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第13話 かわいそうな田村さん
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クリスマスイブ。
終業が近づいた頃、社員同士でも自然とこの話題になった。
「一ノ瀬君はデートなんだってね」と新入りの俺に真っ先に声がかかる。その傍にいた子持ちの係長が「いいねえ、若い人は。僕は今晩サンタクロース役だよ」と嘆いた。「ちょっと前まで僕も身軽にデートできたんだけどねえ」と続けた係長に、女性社員が「奥様とデートすればいいじゃないですか」と返すが、「小さい子どもがいるとそうもいかない」のだそうだ。
俺は「お子さん、明日の朝にプレゼントを見つけたら喜んでくれますよ」と言ってみた。係長の表情は、俺の予想をはるかに上回って大きく崩れた。
「ああ、我が子の笑顔は最高だ!」
とろけそうな笑みだった。
いつか俺も結婚して父親になって、係長みたいになるんだろうかと俺は想像してみる。社会人になったんだから、次の大きなライフイベントは結婚ということになるんだろうな。
電車の隣のつり革にぶら下がっていた若い女性が俺をちらりと見た。俺は自分で気づかぬうちに大きなため息をついていたらしい。
結婚がどうこう以上に、田村さんに告白をしないと。さて、今日の夕食で俺は首尾よく交際を申し込めるのだろうか。あの、誘われただけであんな哀し気な顔をする田村さんに……。
田村さんとの待ち合わせに向かう前に、一度ターミナル駅そばのカフェに顔を出した。向こうの仕事が終わるまで、1時間近く時間が余るからだ。
そのカフェには、会社の同期のうち、今夜予定のない人間が集まってそこから飲みに繰り出すらしい。名付けて「シングルベル」会だそうだ。
カフェの入り口で同期と一緒になった。
「あれ? 一ノ瀬君? 今日は俺たちの会に来ないんじゃなかったっけ?」
「うん、まあ、時間調整で」
中には、千石さんの姿があった。
「あ、一ノ瀬君。今日誰かとデートなんだって?」
俺と仲良くなりかけたことは全く気に留めていない。まあなあ……。久しぶりに会うが相変わらず美人で、これだけ綺麗なら男をとっかえひっかえなのは頷ける。
「今日は彼氏は?」
秋から付き合っている男性がいたはずだ。
「別れちゃった」とけろりと笑っているのは、自分ならすぐ相手が見つかると思っているからだろう。次は彼女が俺に聞いてくる。
「一ノ瀬君、彼女出来たの?」
「まだ彼女じゃないけど。今日は田村さんに会うんだ」
「ええーっ!」
千石さんは身を仰け反らせた。彼女は友人の田村さんから何も聞かされていないらしい。だから驚いているのだろうと俺は思った。
「由美ちゃんと付き合おうと思ってるわけ?」
「うん、まあ……」
千石さんは口の端を歪め、俺から視線を外して何かを考えていた。
「そうかあ……。かわいそうな由美ちゃんに彼氏かあ……。そうだよね、考えてみれば、結婚なんて二十代の後半から考えればいいんだから、それまでに一人くらいは由美ちゃんにも彼氏ができてもいいのかも。一ノ瀬君は男性だから結婚は女性よりもっと先だしね」
「あ……の……?」
田村さんがかわいそう? 男性の初婚年齢が女性より遅いというのは社会的な事実だが、それが何か?
「もう由美ちゃんから前もって聞いているよね? 彼女、男性から好意を寄せられたら、早いうちにに自分の事情をきちんと伝えるもん」
だから何を?
「由美ちゃん、病気で子宮を摘出したから子どもが産めないって」
「……」
俺はどう反応していいのか分からない。千石さんの赤く塗られた唇がパクパクと動くのを、ただ奇妙な物を見るかのような気持ちで呆然と見ていることしかできない。
「子どもを望む男性と結婚できないって分かっているから、男の人には付き合う前にちゃんと説明するって言ってたものね」
「かわいそうなのよ~」と言葉の意味とは裏腹に、カラリと乾いた声で千石さんは続ける。
「学生の時も、それが原因で男からフラれててさあ。結婚なんかずっと先なんだから気にしなきゃいいのにねえ。ああ、でも、たいていの男は『重い』と思っちゃうのかもね。でも……」
千石さんは大きく笑う。美しく整った顔のはずなのに、とても醜悪に感じられて俺は目を背けた。
「一ノ瀬君優しいし。かわいそうな由美ちゃんを捨てたりなんかしないよねえ」
一瞬。本当に一瞬だけ、その場にいた同期たちがお喋りを止めた。
けれども、大手の竹中製薬に入社するだけあってみんな頭の回転が速い。
千石さんの隣にいた男が、テーブルの端からメニューを取り上げると、彼女に向けて開いた。
「なあ、千石さん。小腹が空いたからケーキでも注文しない?」
そして、俺にちらりと目を向けた。ああ、気を利かせてくれたんだな。他の同期の女性も「一ノ瀬君、そろそろ時間じゃない?」と声を掛けてくれる。
俺はその同期たちの気遣いを有難く受け取りながら、カフェを後にした。
その「かわいそうな由美ちゃん」とは別のターミナル駅で待ち合わせていた。
そこでこれから行くお店を告げると、田村さんは破顔一笑する。
「うっそー。クリスマスイブに高級懐石料理? ははは、意表を突くチョイスだね!」
俺も頑張っておどけて見せた。
「そう。ウケ狙い。こんな日こそ和食っていうギャップが面白いかなと思って。いつも世界各国の料理を作っているけど、日本のことは忘れがちだから」
田村さんは本当に面白そうにくすくすと咽喉から声を立てた。
「そういうノリ、好きだなあ」
若い男女がクリスマスで浮かれているような空気は、その高級懐石料理の店にはもちろんない。渋い雰囲気だ。
遠くの座敷から中年以上の男性たちの野太い笑い声が聞こえてくる。社用族だろうか。背広にネクタイの大人の男性。誰かと結婚し、子どもを持つ父親たち。
「どうしたの?」
田村さんの箸使いはとても綺麗で、小鉢の中から茸の含め煮を優雅な所作で口元に運んでいるところだった。
「いや、あの……」
田村さんが茸を飲みこむのを見てから俺は続けた。
「今日ここに来る前に千石さんに会って……その……。田村さんのことを『かわいそう』だって」
田村さんは次に生麩をつまむつもりでいたようだったが、その手が止まる。何秒か経過してから、塗りのお箸がカチャリと音を立てて箸置きに置かれた。
「私の身体のことだよね……子どもが出来ないっていう」
「うん……」
「実は私も今日それを言いに来たんだ」
俺は俯いて、ただ、彼女のしなやかな指先がお箸の手前に揃えられたのを見つめていた。
「……」
「男性の方が結婚するのが遅いとはいえ、だからって私で遠回りすることないからね。子供が欲しいなら、若い内からその願いを叶えてくれる女性を探した方がいい。私なんかをクリスマスに誘っている場合じゃないよ」
「でも……」
「一ノ瀬君はいい人だと思う。料理を通じて知り合ったわけだけど、一緒に作って話をしていて楽しい人だなって思った。なんか妙に味があるというか……。私も一ノ瀬君と一緒に料理をして過ごす人生は楽しいだろうなあと思う……」
俺は思わず顔を跳ね上げ彼女を見た。
彼女の地味な、派手でも大きくもない瞳から一筋涙が零れた。その水滴は、高級店らしい落ち着いた照明の光を集めて、トパーズのように美しく輝く。
「残念だなあ……。高校生の時に病気で手術することになっても、当時の私はあまり気にしなかったんだよ。むしろ親や医師が苦しそうで、私はそれを大袈裟だなあって思ってた。なるほど、皆はこういう場面が来ることを心配してくれてたんだなって今分かった」
そこで周囲の心情を想像するところが、田村さんの優しいところだと俺は心底思う。
「今ちょっと自分の身体を恨んでる」
ごめんと短く言って、田村さんは二筋目の涙を拭った。
「今日は自分の身体のことを自分の口からちゃんと話して、そして最後は『これからもいい友達でいようね』って言葉で締めくくるつもりだった。だけど、ちょっと時間をちょうだい。しばらく会えない。会うのが辛い。だけど……」
「……」
「でも、いつかまた、一緒に料理をしよう。一ノ瀬君が自分の家庭で一緒に料理をする女性を見つけるまで、それまではあの青少年センターの料理会で会おう。うん、時間は限られているから、早く立ち直らなきゃね」
俺は何を言っていいのか分からない。どんな文章でなら今の俺の気持ちを表現できるのか分からない。どんな言い回しなら、彼女の涙を止めることができるのかもわからない。
俺は言葉を絞り出した。
「ありがとう。そして、ごめん」
俺を好きになってくれて。それなのに、俺は不甲斐なくて。
俺はついさっきまで交際を申し込むつもりでいたのに、結婚も子どもも遠い先の話で何か考えていたわけでないのに。なのに、この年齢で子供がいない人生を選択するということが怖い。足がすくむような気持がする。だから、田村さんに何も言えない。
だけど、俺はそんな俺自身を叱り飛ばしたい気持ちでいっぱいで……。ああ、もうぐちゃぐちゃだ……。
「食べよう、一ノ瀬君」
田村さんが再びお箸を手に取った。
「高くて上等なお料理じゃん。ちゃんと味を確かめながら食べないと勿体ないよ? 家庭料理と違って出汁の香りがいいよね。プロの料理人だからできる繊細で上品な味付けだよね」
「う、うん」
「おいしいね」
さして美味しそうでもない歪んだ顔で田村さんが微笑む。
「うん、おいしいね」
俺も懸命にそう答えた。カツオの出汁なのかキチンコンソメなのかわからない椀物の汁を飲み干しながら。
駅から別の電車に乗り込む別れ際。
俺は「じゃあ、また」と声を掛けた。なのに田村さんは「え……」と固まってしまう。
軽く半開きの薄ピンクの唇に目をやりながら俺が考える。あれ、彼女は「時間さえおけば、また会いたい」と言っていなかったっけ。うん、「料理会で会おう」とも。
「……」
躊躇いがちな沈黙の後、彼女が「うん、またね」と口にしながら俯き、そして「じゃ」と踵を返してホームへ向かった。
帰りの電車で吊革にぶら下がりながら、俺はまとまらない思考を繰り返す。そして、降車駅の手前の駅でようやく思い至った。
彼女はまず気持ちを整理する時間を欲しがっていた。気持ちが整わないなら料理会も欠席するだろう。
確かに彼女は今の時点で二度と俺に合わないと決めたわけではない。だけれども、次に会えるかどうかは分からない。彼女の気持ち次第では、再び会えるとは限らないのだ。
そして彼女が俺に会えないと結論付けたとしても、それは当然だ。俺の方が彼女の事情を受け容れられなかったのだから。俺の度量の狭さが招いた事態なのだから。
別の女性を探せと彼女は俺に勧めた。だが、彼女だって、俺みたいな根性なしなど忘れて誰か器の大きな男を探すほうが建設的だ。そして、彼女にならそんな男性も現れるに違いない……。
俺は頭を掻きむしった。
彼女とこれきりで終わってしまうのはあまりに寂しすぎる。こんなたまらない辛さを抱えて俺はこの先も生きていくのか? 頭の中が冷たく冷え、胸の奥底がぐらぐらと揺れている。今夜の俺は何か大間違いをしたのではないだろうか?
終業が近づいた頃、社員同士でも自然とこの話題になった。
「一ノ瀬君はデートなんだってね」と新入りの俺に真っ先に声がかかる。その傍にいた子持ちの係長が「いいねえ、若い人は。僕は今晩サンタクロース役だよ」と嘆いた。「ちょっと前まで僕も身軽にデートできたんだけどねえ」と続けた係長に、女性社員が「奥様とデートすればいいじゃないですか」と返すが、「小さい子どもがいるとそうもいかない」のだそうだ。
俺は「お子さん、明日の朝にプレゼントを見つけたら喜んでくれますよ」と言ってみた。係長の表情は、俺の予想をはるかに上回って大きく崩れた。
「ああ、我が子の笑顔は最高だ!」
とろけそうな笑みだった。
いつか俺も結婚して父親になって、係長みたいになるんだろうかと俺は想像してみる。社会人になったんだから、次の大きなライフイベントは結婚ということになるんだろうな。
電車の隣のつり革にぶら下がっていた若い女性が俺をちらりと見た。俺は自分で気づかぬうちに大きなため息をついていたらしい。
結婚がどうこう以上に、田村さんに告白をしないと。さて、今日の夕食で俺は首尾よく交際を申し込めるのだろうか。あの、誘われただけであんな哀し気な顔をする田村さんに……。
田村さんとの待ち合わせに向かう前に、一度ターミナル駅そばのカフェに顔を出した。向こうの仕事が終わるまで、1時間近く時間が余るからだ。
そのカフェには、会社の同期のうち、今夜予定のない人間が集まってそこから飲みに繰り出すらしい。名付けて「シングルベル」会だそうだ。
カフェの入り口で同期と一緒になった。
「あれ? 一ノ瀬君? 今日は俺たちの会に来ないんじゃなかったっけ?」
「うん、まあ、時間調整で」
中には、千石さんの姿があった。
「あ、一ノ瀬君。今日誰かとデートなんだって?」
俺と仲良くなりかけたことは全く気に留めていない。まあなあ……。久しぶりに会うが相変わらず美人で、これだけ綺麗なら男をとっかえひっかえなのは頷ける。
「今日は彼氏は?」
秋から付き合っている男性がいたはずだ。
「別れちゃった」とけろりと笑っているのは、自分ならすぐ相手が見つかると思っているからだろう。次は彼女が俺に聞いてくる。
「一ノ瀬君、彼女出来たの?」
「まだ彼女じゃないけど。今日は田村さんに会うんだ」
「ええーっ!」
千石さんは身を仰け反らせた。彼女は友人の田村さんから何も聞かされていないらしい。だから驚いているのだろうと俺は思った。
「由美ちゃんと付き合おうと思ってるわけ?」
「うん、まあ……」
千石さんは口の端を歪め、俺から視線を外して何かを考えていた。
「そうかあ……。かわいそうな由美ちゃんに彼氏かあ……。そうだよね、考えてみれば、結婚なんて二十代の後半から考えればいいんだから、それまでに一人くらいは由美ちゃんにも彼氏ができてもいいのかも。一ノ瀬君は男性だから結婚は女性よりもっと先だしね」
「あ……の……?」
田村さんがかわいそう? 男性の初婚年齢が女性より遅いというのは社会的な事実だが、それが何か?
「もう由美ちゃんから前もって聞いているよね? 彼女、男性から好意を寄せられたら、早いうちにに自分の事情をきちんと伝えるもん」
だから何を?
「由美ちゃん、病気で子宮を摘出したから子どもが産めないって」
「……」
俺はどう反応していいのか分からない。千石さんの赤く塗られた唇がパクパクと動くのを、ただ奇妙な物を見るかのような気持ちで呆然と見ていることしかできない。
「子どもを望む男性と結婚できないって分かっているから、男の人には付き合う前にちゃんと説明するって言ってたものね」
「かわいそうなのよ~」と言葉の意味とは裏腹に、カラリと乾いた声で千石さんは続ける。
「学生の時も、それが原因で男からフラれててさあ。結婚なんかずっと先なんだから気にしなきゃいいのにねえ。ああ、でも、たいていの男は『重い』と思っちゃうのかもね。でも……」
千石さんは大きく笑う。美しく整った顔のはずなのに、とても醜悪に感じられて俺は目を背けた。
「一ノ瀬君優しいし。かわいそうな由美ちゃんを捨てたりなんかしないよねえ」
一瞬。本当に一瞬だけ、その場にいた同期たちがお喋りを止めた。
けれども、大手の竹中製薬に入社するだけあってみんな頭の回転が速い。
千石さんの隣にいた男が、テーブルの端からメニューを取り上げると、彼女に向けて開いた。
「なあ、千石さん。小腹が空いたからケーキでも注文しない?」
そして、俺にちらりと目を向けた。ああ、気を利かせてくれたんだな。他の同期の女性も「一ノ瀬君、そろそろ時間じゃない?」と声を掛けてくれる。
俺はその同期たちの気遣いを有難く受け取りながら、カフェを後にした。
その「かわいそうな由美ちゃん」とは別のターミナル駅で待ち合わせていた。
そこでこれから行くお店を告げると、田村さんは破顔一笑する。
「うっそー。クリスマスイブに高級懐石料理? ははは、意表を突くチョイスだね!」
俺も頑張っておどけて見せた。
「そう。ウケ狙い。こんな日こそ和食っていうギャップが面白いかなと思って。いつも世界各国の料理を作っているけど、日本のことは忘れがちだから」
田村さんは本当に面白そうにくすくすと咽喉から声を立てた。
「そういうノリ、好きだなあ」
若い男女がクリスマスで浮かれているような空気は、その高級懐石料理の店にはもちろんない。渋い雰囲気だ。
遠くの座敷から中年以上の男性たちの野太い笑い声が聞こえてくる。社用族だろうか。背広にネクタイの大人の男性。誰かと結婚し、子どもを持つ父親たち。
「どうしたの?」
田村さんの箸使いはとても綺麗で、小鉢の中から茸の含め煮を優雅な所作で口元に運んでいるところだった。
「いや、あの……」
田村さんが茸を飲みこむのを見てから俺は続けた。
「今日ここに来る前に千石さんに会って……その……。田村さんのことを『かわいそう』だって」
田村さんは次に生麩をつまむつもりでいたようだったが、その手が止まる。何秒か経過してから、塗りのお箸がカチャリと音を立てて箸置きに置かれた。
「私の身体のことだよね……子どもが出来ないっていう」
「うん……」
「実は私も今日それを言いに来たんだ」
俺は俯いて、ただ、彼女のしなやかな指先がお箸の手前に揃えられたのを見つめていた。
「……」
「男性の方が結婚するのが遅いとはいえ、だからって私で遠回りすることないからね。子供が欲しいなら、若い内からその願いを叶えてくれる女性を探した方がいい。私なんかをクリスマスに誘っている場合じゃないよ」
「でも……」
「一ノ瀬君はいい人だと思う。料理を通じて知り合ったわけだけど、一緒に作って話をしていて楽しい人だなって思った。なんか妙に味があるというか……。私も一ノ瀬君と一緒に料理をして過ごす人生は楽しいだろうなあと思う……」
俺は思わず顔を跳ね上げ彼女を見た。
彼女の地味な、派手でも大きくもない瞳から一筋涙が零れた。その水滴は、高級店らしい落ち着いた照明の光を集めて、トパーズのように美しく輝く。
「残念だなあ……。高校生の時に病気で手術することになっても、当時の私はあまり気にしなかったんだよ。むしろ親や医師が苦しそうで、私はそれを大袈裟だなあって思ってた。なるほど、皆はこういう場面が来ることを心配してくれてたんだなって今分かった」
そこで周囲の心情を想像するところが、田村さんの優しいところだと俺は心底思う。
「今ちょっと自分の身体を恨んでる」
ごめんと短く言って、田村さんは二筋目の涙を拭った。
「今日は自分の身体のことを自分の口からちゃんと話して、そして最後は『これからもいい友達でいようね』って言葉で締めくくるつもりだった。だけど、ちょっと時間をちょうだい。しばらく会えない。会うのが辛い。だけど……」
「……」
「でも、いつかまた、一緒に料理をしよう。一ノ瀬君が自分の家庭で一緒に料理をする女性を見つけるまで、それまではあの青少年センターの料理会で会おう。うん、時間は限られているから、早く立ち直らなきゃね」
俺は何を言っていいのか分からない。どんな文章でなら今の俺の気持ちを表現できるのか分からない。どんな言い回しなら、彼女の涙を止めることができるのかもわからない。
俺は言葉を絞り出した。
「ありがとう。そして、ごめん」
俺を好きになってくれて。それなのに、俺は不甲斐なくて。
俺はついさっきまで交際を申し込むつもりでいたのに、結婚も子どもも遠い先の話で何か考えていたわけでないのに。なのに、この年齢で子供がいない人生を選択するということが怖い。足がすくむような気持がする。だから、田村さんに何も言えない。
だけど、俺はそんな俺自身を叱り飛ばしたい気持ちでいっぱいで……。ああ、もうぐちゃぐちゃだ……。
「食べよう、一ノ瀬君」
田村さんが再びお箸を手に取った。
「高くて上等なお料理じゃん。ちゃんと味を確かめながら食べないと勿体ないよ? 家庭料理と違って出汁の香りがいいよね。プロの料理人だからできる繊細で上品な味付けだよね」
「う、うん」
「おいしいね」
さして美味しそうでもない歪んだ顔で田村さんが微笑む。
「うん、おいしいね」
俺も懸命にそう答えた。カツオの出汁なのかキチンコンソメなのかわからない椀物の汁を飲み干しながら。
駅から別の電車に乗り込む別れ際。
俺は「じゃあ、また」と声を掛けた。なのに田村さんは「え……」と固まってしまう。
軽く半開きの薄ピンクの唇に目をやりながら俺が考える。あれ、彼女は「時間さえおけば、また会いたい」と言っていなかったっけ。うん、「料理会で会おう」とも。
「……」
躊躇いがちな沈黙の後、彼女が「うん、またね」と口にしながら俯き、そして「じゃ」と踵を返してホームへ向かった。
帰りの電車で吊革にぶら下がりながら、俺はまとまらない思考を繰り返す。そして、降車駅の手前の駅でようやく思い至った。
彼女はまず気持ちを整理する時間を欲しがっていた。気持ちが整わないなら料理会も欠席するだろう。
確かに彼女は今の時点で二度と俺に合わないと決めたわけではない。だけれども、次に会えるかどうかは分からない。彼女の気持ち次第では、再び会えるとは限らないのだ。
そして彼女が俺に会えないと結論付けたとしても、それは当然だ。俺の方が彼女の事情を受け容れられなかったのだから。俺の度量の狭さが招いた事態なのだから。
別の女性を探せと彼女は俺に勧めた。だが、彼女だって、俺みたいな根性なしなど忘れて誰か器の大きな男を探すほうが建設的だ。そして、彼女にならそんな男性も現れるに違いない……。
俺は頭を掻きむしった。
彼女とこれきりで終わってしまうのはあまりに寂しすぎる。こんなたまらない辛さを抱えて俺はこの先も生きていくのか? 頭の中が冷たく冷え、胸の奥底がぐらぐらと揺れている。今夜の俺は何か大間違いをしたのではないだろうか?
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