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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、弓を習う(二)

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 実際佳卓は優れた指導者だった。
 翠令からちょっと離れた場所で腕を組んで立ち、指一本触れることなく、言葉だけで翠令の身体の動きを整えていく。

「矢の番え方はそれでいい。背筋を伸ばし、大木を抱え込むように腕を曲げて弓矢を持つ。一度、額の少し上の高さにまで両の拳を上げて……。顎は引く。胸を張って……弦を引く右と弓を握る左は均等に引き分けろ。弦を引くときは手首ではなく、肘を使うように。さあ、上下左右に力が十分伸び合ったら気合いに合わせて射てみよう」

 翠令の手から弦が放たれ、美しい細工が施された弓から矢が飛んでいく。しかし的まで届かない。

「もう少し強く引かなくては。矢を持つ右の拳を、手のひら一枚分ほどさらに後ろに」

「はい」

 今度は矢の距離が出た。やったと翠令は思ったが、佳卓は「ふむ……」と顎に手を当てる。

「翠令はまだ腕の筋肉がついていないから、腕の重みで弦を引こうとする。すると肘が下がりすぎて、翠令の場合は矢の先が空に向いてしまう。距離は出るが、どこに当たるか制御できない」

「はい……」

 問題は肘の角度だ。次は肘を上げてみるが、過ぎたようで今度は矢が下を向き、的に届かず地面を擦りながら落ちる。それでは……と肘を下げると今度は佳卓が首を振る。

 これを繰り返しているうち、翠令にも焦りが生まれて来た。
 浅緋《あさあけ》色だった西の空の赤みが深くなり、そして東の空の青も濃くなっていく。今に紺から群青、そして黒へ。そうして星も浮かぶだろう。時間ばかりが経っていく。

 佳卓が真面目な顔つきで、組んでいた腕をほどいた。

「人差し指一本だけ、触れても構わないか?」


「はい……」

 佳卓は人差し指の先で翠令の肘を軽く持ち上げた。そして肩からごくわずかに低いくらいの位置でそっと止めると、指先でとんとんと叩いた。

「ここだ。この位置を保つんだ。分かるかい? 」

 翠令はぎゅっと目を瞑って自分の身体の形を覚え込んだ。

「では、私は指を放すよ。肘は動かさず、その位置を保って……うん、それでいい。その構えで射てごらん」

 次の矢はまっすぐ飛んだ。自分で射ていても「ああ、これが正しい飛び方だ」と納得いく思いがある。ただ、距離は十分でもだいぶ右に逸れたのが悔しい。

「今は的に当たるかどうかよりも、正しい構えであるかどうかに集中してくれ。左右に逸れるのは、右手で矢を放した瞬間に弓を持つ左手を素早く返せば解決するから」

 翠令は自分に呟く。肘は上げ過ぎず下げ過ぎず、先ほど佳卓が教えてくれた位置を保つ。そして、できれば矢を射る瞬間に左手を返す……。

 次の矢は的の片隅に当たった。

「お、当たった」

 佳卓は何の含みもなく嬉しそうな声を出した。

「翠令は飲み込みが早い。左手を返すことは言葉だけで理解したか。なるほどね……勘がいいんだな。これまで武芸に上達してきた過程が見えるようだよ。よし、続けてみようか」

 次の矢も、的の縁ギリギリに刺さった。ああ、そうかと翠令も要領がつかめて来た手ごたえがある。

「うん、いいね」

 翠令は五回続けて的に当てた。中心とはいかず、的のあちこちに散らばっているが、かなりの上達だと思う。

 佳卓がぱんぱんと軽い拍手を贈ってくれた。

「素晴らしい。初日でこれだけ出来るとはね。これからだって、自分でもこうすればいいというのがもう分かってるんじゃないか?」

「はい、この構えを体に染み込ませていくよう回数を重ねていけばいいのだろうと思います」

「そうだ。翠令は真面目だからきちんと鍛錬を積むだろう。弓の腕ももう心配いらないね」

 期待を込めた見通しだが、弓術について習得の目途が立ったと言えるだろう。長年、不快な記憶と共に遠ざけつつも気がかりだった懸案が一つ解決して翠令は嬉しい。
 そして、その心のままに大きな笑み佳卓に向けた。しかし、それを見た佳卓が少し驚いた顔で固まってしまう。

「何か?」

「いや、本当に嬉しそうに笑うものだと思ったのでね……」

「武芸の一つ一つが出来るようになるのは喜びです。暫く忘れておりました」

「まあ達成感というのは確かに嬉しいものだからね……」

 佳卓は翠令にそう話を合わせながら、ふと何かを思いついて表情を改めた。

「翠令はこれまで武人として楽しいことばかりではなく、辛いこともあった。一方、お仕えする錦濤の姫宮は今でこそ東宮として京に戻られたが、流罪人の子として先行きの見えないお立場だった。なぜ、翠令は姫宮を主と定め忠義を尽くすことにしたのかね?」

 翠令は、なぜ……と呟いたきり、言葉に詰まる。答えそのものを言い表す言葉は見つかりそうにない。それは、翠令にとって言葉で説明するものではない。

「……理由など考えたことがございません」

「ほう?」

「姫宮は愛らしい御子でいらっしゃる」

「……」

「とても愛らしい……だから守って差し上げなくてはと思います。その願いを踏みにじるような賊が現れれば退けたい。ただそれだけです。別に栄達など望んだことなどありません……。愛おしいと思った気持ちのままに生きて参りましたし、それで幸せでございました」

 佳卓は、降参するように軽く両手を上げた。

「分かった。愚問だった。武人を志す理由など『守ってやりたい』という気持ちだけで十分だ。愛おしいという気持ちだけでここまで強くなれたのは情の濃い翠令ならではのことだね」

 納得した様子の佳卓は辺りを見回した。

「さて。だいぶ暗くなってしまった。翠令ならこのまま練習して行けば的の中心を射抜くようになれるさ。それが出来るようになったら馬の方も教えよう。とりあえずは……そうだね、秋ごろまでに狙った的を外さないよう腕を上げておいてくれ」

「精進いたします」

 大内裏の中にポツリポツリと篝火が焚かれるようになった中、翠令は左近衛の方角に向かって帰る佳卓の背を見送った。

 本当は彼を呼び止めて一つだけ聞いてみたいことがあった。佳卓もまた「誰かを守ってやりたい」という理由で武人を続けているのだろうか。
 その相手を尋ねたらどんな言葉が返ってくるのだろう。もし、彼の口から恋人かそれに近い相手が挙げられたら、自分はきっと切なくなるのだろうと思った。
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