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本編

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 幽玄の美、目の前に居る女性を表現するのにぴったりな言葉が何か……思いを巡らせやっと見いだした言葉だ。真っ直ぐな長髪はカラスの濡れ羽色、透き通るように白い肌とぷっくり艶めく紅い唇。

「先輩みたいな美女をこんな間近で描けるなんて、ここの美術部に入って良かったですよ」

 私、竹内亜李栖は江洲大学の美術部に所属している。部員自体は十人くらいいるのだが、女子部員は私と目の前の先輩そして飲み会にしか来ない派手な先輩の三人だけ。ぶっちゃけ、まともに絵を描く部員の方が少ない廃部寸前の飲みサーだ。

「昔はもうちょっと絵を描く人がいたのだけれどねぇ。私はモデルとして加わってくれって言われて入った口なんだけど」
「先輩は確かにモデルとして映えますよね~」

 秋と言うよりもはや冬だ。冷たい北風が古びた部室棟の隙間から吹き込み冷える。だが先輩はさほど着込んでおらず、モデルとしてはその方がいいのだが身体のラインがはっきりするニットを着ている程度だ。
部で一番良くしてくれる――まぁ、愚痴を聞いてもらったりモデルをしてもらったりするくらいだが――先輩が目の前の先輩だ。とはいえ、名前を聞く機会を逃してしまって以来、ただただ先輩とだけ呼んでいる。新歓コンパにいなかったから、自己紹介をしてもらっていないし、他の部員がたまに部室に来ても先輩と会話しないから、名前を聞く機会もないのだ。
 どうやら先輩は何年か留年しているらしく、何年生なのか聞いても何年生なんだろうねという返答だったし、いつ来てもこの部室にいる。だからといって、この部室で遊んでいるわけでもないし……。まぁ、不思議な先輩だ。
 とはいえ、確実に言えることは先輩が美人でスタイルがよくてモデルとして最高だということだ。最初はしぶしぶといった感じで入部したのだが、先輩と出会えただけで入部した価値があると本気で思える。

「亜李栖ちゃんって、警察官目指してるんだっけ?」
「そうですよー。父が警官ってのもありますけど、顔と名前を覚えるスキルだけなら本気で自信ありますよ。学科の二百人、ほぼ顔と名前を覚えましたし」
「すごいのね。私は最近、忘れることの方がおおくて……」

 なんだかおばあちゃんみたいだなんて笑ってしまった。先輩は何か目指しているものがないのかと尋ねてみた。

「目指している……? まぁ、夢ならあるわ。私のことを誰かにずっと覚えていてもらうの。誰かが覚えている限り、私はずっと私なのよ。だから亜李栖ちゃんが記憶に自信があるっていうの、少し嬉しいわね」

 先輩の言葉はなんというか、少しだけ哲学的だった。そういえばこの大学、文学部に哲学専攻のコースがあったな。ひょっとしたら先輩は文学部生なのかな。やっぱり名前、聞いちゃおうかな。……日々の会話の中で、だんだんと私の中に占める先輩の割合が大きくなっているのを感じる。ひょっとしたら、先輩のこと……好きなのかも、なんて。

「あの、先輩って何て名前なんですか? もっと先輩のこと知りたいですよ」
「ふふ、いいじゃない。秘密は女を魅力的にするお化粧なんだから」
「えぇ~先輩はもう十分魅力的ですよ」

 おべっかなんかじゃなくて、本心だ。ちょっとは伝わるかななんて思ったけど、ちょっと甘かったみたい。

「ただ先輩じゃ、他の先輩と区別が難しいもんね。じゃあ、お姉さまって呼んでよ。いいでしょ、亜李栖? ロザリオはないけのだけれどね」

 少女小説が好きなのかな。まぁ、先輩の趣味に付き合うのもいいだろう。なにせ半年以上、ずっとモデルやら話し相手をしてもらっているのだから。

「じゃあハグしてくださいよお姉さま」
「いいわよ。おいで、亜李栖」

 先輩の豊かな胸に顔を押し当てる。ひんやりとしているのに、私はドキドキして顔が熱くなる。自分の鼓動がやたら大きく聞こえる……。あと匂いがあんまりしない。甘かったり、ミルキーだったり、そういう良い香りもしないし、だからといって汗とか香水みたいな強い匂いもない。強いて言えば、部室の匂いとなんら変わらない。というか……。

「お姉さまは、私にちっともドキドキしてくれないんですね? ひんやりしてますし」
「脂肪は冷えやすいのよ。鼓動も聞こえにくくなっているのかもしれないわね」

 そういうものかと私は自分に言い聞かせ、先輩から離れた。すると遠くから部室棟の管理人さんの声が聞こえた。

「あら、もうこんな時間。亜李栖、先に帰ってて」
「え、でも……」

 そういえば先輩と一緒に帰ったことがない。これはチャンスなんじゃないかと荷物をまとめながら思ったのだが。

「ほら、早く。バスの時間もあるでしょう?」

 強めに言われ、確かにバスの時間も近いことからしぶしぶといった思いで古く薄暗い部室棟を後にする。管理人さんにもう一人いますとだけ言って部室棟から離れる。しまった、年内の活動は今日が最終日だった。クリスマス会、先輩は来るのかな……? 先輩との連絡手段がないことに気付いてハッとした。部のグループチャットにも先輩らしきアカウントはない。なんだかなぁ……。クリスマスに会えたらいいのだけれど。


 結論から言ってクリスマス会で先輩には会えなかった。挙げ句、やたらと不思議ちゃん扱いされた上に来年の新歓についてもちゃらんぽらんな感じがして腹が立ち、私は途中で帰ってしまった。
 年明けは一発目から先輩に対して愚痴りまくりだった。

「不思議ちゃん扱いの原因がこの薄暗い部室に頻繁に出入りしていることと、ちょくちょく独り言を言っているからだってですよ。薄暗かろうと所属している部室に入ることの何が可笑しいって言うんですかね。それに独り言に関しては濡れ衣もいいところですよ。文化祭の時がどうこう言っていましたけど、お姉さまもちゃんと一緒にいたじゃないですかね。他の部員こそお姉さまのことを無視してばかりでよっぽど可笑しいですよ。もう!!」

 一頻り愚痴った私は時間も迫っていたこともあり、帰宅することにした。先輩にも夜道に気をつけて帰るように言った。そう言えば先輩の住んでいる場所を知らないや。

「あ、君! そこの君だよ!」

 正門の方まで歩いていると、部室棟の管理人さんが声を掛けてきた。

「前にもう一人出てくるって言って部室棟を飛び出した子だよね。三十分待っても誰も来なかったし、確認したけど無人だったよ! もう、寒い時期なんだからやめてくれよな!!」

 そう言うだけ言って部室棟の方へ足早に去って行った管理人さん。……おそらく先輩に強めに帰るよう促された日のことだろう。けれど、先輩は出てこなかった……?

「……どういうこと?」

 管理人さんが嘘を言う必要は全くない。その言葉がどうにも引っ掛かった上に期末試験もあって私の足は部室から遠のいていった。
 ほどなくして二年生に進級した私は、独力で新入生の勧誘をして高校時代美術部だったという女の子三人グループを無事に部活に招き入れることに成功した。二年生の間は彼女らと過ごすことが多くなり、三年生になると警察官になるための試験対策として専門学校とのダブルスクールで忙しくなり、部室に行くことは滅多になくなった。先輩も見かけられず、きっと卒業したのだろうと思い込んでいた。けれど……。


 警察官になって二年目の年度末、江洲大学の部室棟が老朽化もあり解体されるというニュースを見た。さらに衝撃的だったのは、解体現場から女性のものとおぼしき白骨が発見されたということだった。
 嫌な予感がした。ただの予感だというのに、帰宅した私は必死で去年から県警本部勤務となった父にその白骨の顔貌復元図を頼み込んで見せてもらった。そして大学一年の頃に使い込んだスケッチブックの絵と比べる。……髪の長さや要所要所に違いはあれど、その復元図の顔は私がお姉さまと呼んでいたあの先輩のそれだった。

「亜李栖、これはどういうことだ?」

 父のテノールボイスも耳を通り過ぎるだけ。聞きたいのは私の方だ。あの一年間はなんだったんだ……? あのひんやりとした肌触りと聞こえなかった心拍が、死者であるからだとしたら……あの柔らかさは何だったんだ……。
 後日、続報で知ったが女性の身元が判明した。江洲大学の学生で名前は東山海莉というそうだ。そして後に知るが、彼女は絞殺されていた。十年前、江洲大学の美術部にモデルとしてやってきた当時二年生の彼女は、その場でレイプされた挙げ句に殺害された。その遺体が文化部棟の裏手に埋められていたということらしい。
 この謎の体験を、父親が納棺師だという科捜研勤務の同期に話してみた。

「それは随分と不思議な体験をしたね。おそらく彼女は地縛霊のようなもので、君とはチャンネルが合ったのか、普通に接することが出来たのだろうね。……見付けて欲しかったというよりは、ただただ話がしたかったのか、あるいは……ちゃんとモデルの仕事を果たしたかった。いや、誰かに自分の姿を残して欲しかったのかしれないね。絵として」

 なんとなく、その言葉は私の中で腑に落ちるものだった。そして、少しでも怖がってしまった自分が情けなく思えてならなかった。二年生の頃も、三年生の頃も……もう少し部室を覗いて先輩のことを絵に収めておくべきだった……。

「まぁ、科学捜査に携わる人間の言葉じゃなか……竹内? 泣いているのかい?」
「もっと先輩の話を聞いてあげればよかったって思って……」
「まだ、聞こえるかもしれないぞ? 何事も、可能性ってのは0じゃないものさ」

 その言葉に私は強く頷いた。
 帰宅後、私は再び父に無理を承知で頼み込んだ。すると父は、私が描いたスケッチがどこか気がかりだったのか、身元引受人についての情報を教えてくれた。
 後日、私は精一杯大人びて見えるよう化粧をし、東山家を尋ねた。

「どちら様でしょうか? 取材はもう……」
「い、いえ……私、海莉先輩の後輩で今は警察官をしている竹内亜李栖と申します。どうかお線香を……」

 後輩、警察官、どっちを信用してかは分からないけれど、玄関を開けてもらえた。そこにいたのは還暦を過ぎたとおぼしき品の良い女性で、仏間へと通された。手土産を渡すと、女性はお茶を淹れますといって部屋を後にした。

「お姉さま……」

 仏壇に飾られた写真は確かに私がお姉さまと呼んで慕っていた先輩だった。大学の入学式だろうか、スーツ姿の先輩は綺麗だった。

「……おもたせではありますが」

 さっきの女性が芋羊羹とお茶を持って部屋に戻ってきた。

「貴女、若そうに見えるけれど本当に娘の後輩なのね。海莉は芋羊羹が好きだったのよ……」

 やはり女性は先輩のお母様だった。あれは大学一年の秋頃だ。先輩は芋羊羹が一番の好物だと教えてくれた。だから、今日はこれを選んで持ってきた。受け取った一切れを仏壇に供える。……そうか、先輩が何かしらを飲み食いしている様を見ないわけだ。私にしか見えていなかったのだから。

「そうだ、あと……これを」

 何枚も描いた海莉先輩のスケッチの中でも、かなり自信のある一枚を手渡す。

「ああ、海莉……。お上手ですね、あの娘の雰囲気をよく捉えている。あら……日付が」

 しまった。五年前の日付がメモされているスケッチは露骨に怪しい。なにか、なにか言わないと……。

「なるほど。海莉はきっと……貴女に描いて欲しくて姿を現したのでしょうね。だからどうか……海莉のことを忘れないであげてください」
「はい、もちろんです。あの、先輩と少し……話しても?」
「えぇ、ごゆっくり。お帰りの際に、お声かけください」

 再び仏間を離れるお母様に、深々と礼をして……仏壇に正対する。芋羊羹を一口、口に運ぶと優しい甘みが広がった。

「美味しいですね、これ。お久しぶりです……お姉さま。お姉さまの名前を知るのに、五年もかかっちゃいましたね。警察官に、なりました。今は交通課で勤務しています。いずれは、刑事課を目指そうと思います。お姉さまみたいな被害者を一人でも減らすために。そうだ、どうしてお姉さまは私の前に現われたのでしょう? 同僚はチャンネルが合ったなんて言っていましたが、偶然であれば……運命なのかもしれませんね。二年、三年になってもお姉さまに会いに行けば良かった。もっと触れたかった。……返事、くれないんですね。進級してから会いに行かなかったから、すねているんですか? 私、お姉さまのこと絶対に忘れませんから。それだけは安心してください。……もし叶うなら、いつか、私の娘として生まれ変わって欲しいです。名前、使わせてもらいますね。ふふ、まぁ結婚の予定なんて全くないんですけど。いろいろ話したいことはあるですけど、巧くまとまらないですね。また、来てもいいですか? 流石に部室ほど頻繁には来られないですけど、困ったり、行き詰まったり、何か……話したくなったら、お姉さまに頼りたいんです。じゃあ、お暇しますね」

 部屋を後にし、改めてお母様にお礼を言う。すると、またいらしてくださいと言ってもらえた。
 玄関から出ると空はもうオレンジと紫がせめぎあう様相を呈していた。


――ありがとう。またね――


 一陣の風に乗って、先輩の声が聞こえたような気がした。気のせいかもしれないけれど、私はその言葉に笑顔で頷いた。
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