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崩れたバランス
姫乃に唇を奪われたあの日から、あたしは何も言えずにいた。怒るべきなのか、突き放すべきなのか──どれも選べなかった。
あのときの姫乃の瞳が、今でも頭から離れない。まっすぐで、切実で、どこまでも本気だった。
自分でも、何をどう考えていいのかわからなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、姫乃の顔をまともに見られない。
けれど──逃げることもできなかった。
部屋には、今日も姫乃と二人きり。二人部屋の桜花寮の一室。あたしたちだけの閉じられた世界。静かな時間が、妙に息苦しい。
スマホを見ているふりをしていたけど、何も頭に入ってこなかった。隣に座る姫乃が、本のページをめくる音さえも、やけに大きく聞こえる。
「……椿」
姫乃がぽつりと名前を呼ぶ。その声が、前よりずっと低く、熱を帯びている気がした。
あたしは反射的に視線を逸らした。だけど、姫乃は逃がさなかった。
「椿の可愛いところ、私なら知ってる」
言葉は静かだった。でも、胸を突き刺すほど強い。姫乃はゆっくりと距離を詰めてきた。あたしの足元にしゃがみ込んで、じっと目を見上げてくる。
「みんな椿のこと、カッコいいとか頼れるとか言うけど……私だけは、ずっと違う椿を見てたよ」
その視線が、あまりに真剣すぎて、あたしは息を呑んだ。指先がそっと私の頬に触れる。
触れられた瞬間、心臓が跳ねた。逃げたい。でも、逃げられなかった。
「部活でも、寮でも、誰より近くで。椿が照れたり、拗ねたり、落ち込んだりしてるの、全部知ってるよ」
姫乃の瞳は、いつもの落ち着いた色のまま、熱を孕んでいた。逃げられなかった。拒絶の言葉も、皮肉も、軽口も出てこなかった。自分を守るために笑う癖も、今はもう使えなかった。
「……あたしなんか、姫乃に釣り合わねーだろ」
思わず漏らした弱音に、姫乃はかすかに笑った。
でもその笑みは、馬鹿にするでも、慰めるでもなく──ただ、やさしかった。
「私は、椿じゃなきゃ嫌だよ」
まるで告白みたいに、その言葉は静かに、でも確かに心に届いた。あの日、坂井から突然だったけど告白されて、誰かに必要とされた気がして。それだけで、浮かれて、逃げた。心が空っぽになる前に、誰かに満たしてほしかっただけだった。
でも、姫乃は。ずっと隣にいてくれた姫乃は、誰よりもあたしを見てくれていた。それが、今になって怖くて、でも、どこか誇らしくて。
姫乃の指が、頬から首筋を撫でて、もう一度顔を覗き込む。
「私……椿が好きだよ。出遅れたかもしれない。でも、私を選んで欲しい」
言葉が、身体の奥まで染み込んでいくみたいだった。胸の奥が、じんわりと熱くなった。
あたしは、もう目を逸らせなかった。逃げてばかりの自分を、許したくなかった。
その夜、あたしは姫乃の隣で、ゆっくりと涙をこぼした。それを見て、姫乃が何も言わずに私を抱きしめてくれたこと──そのぬくもりを、あたしはずっと、忘れないと思った。
あのときの姫乃の瞳が、今でも頭から離れない。まっすぐで、切実で、どこまでも本気だった。
自分でも、何をどう考えていいのかわからなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、姫乃の顔をまともに見られない。
けれど──逃げることもできなかった。
部屋には、今日も姫乃と二人きり。二人部屋の桜花寮の一室。あたしたちだけの閉じられた世界。静かな時間が、妙に息苦しい。
スマホを見ているふりをしていたけど、何も頭に入ってこなかった。隣に座る姫乃が、本のページをめくる音さえも、やけに大きく聞こえる。
「……椿」
姫乃がぽつりと名前を呼ぶ。その声が、前よりずっと低く、熱を帯びている気がした。
あたしは反射的に視線を逸らした。だけど、姫乃は逃がさなかった。
「椿の可愛いところ、私なら知ってる」
言葉は静かだった。でも、胸を突き刺すほど強い。姫乃はゆっくりと距離を詰めてきた。あたしの足元にしゃがみ込んで、じっと目を見上げてくる。
「みんな椿のこと、カッコいいとか頼れるとか言うけど……私だけは、ずっと違う椿を見てたよ」
その視線が、あまりに真剣すぎて、あたしは息を呑んだ。指先がそっと私の頬に触れる。
触れられた瞬間、心臓が跳ねた。逃げたい。でも、逃げられなかった。
「部活でも、寮でも、誰より近くで。椿が照れたり、拗ねたり、落ち込んだりしてるの、全部知ってるよ」
姫乃の瞳は、いつもの落ち着いた色のまま、熱を孕んでいた。逃げられなかった。拒絶の言葉も、皮肉も、軽口も出てこなかった。自分を守るために笑う癖も、今はもう使えなかった。
「……あたしなんか、姫乃に釣り合わねーだろ」
思わず漏らした弱音に、姫乃はかすかに笑った。
でもその笑みは、馬鹿にするでも、慰めるでもなく──ただ、やさしかった。
「私は、椿じゃなきゃ嫌だよ」
まるで告白みたいに、その言葉は静かに、でも確かに心に届いた。あの日、坂井から突然だったけど告白されて、誰かに必要とされた気がして。それだけで、浮かれて、逃げた。心が空っぽになる前に、誰かに満たしてほしかっただけだった。
でも、姫乃は。ずっと隣にいてくれた姫乃は、誰よりもあたしを見てくれていた。それが、今になって怖くて、でも、どこか誇らしくて。
姫乃の指が、頬から首筋を撫でて、もう一度顔を覗き込む。
「私……椿が好きだよ。出遅れたかもしれない。でも、私を選んで欲しい」
言葉が、身体の奥まで染み込んでいくみたいだった。胸の奥が、じんわりと熱くなった。
あたしは、もう目を逸らせなかった。逃げてばかりの自分を、許したくなかった。
その夜、あたしは姫乃の隣で、ゆっくりと涙をこぼした。それを見て、姫乃が何も言わずに私を抱きしめてくれたこと──そのぬくもりを、あたしはずっと、忘れないと思った。
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