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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、姫宮のお口に不安を覚える(二)

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 翠令は内心で深々と息を吐いた。佳卓から竹の宮の姫君の話を聞いた際、姫宮は衝撃を受けられはしたが柔軟に受け止められた。それは未だ十歳で実感が乏しくていらっしゃったからだ。その事実の反面として、理解し切れていらっしゃらないということでもある。

 梨の典侍は顔を強張らせて黙ってしまった。翠令もどうにかしたいが言葉が出てこない。
 その場の空気を変えたのは乳母だった。

「姫宮、そろそろ読書を再開なさっては? いつまでもお喋りしていると、今日読もうとしていた頁も読めなくなってしまいますよ」

「そうね」

 姫宮は再び文机に向かい、梨の典侍は夕餉の支度のために一度御前を退出する。

 その典侍の後を翠令は追った。

「典侍殿……」

 透渡殿の途中で梨の典侍は振り向き、翠令が次の言葉を発する前に典侍の方から詫びた。

「済まぬの、翠令殿」

「は……? 何がです?」

「翠令殿の想いに水を差すようなことを申した」

 ああ、そのことか……。翠令はゆるゆると首を振った。

「もとより左大臣家の貴公子とどうにかなるとも思っておりません。佳卓様に好意は持っておりますが、それを麾下としての仕事に活かして参るだけのことです」

「……翠令殿はしっかりなさっておいでじゃ……。まだ年若いのに不憫に思う……」

「いえ、私のことはともあれ……。典侍殿の方こそ、姫宮のお言葉に傷つかれておられませんか? 愛情の有無が子の有無を分けるわけではなく、望まぬ妊娠をする御方もいらっしゃる……ただ、あのご年齢ではそのことまで思い至ることは……」

 梨の典侍は静かに微笑んだ。

「分かっており申す。御年十の御子であれば、物語などで聞かされる『男女が愛し合って子が出来ました』というご認識で当然であろう」

「少し座って話を致そうか」と梨の典侍が腰を下ろす。翠令もそれに倣って座った。

 しとしとと雨が降る。植栽の葉の厚くて固いものはただ雨粒を流すだけだが、若くて薄い葉は糸のような雨脚にも細かく身を震わせている。時おり上の葉に貯まって大きくなった水滴がポトリと落ちて、それに驚くかのように跳ねる下葉もある。

 梨の典侍が年を重ねた女性らしい落ち着いた声で切り出した。

「姫宮に怒りを向けてはおりませぬ。御年十の少女なら男女の仲に夢を見ていて当然。そして、子どもには子どもでいられる権利があろう。竹の宮の姫君はそれを暴力で奪われた。あらためてあの豺虎《けだもの》のような男に憤りを覚える。姫宮に、ではない。この典侍が憎んでいるのはあの男じゃ」

「……」

「ただ、錦濤の姫宮は他の大人の誤解を招いてしまうところがおありではないかと危なっかしくは思う……」

「私もそれを案じておりまして……。時おりお口に出すべきではない言葉が出てきてしまいますし、また雰囲気が悪くなってもご自分が納得なさるまでお引きにならない……」

 典侍も憂い顔で頷いた。

「まあ、こればかりは年齢が高くなり、分別が付くようにおなりになるのを待つよりなかろう……」

「……」

 しばらく二人は黙って、降る雨とそれぞれに受け止め方の異なる緑の葉を見つめていた。

 梨の典侍が徐《おもむろ》に口を開いた。

「佳卓殿も才知にあふれた方じゃ。子どもの頃はもっと奔放な振る舞いをされていたもの。東国の女君の件は私も初めて聞くが、そのような様々なご体験の中で色々思うことがあられたのであろう。今でも個性的ではあられるが、だいぶ大人しくなられたものじゃ。だから……姫宮もいずれそうなられよう」

 翠令は頷いた。人間は変わり、成長する生き物だ。時間が姫宮を待っていてくれればそれで済む話だろう。

「東国での出来事も佳卓様にとって大きなものなのであろうが、この朝廷での振舞いについては兄君から学ばれることが大きかったと私は思う」

「ご兄弟の仲がよろしいのだそうですね。性格がかなり違うそうですが……」

 典侍が笑いながら頷いた。

「意外であろう? 兄君は弟君に比べて何かと平凡に過ぎないと評されることが多い。そこで、非凡な弟が兄を歯牙にもかけぬのかと言えば、むしろその反対での。一方で、兄君は凡庸な者と侮られがちでも弟を妬むことなく、腐らず鷹揚に構えて受け流しておられる。あの方はあの方で大した御方じゃ」

「なるほど……」

「佳卓様ご自身が『武人の功は見えやすく文人の功は見えにくい』と言っておられた。確かに何か目に見える派手な何かを兄君がなさるわけではないが、左大臣家のご嫡男という立場は何かと難しいところもあろうに、そつなく務めていらっしゃる。地味で目立たずとも、それはそれと分からぬほど完璧にこなしていらっしゃる証」

「佳卓様はご自分と違う特性をお持ちの方を正しく尊重なさる。兄君のことを誇りにお思いでしょう」

「その兄君についてじゃが……」

 典侍はなおも佳卓の兄の話を続けようとする。翠令は内心で困惑した。己が左大臣家の子息に恋をしたところで叶うわけもなく、そして典侍はそんな翠令に同情的であるはずだ。典侍は何を意図してこの話題をしているのだろうか。

「左大臣家と右大臣家は左右に並び立ち、一歩間違えばこの両家で国を分けるほどの諍いになりかねない。特に当代は円偉様と佳卓様が双璧をなし、それぞれにそれぞれを担いで反目しあうものが集うておる……」

「ご本人同士の仲は良好でございます」

「そうじゃ。それに加えて、佳卓様の兄上が文人として円偉様と親しく交わっていらっしゃるのでの。それもこの朝廷の和に貢献していると私は思う」

「そうですね……」

「それゆえに左大臣家では右大臣家の姫君を妻とすることには慎重でおいでじゃ」

「ご結婚されれば両家の結びつきは深まるのでは?」

「人の仲というのは近すぎればそれはそれで軋轢を生むもの。右大臣家の姫君の待遇を一つ間違えれば、それは争いの火種となろう。しかも、右大臣家の姫君方はどの御方も権高なご気性と聞き及ぶ。敬して遠ざけるのが賢明であられよう」

「それもそうですね……」

「兄君が子のない北の方をお一人の妻となさるのは、兄君のご性格と夫婦仲もおありじゃが、かように政治の絡む事情があってのこと」

「はい」

「となると、このまま御子に恵まれず、佳卓様に左大臣の家督が巡って来る可能性も高くなる……」

「……」

 典侍は真摯な顔で翠令を見つめた。

「翠令殿、佳卓殿が翠令殿の好意に応えられなくとも、それは翠令殿に魅力がないなどということでは決してございませぬぞ」

 話はそこに着地するのか。翠令は笑って見せた。

「私は錦濤の商家の娘にすぎません。それが後宮を取り仕切る典侍殿に我が娘のようにご心配頂くとは。皇女にでもなったかのような栄誉でございます」

 実際そうだった。梨の典侍は単に位が高いだけではなく、思慮深く、その一方で過去の過ちから己を変えることを厭わない誠実さを備えた立派な女性だ。名実ともに仕事に生きてきた最高女官にここまで気に掛けていただいていることは名誉なこと。先のない恋の、その寂しさの全てを埋め合わせるものではないにせよ、耐え忍ぶ心の支えになることだと翠令は思うのだった。
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