俺と料理と彼女と家と

washusatomi

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第15話 世界の料理を一緒に作ろう!

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「人生の先輩……今の一ノ瀬さんがそうです」

 日本人にしては二重瞼がくっきりとした南国風の顔立ちの青年が口にする。

 竹中製薬にこんな同期いたっけ……と入社当時を振りかえり、そして思わず自分に苦笑した。

 今は二十一世紀もその終わりが見えかけており、自分ももう八十歳を何年も過ぎたお爺さんになってしまった。

 今の私は車いすに乗り、高齢者施設で暮らしている。

 この施設は特に富裕層向けではないから全体に質素な内装だが、それでも一階のエントランスに日差しがよく入るロビーが設けられていた。

 私の車いすを囲んでソファに座る数人の中から、金髪碧眼の若い娘さんが私に微笑みかけてくる。

「『俺』というコトバは、若イ世代の一人称と日本語クラスで習いマシタ」

 やや覚束ない日本語が「一ノ瀬サンにも、若い頃があったんデスネ」と続く。

 ああ、彼女は、最近東欧から来たアーニャだな。思い出した。

 今日は、高齢者施設に暮らす私を、私が残した家に住む世界各国の留学生が訪れてくれたのだ。

 あれから、私は田村さんに交際を申し込んだ。彼女は自分の身体を引け目に思う気持ちからなかなか逃れられず、交際するにあたっても何度も私の気持ちを確かめたし、付き合ってからもちょっとしたことで「別れよう」と言い出す傾向があった。

 子どもを持つかどうか以外にも、どの男女にもあるそれなりの諍いというものもあったから、ずっと波風立たずに過ごしたわけではない。

 それでも、どんな一日であろうと毎日腹は減り、腹がすけば台所に立ち、そして自分が一緒に料理を楽しみたいのは田村さん以外の誰でもないと再確認する日々だった。

 三十歳の誕生日の前に、私は彼女に結婚を申し込んだ。今思えば女性に不器用で奥手だった私としては凝ったプロポーズをしたものだ。

「へえ、なんて言ったんですか?」

 日本人とほとんど変わらぬ風貌の華僑系の若い男性が尋ねてくる。

「内緒だよ。必殺技だからね。君がどうしても意中の相手を口説けないときが来たら教えてあげるがね」

「今、聞いておきたいです」

 こら、とたしなめたのは顔だちの造りが大きく、精悍な身体つきの中東の男性だ。

「一ノ瀬さんはこれからだって長生きする。いつでも聞けることだ」

 私はがんを患って久しい。余命を数えながら生きている状態だが、彼は私を励ますつもりなのだろう。その気遣いは華僑の彼も理解したらしい。

「では、僕が誰かを妻に出来たら、そのプロポーズを教えてあげます。その時は僕の話を聞いて下さいね?」

「ああ、是非聞きたいね。楽しみだ」

 結婚した私と田村さんは、台所の広い家を探した。

 そこが手狭になると、理想の台所を備えた家を建てようと話し合うようになった。それを目標に二人とも正社員で頑張って働き、NISAや財形貯蓄などフル活用したものだ。二人で重ねた会話が耳によみがえる。

「一階部分を丸々台所にあてよう」

「もちろんガスオーブンも欲しいね」

「アイランドキッチンだと他の人も呼べるよね」

 実際、ちょっとした料理教室が開けてしまうほど広くて大きな台所をつくることとなった。

 田村さん……いや、結婚してからは「由美さん」と呼ぶようになっていた……が一つ提案した。

「二階は小さな部屋をたくさん造ってはどうかなあ?」

「なんで?」

「台所優先で広い敷地を買ったから、2階もわりと面積があるでしょう? 小部屋に分けて下宿人に来てもらったら……」

「下宿人?」

「うん、シェアハウスみたいな感じで。台所を共用にして、お料理も一緒に出来て……」

「……」

「例えばさ、いろんな国の留学生に部屋を提供したらさ。その国の料理を作って貰えるんじゃないかな、って。そうなったら楽しいと思う」

「うん、面白そうだね」

 彼女はふわっと大きな笑みを浮かべた。

「やっぱり私たち、人から『子供がいないと寂しいでしょう?』ってよく言われるじゃない? 下宿屋を営んでいればそんなこと言われないで済むんじゃないかと思うの」

 人からの言葉を気にして生き方を決める必要は全くない。俺はそう言いかけて止めた。寂しいのは彼女自身なのかもしれない。

 確かに、現役の間、自分達夫婦には理想の台所を備えた家を建てるためという働く目的がある。だが、そんな家を建ててしまった後はどうなる? それに、会社を定年になった後、自分達は社会とどうかかわればいいのだろう?

「いいね。老後まで続く生きがいになりそうだ」

 話はそれほど簡単ではなかった。日本人にも犯罪者がいるように、トラブルを起こす入居者がいなかったわけではない。故国を離れる経緯に問題があったのか、異郷の暮らしがどこか心の枷を外してしまうのか。警察に出向いたことも何回かある。

 それでも、比較的早い段階で私たちの留学生ハウスは落ち着きを見せた。顔見知りになった警察の人が最後に会ったときに言ったものだ。

「だんだん雰囲気が良くなってきましたね。やっぱり広い台所があるのが大きいでしょうな」

「そういうものですか?」

「自分の食事を作る場所、それが我が家です。自分のテリトリーでトラブルを起こしたい人間はいませんよ」

 外に対して大きな問題を起こさなくても、家の中で揉めることも多かった。ある国では禁忌とされている食材を扱った調理スペースでは、その国の人は料理できない。

 大きなアイランドキッチンがあれば、それを囲んで皆でわいわい料理をすると私たち夫婦は思い描いていたが、そんな勝手な期待はさっさとひっこめ、小さな調理台を複数並べるようにレイアウトを変えた。

 もっとも、大家である私たち夫婦がしたのはこれくらいだ。あとは入居人たちがルールを決めていった。誰かが卒業し、誰かが入ってきたらそのルールも引き継がれる。変更が必要なら彼らが話し合って結論を出す。

 十年二十年経つとそれは「伝統」となった。伝統や文化というのは、互いに身内意識を持った参加者が作り上げていくものなのだ。そして、この共同体の名称も。

「ユミハウス」

 由美さんは病気がちで自宅や病院で療養していることが多かった。彼女を心配してくれた下宿人たちが、建物に由美さんの名前をつけてくれたのだ。この名前が定着した後に由美さんは世を去ったが、この名前の留学生ハウスが残ったのは大きな慰めだった。

 私も七十歳を過ぎると、留学生の世話をするよりも、下宿している彼らの世話になることが多くなった。そこで、八十歳になったのをきっかけにこの高齢者施設に入った。毎週末になるとこうしてユミハウスの誰かが尋ねてきてくれる。

 他の入居者から「いいですなあ。わしら実の子どももなかなか来てくれないというのに……」と羨ましそうな声を掛けられることもある。だが、数が違うのだから比べようもない。常時5人はユミハウスで暮らしているし、日本に残った卒業生も多い。海外に渡ったOBOGも日本に来たら顔を見せてくれる。

 アーニャがもぞもぞと鞄から容器を取り出した。

「一ノ瀬サン、故郷の料理、作ってキマシタ」

「ほう。生活が落ち着いたかね?」

 アーニャの国は隣の大国に侵攻されている。世界中が憤ったこの戦争に、日本も重い腰を上げて難民認定の基準を緩くした。

 アフリカ出身の褐色の肌の女性が言う。

「アフリカは内戦も多いケド、ヨーロッパで難民が出るのは驚きデス」

「早く母国に帰れるとイイね」

 だが、華僑君はけろりと言い放つ。

「別に帰らなくても、これから住みやすい国を見つければイイヨ」

 アーニャは困った顔だ。それはそうだろう。まだ彼女の心は混乱したままだろうに。

「でも、私は祖国を愛シテル……」

「日本は平和だヨ。ここで過ごせばいい。ユミハウスの広いキッチンで、ふるさとの料理を作る。食べる。その繰り返し。場所は違うけど、故郷の暮らしを送ってル。文化も国も捨ててない……ダロ?」

「……」

「僕も先祖の国の料理も、生まれた国の料理も、その時に住んでいる国の料理も全部作ル。そして、それをみんなで食べるネ」

 少しアーニャの顔が明るくなった。そこにすかさず華僑君が畳みかける。

「アーニャ、僕と一緒に料理を作ろう!」

 おいおいおい……。そのシンプルかつパワフルな台詞はプロポーズの時まで大切に取って置き給え。いや、この口達者な華僑君なら、若い時の私よりも気の利いたプロポーズをするんだろう。

「アーニャ」

 ああ。老人臭い声になったものだ。自分のかすれ声に我ながら呆れながら、それでもどの留学生にも言ってきたことを言う。

「毎日美味しいご飯を作って、楽しく食べなさい。その毎日の繰り返しが生きるということだから。災害や戦争、病気。人の人生にいつどんな終わりがくるかわからない。だからこそ、毎日を充実したものにして過ごして欲しい」

 アーニャが口を動かす。真面目な顔で頷いているから、きっと彼女の国での承諾の言葉なのだろう。

 その夜。私は夢を見た。

 大きな鍋の中、黄金色に輝くつゆの中に私は浸かっている。出汁なのかコンソメスープかは分からない。自分はいまこの鍋で煮込まれてるんだなあと心のどこかで了解している。

 もっとも鍋の湯加減は上々だ。温泉に入っているかのように気持ちい。

 悪くない。こうやって溶けて行って、誰かの胃袋に入っていくのもいいもんだ。

 人間は料理を食べて、その日を生きていく。私もそうしてきた。そして、良い人生だった。

 湯煙の中に由美さんが鍋をのぞき込んでいるのが見えた。ああ、鍋の中から再会だね、嬉しいよ。

 鍋の中にぷかぷか浮かぶ人参や玉ねぎ、じゃがいもは、きっと彼女がその美しい手の動きで調理したものだろう。

 君に料理される人生で、俺は幸せだった。上を見上げて俺は言う。半分冗談で半分真面目だ。由美さんが可笑しそうに笑う。

 由美さん以外にもいろんな人々も鍋を囲んでいるようだ。

 母……それから父。M国からきたあの少年。それから、初めて下宿に迎えた褐色の肌の女性。日本に馴染めず結構トラブルが多かったものの、一度腹をくくると親分肌を発揮して皆を纏めてくれた中東から来た青年。あ、華僑君が何かをペラペラしゃべってる。おいおい一方的に話しかけられているアーニャが戸惑っているじゃないか……いや、微笑んで頷いたのだからこれでいいのか。

 皆が和気あいあいとお箸やスプーンを手に取り始めた。いよいよ食事の始まりだ。
 私は静かに目を閉じる。
 みなさん、よいお食事を──。
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