ皮だよワニ皮! ごつごつして使いにくいだろ! たぁしかに、運良くここの配属になったおかげでオレっちは高給取りよ? しっかし、いつまでもこの仕事な訳でもねーじゃん。民宗派なんぞ、そのうちに死滅するだろーしよ!」
「くくく、そりゃ災難だったな。けんども、お前さんにも責任はあると思いよるよ。要は舐められとるのだから。ここは一発、稼ぎ頭のお前さんが示しを付けてやんなきゃ――」
「ん? おい、急に黙ってどうし――」
隠形にて気配と魔力を抑え、不用心な彼らの背後にさっと忍び寄った私は、一人一刀で騒ぐ間も与えず二人を夢の世界へ招待した。
「お美事」
「さぁて……鍵はどこかなぁ?」
私の後からカルバとワキールもやってきて、ここ『処遇部事務室』の中をざっと見渡す。情報によれば、月を蝕むものを収容している檻房の鍵は彼らが管理している筈だ。
「――あった」
鍵は、彼らの机の上にあった。ご丁寧に『収容房前扉』と名前まで書いてあるフックに堂々とかけられている。私はそれを手に取ると、思わずじっと眺め入ってしまう。
(この先にルゥが……)
意を決して、私は収容房へ続く扉の前に立つ。
「いよいよだねぇ。覚悟は良いかい?」
ワキールがそう問いかけると、カルバは無言で私の後ろに控えた。さながら、私に最終判断を委ねるかのように。
「無論」
改めて言われるまでもない、私は鍵穴にぶつけるように鍵を挿入した。
「ぎぃ~」
直後、響いたその間抜けで奇怪な音は、開かれた扉の軋む音などではない。音もなく開いた扉の隙間から漏れ出てきた何者かの呻き声だった。
扉を完全に開き切ると、薄暗がりの中に延々と一直線に伸びる通路に出た。その両側には、鉄塊をそのまま押し込めたような分厚い鉄扉が幾つも立ち並んでいる。
「ぎぃ~~~~! いぃ~~~ひっひひひっ!」
その奇怪な声は、一番手前の右の檻房から響いているようだった。余りに異様だったので気になった私は、鉄扉に備え付けられた狭い鉄格子からおそるおそる中を覗いた。
「――っ!」
思わず、息を呑んだ。
檻房の中では、手足を切り落とされイモムシのようになった異形が台の上に拘束されていた。それだけではなく、ここから見えるほどに大きく開腹されており、皮膚を金具で固定されている。だが、異形はそれらをまるで何でもないことかのように元気に身をくねらせ、台の上で藻掻き続けていた。
もっとも驚いたのは、檻房内に陳列された手足の数だ。その数、優に五十は下らないだろう。
(まさか……手足が生える側から切り落としているの?)
回復力に長けた種類の月を蝕むものであれば、魔法を行使せずとも新たな手足を生やすぐらいは造作もないという。開腹したままにも関わらず元気なところを見ても、やはり彼は回復力に長けた異形に違いない。
「うっ……」
カルバが青い顔で口元を抑える。それとは対照的に、ワキールは平然としていた。
「酷いものだろう? 彼は単なる塗装工で民宗派とは一切の繋がりがないのにねぇ……」
「なら、どうして」
「証明できなかったからさ。自分が潔白であることを」
酷なことを。できる訳がないだろう、そんな証明なぞ。
私はこれ以上その異形のことを見ていられず、カルバの腕を引っ張って扉の前から離れた。
「……まだ、分からないわ。彼の過去は、アンタがそう言ってるだけの出任せかもしれない。私が絶対的に民宗派と繋がりがないと分かっているのは、ルゥだけだもの……」
「そ、そうだ……リンの言う通りだ」
カルバは自分に言い聞かせるように私の言葉に同意した。気を強く保つんだ。私は彼女の手を強く握った。勇気付けようとしたのだ。彼女を、というよりは私を。
ワキールは「疑り深いねぇ」と言いながら、廊下の先を指差す。
「それじゃあ、行こうか。ルゥのもとへ」
一直線に伸びる通路の先へ歩き出したワキールに続いて、私たち二人も歩き出す。両側から聞こえてくる憤怒怨嗟の奇声を努めて聞き流しながら、薄暗がりに伸びる通路をひたすらに突き進んでゆく。
どれほど歩いただろうか、きっとそう時間は経っていない違いない。短くて数十秒、長くても数分かそこらだ。
しかし、私にはそれが何十分にも感じた。
私の胸中に渦巻く不安と恐れがそう感じさせた。
強制的に〘人魔合一〙の術を執行され、そればかりか異形の定着に失敗してここへ担ぎ込まれたルゥが、まさかそれ以上の理不尽な目に遭っているだなんて、とてもではないが信じたくない。
けれども、ここへ来て月を蝕むものに対する扱いの一端を垣間見、僅かに不安の芽が顔を出し始めていた。
もしかしたら。あるいは。本当に。
そんなネガティブな想像ばかりが次々と湧き出てくる。
「ここだ」
ワキールが、他と同じく何も書かれていない扉の前で止まった。焦れる私はワキールを押し退け、勢い良くその扉のノブを引っ掴む。
(そんな筈はない――!)
不安の一切合切を振り払うべく、私はその扉を力一杯に押し開く。
鍵は、開いていた。
「あ――」
果たして、その声はどこから漏れたものだったか、そんなことはもうどうでもいい。
いの一番に、カルバが部屋の中央へと躍り出た。
「――姐さん、何をやっているんだ!?」
「カルバ!? ……と、あぁ、やはりそうか。合っていたじゃないのさ。私の見込みは!」
ナタリーさんは、カルバの後ろに居る私とワキールの姿を見て、全ての経緯を察したようだった。血まみれの鋸を、ルゥを拘束している台の隣に置き、同じく血まみれの手で杖を取る。
「リン! この薄汚い裏切り者め! やはり獣と通じていやがったな、魔女の恥晒し!」
「――姐さん、今そんなことはどうだっていいよ! 何をやっているんだと聞いているッ!」
「どうもこうもない……不憫じゃあないか!」
油断なく私とワキールを睨み付けながらも、ナタリーさんはカルバを諭すように言葉を紡ぐ。
私たちの間にカルバが真っ先に割り入ったおかげで、彼女の存在が緩衝地帯として機能していた。でなければ、既に切った張ったの戦闘に突入していたことだろう。
私とワキールが動かないので、ナタリーさんはまずカルバの方をどうにかすることにしたらしい。
「こんな姿にされちまったルゥが、この国でどう生きる!? 国教会の教えに背き、『唯一神』の寵愛を受けることもない!」
「意味がわからない! それが……どう今の状況と繋がるっていうんだ! その、鋸は……ッ!」
「せめて、見た目だけでも整えてやろうというアタシの親心が分からないか!」
「まさか、異形の部位を……ッ!」
そんなことは見れば分かるだろうに、と私の冷えた心は言う。
魔法使い用の拘束具――魔力を吸い上げ空気中に発散する仕組みのマジックアイテム――を嵌められ、周りには血みどろの大工道具、その上、あの意識があるのかないのか、もっと言えば生きているのか死んでいるのかも曖昧なルゥの表情。
(……ルゥ)
先程の哀れな冤罪者と同様、ナタリーさんはルゥの異形の部位を切除していたのだ。
「だが、切り取っても切り取ってもキリがないんだ……幾らでも無限に生えてきやがる! 薄気味悪いったらありゃしない!」
ナタリーさんは、地面に転がる蠍のような背甲を蹴り飛ばした。
要するに、ナタリーさんは己の潔癖な信仰心と、それが穢されてしまった現実との板挟みによって、このようなトチ狂った凶行に走ってしまったのだろう。
予兆はあった。しかし、私はそれを見逃した。
きっとそれは、単に情報の濁流に呑まれて忘却の彼方に追いやられた訳ではなく、私の精神の脆さが招いた過ちなのだろう。見たくないものを無意識的に視界から外してしまったがために、見逃してしまったのだ。
「リン、この狂人を止めるぞ!」
「カルバァァァ! この不信心者があああああ――!」
カルバとナタリーさんの双方共に杖を構えて魔法を構築するが、一日の長とも言うべきか、やはりナタリーさんの方が早かった。
「ぐっ――」
土手っ腹に【風弾】をブチ当てられ、木の葉のように吹き飛ばされるカルバ。風穴を開けられてはいないので、流石に非殺傷設定で放つ正気は残っているらしい。
「ワキール」
「はいはい」
私は無造作に前へ踏み出した。
「驕るなよ、リン! 閉所だからと言って見習い風情に遅れは取ら――!」
「もう取ってますよ」
信仰で曇った彼女の眼に、月を蝕むものであるワキールは真っ当な戦力として映っていない。その時点で、勝負は決まったようなものだった。
魔法が放たれる――牽制のような【風弾】。
だが、それは狙いを外す。
壁から伸びる子供の腕が、横合いからナタリーさんの腕を引っ張ったからだ。杖先が逸れ、壁の方にナタリーさんの眼が奪われた隙に私は一息で距離を詰めた。
「ッ――こなくそがあああァァァ!」
彼女は慌てて私に視線を戻すが、出来たのはそれまでだ。
(魔力が乱れ――指向性を帯びる)
これは技の起こり。魔法を構築する際、必然的に起こる前兆。
つまり、私に取っては絶好機だ。
私は、ナタリーさんの体内を巡る魔力の流れに沿うように魔力刃をあてがい、優しく撫でるように刃を這わせた
すると、ストン――と、ナタリーさんの身体が音もなく崩れ落ちてゆく。
斬った。
私は、気を失った彼女が頭を打たぬよう、途中で服を掴んで一度速度を殺してから地面に降ろした。
「スゥー……ハァー……」
何度も、何度も深呼吸をする。
「リン」
大丈夫だ、私は落ち着いている。心配するように蠢くマネの触手を軽く撫で付け、私はくるりと踵を返した。
「待った。何処へ行く?」
すれ違うワキールが私へ呼び止める。だが、私はそのまま彼の隣を通り抜けた。
「――約束は守るわ」
私が間違っていた。彼ら国教会の倫理を、ナタリーさんの信仰心を、何もかもを見誤っていた。しかし、それらは何も秘匿されていた訳じゃない。私がそうであって欲しくないという願望に縋り、眼を逸らしていただけ。
「救済のため、この収容所施設を制圧する。アンタは、ここでカルバの介抱をしていなさい」
「い、いや、その必要はないよぉ。後は警備システムを止めさえすれば『寄合』の襲撃部隊が来る手筈になっているから――」
「必要ないわ。図面も覚えてるし、警備シフトも大方把握した」
私が、さっきの『処遇部事務室』からちょろまかしていた資料をワキールに投げ渡すと、彼は「いつの間に……」と呟いた。
「見てなさい。五分で終わる仕事よ」
今日はアメ玉も充分過ぎるほどにあるのだから。
「イイじゃん。なぜに、お前さんはそんな辛気臭い顔しとると?」
外の厳重ぶりゆえにか中の者たちは気を抜き切っており、武器ではなく珈琲を片手に駄弁を重ねていた。まあ、彼らは警備でなく事務方だそうだから、それもある程度は致し方ないのかもしれない。
「なぜにて、そりゃバカ高ぇ財布だったからよ! ワニ皮だよワニ皮! ごつごつして使いにくいだろ! たぁしかに、運良くここの配属になったおかげでオレっちは高給取りよ? しっかし、いつまでもこの仕事な訳でもねーじゃん。民宗派なんぞ、そのうちに死滅するだろーしよ!」
「くくく、そりゃ災難だったな。けんども、お前さんにも責任はあると思いよるよ。要は舐められとるのだから。ここは一発、稼ぎ頭のお前さんが示しを付けてやんなきゃ――」
「ん? おい、急に黙ってどうし――」
隠形にて気配と魔力を抑え、不用心な彼らの背後にさっと忍び寄った私は、一人一刀で騒ぐ間も与えず二人を夢の世界へ招待した。
「お美事」
「さぁて……鍵はどこかなぁ?」
私の後からカルバとワキールもやってきて、ここ『処遇部事務室』の中をざっと見渡す。情報によれば、月を蝕むものを収容している檻房の鍵は彼らが管理している筈だ。
「――あった」
鍵は、彼らの机の上にあった。ご丁寧に『収容房前扉』と名前まで書いてあるフックに堂々とかけられている。私はそれを手に取ると、思わずじっと眺め入ってしまう。
(この先にルゥが……)
意を決して、私は収容房へ続く扉の前に立つ。
「いよいよだねぇ。覚悟は良いかい?」
ワキールがそう問いかけると、カルバは無言で私の後ろに控えた。さながら、私に最終判断を委ねるかのように。
「無論」
改めて言われるまでもない、私は鍵穴にぶつけるように鍵を挿入した。
「ぎぃ~」
直後、響いたその間抜けで奇怪な音は、開かれた扉の軋む音などではない。音もなく開いた扉の隙間から漏れ出てきた何者かの呻き声だった。
扉を完全に開き切ると、薄暗がりの中に延々と一直線に伸びる通路に出た。その両側には、鉄塊をそのまま押し込めたような分厚い鉄扉が幾つも立ち並んでいる。
「ぎぃ~~~~! いぃ~~~ひっひひひっ!」
その奇怪な声は、一番手前の右の檻房から響いているようだった。余りに異様だったので気になった私は、鉄扉に備え付けられた狭い鉄格子からおそるおそる中を覗いた。
「――っ!」
思わず、息を呑んだ。
檻房の中では、手足を切り落とされイモムシのようになった異形が台の上に拘束されていた。それだけではなく、ここから見えるほどに大きく開腹されており、皮膚を金具で固定されている。だが、異形はそれらをまるで何でもないことかのように元気に身をくねらせ、台の上で藻掻き続けていた。
もっとも驚いたのは、檻房内に陳列された手足の数だ。その数、優に五十は下らないだろう。
(まさか……手足が生える側から切り落としているの?)
回復力に長けた種類の月を蝕むものであれば、魔法を行使せずとも新たな手足を生やすぐらいは造作もないという。開腹したままにも関わらず元気なところを見ても、やはり彼は回復力に長けた異形に違いない。
「うっ……」
カルバが青い顔で口元を抑える。それとは対照的に、ワキールは平然としていた。
「酷いものだろう? 彼は単なる塗装工で民宗派とは一切の繋がりがないのにねぇ……」
「なら、どうして」
「証明できなかったからさ。自分が潔白であることを」
酷なことを。できる訳がないだろう、そんな証明なぞ。
私はこれ以上その異形のことを見ていられず、カルバの腕を引っ張って扉の前から離れた。
「……まだ、分からないわ。彼の過去は、アンタがそう言ってるだけの出任せかもしれない。私が絶対的に民宗派と繋がりがないと分かっているのは、ルゥだけだもの……」
「そ、そうだ……リンの言う通りだ」
カルバは自分に言い聞かせるように私の言葉に同意した。気を強く保つんだ。私は彼女の手を強く握った。勇気付けようとしたのだ。彼女を、というよりは私を。
ワキールは「疑り深いねぇ」と言いながら、廊下の先を指差す。
「それじゃあ、行こうか。ルゥのもとへ」
一直線に伸びる通路の先へ歩き出したワキールに続いて、私たち二人も歩き出す。両側から聞こえてくる憤怒怨嗟の奇声を努めて聞き流しながら、薄暗がりに伸びる通路をひたすらに突き進んでゆく。
どれほど歩いただろうか、きっとそう時間は経っていない違いない。短くて数十秒、長くても数分かそこらだ。
しかし、私にはそれが何十分にも感じた。
私の胸中に渦巻く不安と恐れがそう感じさせた。
強制的に〘人魔合一〙の術を執行され、そればかりか異形の定着に失敗してここへ担ぎ込まれたルゥが、まさかそれ以上の理不尽な目に遭っているだなんて、とてもではないが信じたくない。
けれども、ここへ来て月を蝕むものに対する扱いの一端を垣間見、僅かに不安の芽が顔を出し始めていた。
もしかしたら。あるいは。本当に。
そんなネガティブな想像ばかりが次々と湧き出てくる。
「ここだ」
ワキールが、他と同じく何も書かれていない扉の前で止まった。焦れる私はワキールを押し退け、勢い良くその扉のノブを引っ掴む。
(そんな筈はない――!)
不安の一切合切を振り払うべく、私はその扉を力一杯に押し開く。
鍵は、開いていた。
「あ――」
果たして、その声はどこから漏れたものだったか、そんなことはもうどうでもいい。
いの一番に、カルバが部屋の中央へと躍り出た。
「――姐さん、何をやっているんだ!?」
「カルバ!? ……と、あぁ、やはりそうか。合っていたじゃないのさ。私の見込みは!」
ナタリーさんは、カルバの後ろに居る私とワキールの姿を見て、全ての経緯を察したようだった。血まみれの鋸を、ルゥを拘束している台の隣に置き、同じく血まみれの手で杖を取る。
「リン! この薄汚い裏切り者め! やはり獣と通じていやがったな、魔女の恥晒し!」
「――姐さん、今そんなことはどうだっていいよ! 何をやっているんだと聞いているッ!」
「どうもこうもない……不憫じゃあないか!」
油断なく私とワキールを睨み付けながらも、ナタリーさんはカルバを諭すように言葉を紡ぐ。
私たちの間にカルバが真っ先に割り入ったおかげで、彼女の存在が緩衝地帯として機能していた。でなければ、既に切った張ったの戦闘に突入していたことだろう。
私とワキールが動かないので、ナタリーさんはまずカルバの方をどうにかすることにしたらしい。
「こんな姿にされちまったルゥが、この国でどう生きる!? 国教会の教えに背き、『唯一神』の寵愛を受けることもない!」
「意味がわからない! それが……どう今の状況と繋がるっていうんだ! その、鋸は……ッ!」
「せめて、見た目だけでも整えてやろうというアタシの親心が分からないか!」
「まさか、異形の部位を……ッ!」
そんなことは見れば分かるだろうに、と私の冷えた心は言う。
魔法使い用の拘束具――魔力を吸い上げ空気中に発散する仕組みのマジックアイテム――を嵌められ、周りには血みどろの大工道具、その上、あの意識があるのかないのか、もっと言えば生きているのか死んでいるのかも曖昧なルゥの表情。
(……ルゥ)
先程の哀れな冤罪者と同様、ナタリーさんはルゥの異形の部位を切除していたのだ。
「だが、切り取っても切り取ってもキリがないんだ……幾らでも無限に生えてきやがる! 薄気味悪いったらありゃしない!」
ナタリーさんは、地面に転がる蠍のような背甲を蹴り飛ばした。
要するに、ナタリーさんは己の潔癖な信仰心と、それが穢されてしまった現実との板挟みによって、このようなトチ狂った凶行に走ってしまったのだろう。
予兆はあった。しかし、私はそれを見逃した。
きっとそれは、単に情報の濁流に呑まれて忘却の彼方に追いやられた訳ではなく、私の精神の脆さが招いた過ちなのだろう。見たくないものを無意識的に視界から外してしまったがために、見逃してしまったのだ。
「リン、この狂人を止めるぞ!」
「カルバァァァ! この不信心者があああああ――!」
カルバとナタリーさんの双方共に杖を構えて魔法を構築するが、一日の長とも言うべきか、やはりナタリーさんの方が早かった。
「ぐっ――」
土手っ腹に【風弾】をブチ当てられ、木の葉のように吹き飛ばされるカルバ。風穴を開けられてはいないので、流石に非殺傷設定で放つ正気は残っているらしい。
「ワキール」
「はいはい」
私は無造作に前へ踏み出した。
「驕るなよ、リン! 閉所だからと言って見習い風情に遅れは取ら――!」
「もう取ってますよ」
信仰で曇った彼女の眼に、月を蝕むものであるワキールは真っ当な戦力として映っていない。その時点で、勝負は決まったようなものだった。
魔法が放たれる――牽制のような【風弾】。
だが、それは狙いを外す。
壁から伸びる子供の腕が、横合いからナタリーさんの腕を引っ張ったからだ。杖先が逸れ、壁の方にナタリーさんの眼が奪われた隙に私は一息で距離を詰めた。
「ッ――こなくそがあああァァァ!」
彼女は慌てて私に視線を戻すが、出来たのはそれまでだ。
(魔力が乱れ――指向性を帯びる)
これは技の起こり。魔法を構築する際、必然的に起こる前兆。
つまり、私に取っては絶好機だ。
私は、ナタリーさんの体内を巡る魔力の流れに沿うように魔力刃をあてがい、優しく撫でるように刃を這わせた
すると、ストン――と、ナタリーさんの身体が音もなく崩れ落ちてゆく。
斬った。
私は、気を失った彼女が頭を打たぬよう、途中で服を掴んで一度速度を殺してから地面に降ろした。
「スゥー……ハァー……」
何度も、何度も深呼吸をする。
「リン」
大丈夫だ、私は落ち着いている。心配するように蠢くマネの触手を軽く撫で付け、私はくるりと踵を返した。
「待った。何処へ行く?」
すれ違うワキールが私へ呼び止める。だが、私はそのまま彼の隣を通り抜けた。
「――約束は守るわ」
私が間違っていた。彼ら国教会の倫理を、ナタリーさんの信仰心を、何もかもを見誤っていた。しかし、それらは何も秘匿されていた訳じゃない。私がそうであって欲しくないという願望に縋り、眼を逸らしていただけ。
「救済のため、この収容所施設を制圧する。アンタは、ここでカルバの介抱をしていなさい」
「い、いや、その必要はないよぉ。後は警備システムを止めさえすれば『寄合』の襲撃部隊が来る手筈になっているから――」
「必要ないわ。図面も覚えてるし、警備シフトも大方把握した」
私が、さっきの『処遇部事務室』からちょろまかしていた資料をワキールに投げ渡すと、彼は「いつの間に……」と呟いた。
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