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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、甘えられる(二)

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 佳卓も何も言わずに俯くと、自分の膝を押し下げるように腕を使って立ち上がった。

 翠令は馬があまり得意ではないが、早く駆けさせるのでなければ自分の馬に姫宮をお乗せすることができた。姫宮は翠令の胸に顔を埋め、その両腕を彼女の背中に回してぎゅっとしがみついていらっしゃる。

 佳卓は一度だけ自分の馬を翠令の馬に寄せ、無言で姫宮のご様子を確認すると、後は翠令の馬の後ろに自分の馬をつけさせた。

 陽明門では佳卓が先回りして馬を降り、翠令から姫宮を抱き取った。翠令は自分も馬を降りると、姫宮を再度受け取り、そのまま内裏へ向かう。そしてもう佳卓はついてこなかった。
 賀茂社からの帰途、三人は誰も口を利いていない。

 昭陽舎に着くと、何も知らない梨の典侍が明るい声で出迎えてくれた。

「まあまあ、無事のお帰りよろしゅうございました」

 そして翠令に抱きかかえられた姫宮を覗き込むようにして尋ね申し上げる。

「宮様、お疲れになられましたか? 翠令殿に抱っこをせがまれるほど?」

「……うん」

 典侍は微笑む。

「お外を楽しんこられたようで、ほんによろしゅうございました」

 典侍は、姫宮の「外出したい」という願いが叶ったことを単純に喜んでいる。姫宮は少し心苦し気な顔をされたが、にっこりと笑顔を作られた。

「うん。同じ年くらいの子とも会えたわ。楽しかった。あのね……お外で楽しかったから錦濤に居た頃を思いだしちゃった。今夜は翠令と一緒に寝ていい?」

「あらあら、まあまあ」

 典侍は十歳の姫宮が子ども返りなさっているのを、ただただ愛らしいと感じているようだ。

「では、夕餉を支度いたしましょう。お休みの際には翠令殿も御帳台に入られて……」

「あ、ご飯はいいわ。お腹が空いていないの。それより早く眠りたくて……」

「まあ、もうへとへとでいらっしゃる……。では、今すぐお休みなさいまし。今日の楽しい話は明日にでもお聞かせくださいますよう」

「ええ……」

 御帳台で寝具の中にお入りになった姫宮は、枕元に座る翠令にふっくらとした手を伸ばしておいでになった。その掌を翠令も両手で握る。姫宮が仰せになった。

「翠令……。佳卓を怒らないであげてね」

「私が近衛大将を、でございますか? そんなこと……」

 姫宮は少しだけ相好を崩された。

「山崎津では佳卓を刀で脅してたじゃない。私のためなら近衛大将を諫めるんだって言って」

 ああ、と翠令も思い出して苦笑した。

「今日の私が佳卓の話にびっくりしたのは確かよ……。帝をはじめとする朝廷は人を殺してしまう命令も出す立場なんだって分かって怖くなっちゃった。それに、竹の宮の姫君がおいたわしくて悲しい気持ちになったし、この世にはどんな不幸が襲い掛かってくるか分からないってとても不安。でも、佳卓の言うとおり、知らずに生きていくことはできないわ」

「……」

 翠令は姫宮の御手を握る手に力を込めた。そうなのだ。人の世の現実であり、いつかは直面しなくてはならない。

 ただ、翠令にとってさえ今日の佳卓の言は聞いていて負担であった。御年十の女の子どもには……。

「あのね、翠令」

 姫宮はしっかりしたお顔をなさっていた。

「私はね、恐ろしい話をする大人よりも、子どもには何も分からないだろうって考える大人の方が嫌いよ。佳卓は私が大人になれることを信じてくれたのよね。うん、そんな佳卓に応えてあげなくちゃね」

 今日は佳卓がいたからお外を見られたのよね、と姫宮はお続けになる。

「私の周囲って大人ばかりじゃない? 東宮になるからには民を思いやらなきゃって分かったつもりでも今までピンと来なかったの。だって私が知ってる民の方がしっかりした大人なんだもの。だけど、今日、同じくらいの子どもと会って分かった気がする」

「……」

「誰もが生まれた時からしっかりした大人じゃないもの。今の私のようにまだ子どもの民もいっぱいいて、私と一緒に大人になるのね。そういう今の子どもたちのために、私は将来ちゃんとした帝にならなきゃいけないわね」

 そうか、と翠令は思う。確かに姫宮は大人に囲まれてお育ちだった。市井の、同世代の子どもたちをご存知でなかったのだ。

「今の帝もお身体が弱くていらっしゃるのにとても頑張っていらっしゃる。私も出来るだけお手伝いして、そして帝が安心して御位を引き継がせることができるような、そんな立派な東宮になりたいわ」

「姫宮……」

 確かに姫宮の双肩に、今の同世代かそれより幼い子どもたちの未来がかかっている。それが東宮になるということだ。つい先日まで錦濤でハクと戯れて過ごしていた少女には重い責務だと思うが、姫宮はしなやかに受け入れていらっしゃるようだった。

「私だけが独りで政を行う訳じゃないし。先帝はとても悪い帝だったけど、だから、その後を良くしようって皆が頑張っているのよね」

「さようですとも」

「正智は東国で安寧と豊かさを実現しようとするし、円偉は京の都で理想の政治を考えてる。佳卓は、京では白狼のような盗賊を味方につけて治安を守るし、東国では朝廷の代表として正智と一緒に頑張っているし……」

「ええ、姫宮には優れた臣下がいっぱいおりますとも」

「うん、私も彼らに応えていかなければならないわね」

 そう意気込まれる姫宮の瞳には力強くも明るい光が宿っている。

 翠令は安堵とともに一抹の寂しさも覚えた。姫宮は大人におなりになる。頼もしくもあり、そしてあまり急がないで欲しいとも願う気持ちもある。

 姫宮は、翠令の複雑な表情をどう受け取られたのか、にこりと微笑んで軽快な声色でおっしゃった。

「それにしても、円偉に好きな女君がいたなんてね!」

 姫宮が楽しそうにおっしゃるので翠令の顔も自然とほころぶ。

「本当に。堅苦しく真面目なばかりの御仁かと思っておりましたら、意外な面もおありのようですね」

「ふふ、円偉にも若い頃があったのねえ。そうよねえ、そして初めて本を読んだ子供時代もあったはずなのよね……それは私くらいの年だったかもしれない。私も今からいっぱいご本を読めばいろんなことが分かるようになるかもね」

「さようでございますとも。姫宮にはお時間がたっぷりございます。焦らず一歩一歩大人におなり遊ばしませ」

「そうね……。そして、今の帝や私が御所にいて世の中が平和なら、竹の宮の姫君もごゆっくり静かにお過ごしになれるわね……」

 そうだ。姫君は今日、初めてご自分に叔母上がいらっしゃることをお知りになったのだ。

「お元気になっていただきたいわ。私のたった一人の叔母上様ですもの」

 姫宮はふと天井を見上げられた。

「叔母上様とお話したい……。お父様の妹姫で、お父様の子どもの頃もよくご存知よね。お会いしたいわ。いつかお元気になられるといいのだけれど……」

「ええ、まことに……。時間が傷を癒すのを待つよりないでしょうけれども……。姫宮がしっかり御所を守り、このまま静かにお暮しさせてさしあげれば、少しずつでもご快復なさるのではないかと思います」

「うん。早くそうなるといいわね……」

 そうだ! と姫宮が高いお声を出し、敷物の中でくるりと身を捩って翠令に顔をお向けになる。

「お元気になられたら、市に遊びにお出かけなさるといいわ! お菓子を買って馬に乗って……とーっても楽しいことをなさるといいと思うの!」

 深窓の姫君がそのようなことを楽しみにするとは思えないが、姫宮は今自分が体験して楽しかった出来事を例に挙げていらっしゃるのだろう。

「今日は楽しゅうございましたか?」

「ええ、ちょっとべそをかいちゃったけど、楽しいこともいっぱいだったし、勉強にもなった。……だからね」

 姫宮はもう一度繰り返された。

「佳卓を怒っちゃ駄目よ、翠令」

「わかりました。重々承りましたとも、姫宮」

 お喋りを終えて満足なさった姫宮はそのままうとうととなさる。翠令は自分の手の中にある、姫宮の拳をとん、とんと柔らかく叩いて眠りを促した。

 姫宮はそうっと瞼をあげられた。

「ありがとう……。翠令が一緒だと安心。叔母上様のように怖い思いをしなくて済んだのも、翠令が守刀としてついてくれていたからだわ。ありがとう。それに怖い時は翠令が慰めてくれて本当に心強い。だから……私が大人になるまでずっとそばにいてね……」

「もちろんでございますとも」

 翠令はそっと姫宮のふっくらとした手を握って差し上げた。

 姫宮がお休みになった後も、翠令はその寝顔を拝見する。置かれた火皿の上、油の先に浸した灯心の先で小さく温かい火影が揺らめき、静かで穏やかな雰囲気が御帳台に満ちていた。

 翠令は姫宮の「ずっとそばにいて欲しい」というお言葉を嬉しく思う。三歳で初めてお会いした時から、その手を引いて歩んできた。ぱたぱたと駆け寄ってきて、両腕で翠令に抱き付き、「翠令大好き」と何度そう口にして下さっただろう。

 ──されど、それは大人になるまでだ。

 政をどう執り行うのかなどという高度な問題はいずれ、ただの女武人に過ぎない翠令の手に余るようになる。
 姫宮が今日のように翠令に甘えてこられ、翠令がそれに応えて差し上げる年月ももうすぐ終わってしまうのだ。そして、その先は……。

 ──姫宮が大人になられたら、円偉様や佳卓様といった才人とお過ごしになる……

「あ!」と思わず翠令は声を上げる。

 ──しまった!

 佳卓の名前が脳裏に浮かんで、翠令は自分の失態に気がついた。

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