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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、佳卓を気遣う(二)

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「佳卓様からお話を聞かれたのが今で良かったのではないかと思います」

「ほう?」

「今はまだ姫宮は御年十歳。怖い時や不安な時には躊躇いなく私に抱き付くほどに幼くていらっしゃる。しかし、これが一年後、二年後となると事情は異なって参ります。もうそんな子供じみたことはなさらなくなる。かといってまだ大人になるには間があるご年齢……。そのような年頃は周囲にとってもご自身にとっても難しい年齢です。そのような年頃に差し掛かる前で良かったのではないかと思います」

「つまり、時機が今でよかったと」

「ええ。それに……お話し申し上げるのが私でなく佳卓様で良かったと思います。もし、私が姫宮の恐怖や不安を煽ることを口にしてしまえば、今度は姫宮が逃げ込む相手がいなくなる……」

「なるほど」

「重い内容でもありましたが、東宮となられるからにはいつかは知らねばならないことではありました。今、佳卓様の口からお聞かせいただいたこと、これで良かったと思います」

 佳卓は凭れていた壁からしなやかに身を起こした。

「そう言ってもらえてよかった。今回は翠令に怒られなくて済んだようだね。また刀を突きつけられるのかとびくびくしていたんだよ」

 翠令は笑んで答えた。

「姫宮から『佳卓を怒らないであげてね』とのお達しがございました」

 佳卓もいつもの軽い口ぶりで返す。

「そうか。姫宮のご厚情に感謝だね」

 彼は陽明門に向かいながら言い置いた。

「姫宮も今夜はよくお休みになれるだろう。翠令も疲れただろうからゆっくりお休み」

 その彼の姿に、翠令が何気なく声を掛ける。

「佳卓様も――。どうぞ安心して今夜はお休みなさいまし」

 これまで姫宮を思い描いていたため、その口調は子どもに向けるような柔らかさを含んでいたかもしれない。

 翠令の言葉に佳卓はぴたりと動きを止めた。

「……」

 そしてゆっくりと体ごと翠令に振り返る。ただ新月の闇夜の中では暗すぎて佳卓の表情が分からない。

 彼は翠令を見つめている。そう感じる。その視線には重さがあった。そして、これまで気にしていなかった静寂が急に濃密さを増したように思われた。

 何かを言わなければと……翠令がそう感じて唇を動かしかけた時、佳卓が口にした。

「誰かにそんな風に気遣われるのは、私が童子の頃以来かな」

 佳卓の声は男性にしてはやや高い方に入るが、そこに何か感慨めいた複雑な響きが含まれている。

「……」

「責任ある近衛大将という立場では、他人にそう言うことはあっても、自分が人からそう言われることもなくなるからね。翠令ほど強くて優しい女君が側にいて私は果報者だ」

 佳卓はそう言うとゆっくり砂利を踏んで陽明門に向かって歩き出した。数歩進んで立ち止まる。そして、片脚を翠令に向け半身を返した。

「この近衛大将に刀を向けて諫めることも辞さない、そんな勇ましい女武人の言だ。その言葉を抱きしめて今夜はぐっすり眠ることにするよ」

「……」

 再び彼は前に向かってゆっくりと歩いて行った。

 その夜、翠令は上手く眠れなかった。
 夢を見たからだった。
 その夜の夢は幻のようで、しかし、その幻は現実以上に生々しかった。

 梔子色の狩衣の美しい若者が馬を駆る。的と的の間を騎乗して駆け抜ける間に、無駄のない流れるような動作で弓を構える。

 現実に目にしたのはあっという間だったし、乗り手の佳卓の顔など分からなかった。それなのに、夢の中ではつぶさに見て取ることが出来る。

 鬼火のような恐ろしさはなく、どこか透明感のある空気を纏った端正な顔立ちに涼しい目許、ほどよく引き締まった表情で彼は的を見据える。男にしては細く長く節高の指を弦に絡め、額に幾筋か零れた髪が何かを誘うように宙をそよぐ。

 馬が駆け抜け、彼が袖を翻して視野から消えると、かーんと澄んだ音が森の中に響く。白木の的が砕かれ、緑の木立の中で木屑がゆっくりと中空を舞う。

 馬場を駆け抜けた彼は馬を返して翠令にゆっくり近づいてくる。鬼神のような人を竦ませる圧もなく、そしていつもの皮肉気な様子でもない。真面目で少し柔らかい表情だ。

 新月の暗闇の中で、翠令の気遣いを童子の頃以来だと穏やかに喜んでいた彼の顔は、きっとこのようなものだったのだろうと夢の中の翠令は思う。

 そして――。

「……!」

 突然はっと目が覚めた。その直前、夢の終わりに何か鮮烈に感じたものがあったはずだが、醒めてしまうともう思い出せない。それを惜しむ気持ちが胸を焼く。

 翠令は身を起こして額に手をやった。昨日の騎射はあまりにも美しかった。こうして夢に見るほどに、そして夢で見ただけでこうも鼓動が早くなるほどに――。
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