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第一部 女武人、翠令の宮仕え
翠令、酒を酌み交わす(一)
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白狼は手を止めてますます真剣な顔をする。
「『恩』は返すものだ。いつか返せるし、返さなくてはならない。いつか返すんだから、『恩』を遣り取りする相手とは対等だ」
「うん……」
確かに受けた恩は返すべきだ。それを返すのなら、確かに相手と対等と言えるだろう。
白狼は杯の酒をそのままに続ける。
「だが、『恩』と違って、『情け』というのは目上の立場から目下の者へ一方的に施すものだ。だから、『情け』を掛けてやったと思う連中は偉そうにするし、『情け』を受けたと思った側は卑屈になってしまう。な? 『恩』と『情け』ってのは全然別物だろう?」
「……まあ、そうかもな……」
一般的な意味はともかく、少なくとも白狼にとってはそうなのだろう。
「だからだ。佳卓《かたく》と他の奴は違う」
翠令は軽く天を仰ぐ。白狼は本人の言うとおり、あまり物事を口で説明するのが上手くない。
「ええと……白狼……。もう少しそこを詳しく説明してくれ」
「えっとだな……。だから……。俺に『情け』をかけてやったと思っている連中は、自分が目上で俺を目下だと思っているから、俺が彼らに遜《へりくだ》らないことを許せない。だが、佳卓は違う。俺に遜れなんて一度も言ったことがない」
「……」
「佳卓は俺に『情け』をかけてやったなんて思っていないだろう。俺は佳卓のしてくれたことを『恩』に着ているが、いつか必ず返すつもりだ。だから、俺とあいつは対等で、俺はあいつに遜るつもりはない」
「でも……」
相手は近衛大将を拝命している人物であり、しかも左大臣家の子息だ。礼節の上ではせめて敬語くらいは使うべきだろう。
「でも? 何だ?」
「いや……」
けれども翠令もこれ以上、白狼に佳卓様に遜れと主張する気が起きない。白狼は、佳卓の身分にひれ伏す多くの人々よりも、真の意味で佳卓に敬意を払っていると感じられもするからだ。
白狼はどことなく誇らしげに続ける。
「俺は誰にも遜らならい。情けを掛けてやったとふんぞり返っている奴らに対して卑屈になる気はない。それはあいつらが勝手にしていることだ。また、恩ある相手ならなおさら遜らない。遜るということは恩を返して対等になるということを諦めてしまうということだからな」
「……そうか……」
翠令はもう一度頷いた。
「そうか……」
受けた恩は必ず返す。そう決意しているから白狼は人に遜らない。傲然とした態度こそが報恩である──些か奇妙ではあるが、それなりに筋の通った論理ではあるのかもしれなかった。
翠令が納得したと見て満足したのか、白狼はまた杯を持つ手を動かす。
「さて、佳卓の恩をどうやって返そうか。俺の手下全員の人生を引き受けてくれたからな。かなりの借りだ」
「……」
「何だ?」
「いや、佳卓様の恩は、自分が賊として処罰されないことではないのかと思って」
「そんなことは小さいことだ。手下のことについては俺も頭を悩ませていたから、佳卓のおかげで正直助かった」
「白狼は手下思いなんだな」
「手下思いというより……」
白狼は首を傾げた。
「俺は娼婦の子で、望まれて生まれたわけじゃない。俺を生んだ女はいたが、さっさと俺を捨てた。俺を育ててくれたのは、俺を哀れんでくれた他の娼婦達を始めとする妓楼街の人々だ。これが、俺が生まれて最初に他人から受けた恩だ。もし、俺が哀れまれて終わってしまうと只の恩知らずになる。だから俺は妓楼街に生きる者達を食わせてやった。それだけだ」
何も気負う風のない口ぶりは、本当に単純にそう思っているだけのようだった。
「だがなあ……」
ここで白狼が酒を口にして、遠くを見つめた。
「盗賊稼業にも限界がある。朝廷の武人どもが腰抜けぞろいの間は良かった。だが、佳卓ほどの将に本格的に討伐に乗り出されるとな……」
「そうだな」
「あいつは前々から朝廷に恭順すれば、手下に仕事を斡旋すると伝えて寄越してはいた。ただ、貴族なんてものは気まぐれだからな。いくら約束されても信用できないと思っていた」
「だが、実際に佳卓様は全員分の仕事を整えた」
そこだ、と白狼は大きく笑う。
「俺を捕らえた時点で佳卓は手柄を立てたわけだから、別に俺の手下のことは放っておいてもよかったんだ。だが、あいつは俺との約束を守った。大した奴だ」
「うん」と同意しようとした翠令の耳に、カッカッカッと規則正しい沓《くつ》音が聞こえてくる。
近衛府を出入りする者達の足音や武具の音などなら、先ほどから雑然と聞こえてはいた。けれどもこの沓音は明らかにまっすぐこちらに近づいて来る。
誰だろう? と思う間もなく、その音は部屋の前で止まった。そして、その沓の持ち主はコンコンと扉を叩く。
白狼が椅子に座ったまま怒鳴った。
「何だ?」
扉がすっと開く。
「佳卓様……」
「『恩』は返すものだ。いつか返せるし、返さなくてはならない。いつか返すんだから、『恩』を遣り取りする相手とは対等だ」
「うん……」
確かに受けた恩は返すべきだ。それを返すのなら、確かに相手と対等と言えるだろう。
白狼は杯の酒をそのままに続ける。
「だが、『恩』と違って、『情け』というのは目上の立場から目下の者へ一方的に施すものだ。だから、『情け』を掛けてやったと思う連中は偉そうにするし、『情け』を受けたと思った側は卑屈になってしまう。な? 『恩』と『情け』ってのは全然別物だろう?」
「……まあ、そうかもな……」
一般的な意味はともかく、少なくとも白狼にとってはそうなのだろう。
「だからだ。佳卓《かたく》と他の奴は違う」
翠令は軽く天を仰ぐ。白狼は本人の言うとおり、あまり物事を口で説明するのが上手くない。
「ええと……白狼……。もう少しそこを詳しく説明してくれ」
「えっとだな……。だから……。俺に『情け』をかけてやったと思っている連中は、自分が目上で俺を目下だと思っているから、俺が彼らに遜《へりくだ》らないことを許せない。だが、佳卓は違う。俺に遜れなんて一度も言ったことがない」
「……」
「佳卓は俺に『情け』をかけてやったなんて思っていないだろう。俺は佳卓のしてくれたことを『恩』に着ているが、いつか必ず返すつもりだ。だから、俺とあいつは対等で、俺はあいつに遜るつもりはない」
「でも……」
相手は近衛大将を拝命している人物であり、しかも左大臣家の子息だ。礼節の上ではせめて敬語くらいは使うべきだろう。
「でも? 何だ?」
「いや……」
けれども翠令もこれ以上、白狼に佳卓様に遜れと主張する気が起きない。白狼は、佳卓の身分にひれ伏す多くの人々よりも、真の意味で佳卓に敬意を払っていると感じられもするからだ。
白狼はどことなく誇らしげに続ける。
「俺は誰にも遜らならい。情けを掛けてやったとふんぞり返っている奴らに対して卑屈になる気はない。それはあいつらが勝手にしていることだ。また、恩ある相手ならなおさら遜らない。遜るということは恩を返して対等になるということを諦めてしまうということだからな」
「……そうか……」
翠令はもう一度頷いた。
「そうか……」
受けた恩は必ず返す。そう決意しているから白狼は人に遜らない。傲然とした態度こそが報恩である──些か奇妙ではあるが、それなりに筋の通った論理ではあるのかもしれなかった。
翠令が納得したと見て満足したのか、白狼はまた杯を持つ手を動かす。
「さて、佳卓の恩をどうやって返そうか。俺の手下全員の人生を引き受けてくれたからな。かなりの借りだ」
「……」
「何だ?」
「いや、佳卓様の恩は、自分が賊として処罰されないことではないのかと思って」
「そんなことは小さいことだ。手下のことについては俺も頭を悩ませていたから、佳卓のおかげで正直助かった」
「白狼は手下思いなんだな」
「手下思いというより……」
白狼は首を傾げた。
「俺は娼婦の子で、望まれて生まれたわけじゃない。俺を生んだ女はいたが、さっさと俺を捨てた。俺を育ててくれたのは、俺を哀れんでくれた他の娼婦達を始めとする妓楼街の人々だ。これが、俺が生まれて最初に他人から受けた恩だ。もし、俺が哀れまれて終わってしまうと只の恩知らずになる。だから俺は妓楼街に生きる者達を食わせてやった。それだけだ」
何も気負う風のない口ぶりは、本当に単純にそう思っているだけのようだった。
「だがなあ……」
ここで白狼が酒を口にして、遠くを見つめた。
「盗賊稼業にも限界がある。朝廷の武人どもが腰抜けぞろいの間は良かった。だが、佳卓ほどの将に本格的に討伐に乗り出されるとな……」
「そうだな」
「あいつは前々から朝廷に恭順すれば、手下に仕事を斡旋すると伝えて寄越してはいた。ただ、貴族なんてものは気まぐれだからな。いくら約束されても信用できないと思っていた」
「だが、実際に佳卓様は全員分の仕事を整えた」
そこだ、と白狼は大きく笑う。
「俺を捕らえた時点で佳卓は手柄を立てたわけだから、別に俺の手下のことは放っておいてもよかったんだ。だが、あいつは俺との約束を守った。大した奴だ」
「うん」と同意しようとした翠令の耳に、カッカッカッと規則正しい沓《くつ》音が聞こえてくる。
近衛府を出入りする者達の足音や武具の音などなら、先ほどから雑然と聞こえてはいた。けれどもこの沓音は明らかにまっすぐこちらに近づいて来る。
誰だろう? と思う間もなく、その音は部屋の前で止まった。そして、その沓の持ち主はコンコンと扉を叩く。
白狼が椅子に座ったまま怒鳴った。
「何だ?」
扉がすっと開く。
「佳卓様……」
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